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第六章《三つ目の伝説とサクラ》
【八】
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「ここが家の書庫です。この量だと一ヶ月の滞在でも足りないでしょう?」
そう春の宮が誇らしげにしていただけはある。
書物だけで弥生の屋敷を埋めつくせるほど、書庫は広く書物も豊富だった。壁一面に本が飾られ、二階まで設けられているこの部屋は、たしかに危険を犯してでも入る価値はありそうだ。
「……先程は、不快な思いをさせてしまいましたね」
春の宮は書を手にするなり呟いた。
「私が申し上げても説得力がないかもしれませんが、あなたの御身は、決して傷つけたりは致しません。この春の宮……いいえ、『椿』の名において誓います」
後光のように差し込む光を受ける春の宮に、紅子は「どうして」と困惑する。
「なぜそこまでしてくださるのですか。春の宮様の隠し名にお誓いするほどのことでしょうか」
隠し名は春の宮の本当の名前であり、公にすることが許されていない名前でもある。家族や親族の一部の人しか知らず、また夫となる者にすら教えないこともある。その隠し名を知っているというだけで命を狙われることも有り得るのだ。
「ええ。弥生さんのために命を懸けて敵地へいらしてくださったのですから、私も全力でお守りするというのが筋というものです。それに……弥生さんがとても大事になさっている方は、私にとっても大事な方なのです」
ふっと花が綻ぶような笑みに、紅子の胸は微かに痛くなる。
「それは、あの……弥生様のことが大事だからでしょうか」
紅子の問いに春の宮は怪訝そうに首を傾げる。
「その、つまり……弥生さんのことを、本当のところは好いておられるのでは、と」
数秒、間があった。
春の宮はふと考えるように唇に人差し指を当て、
「仮にそうだとして、あなたはどうなさるおつもり?」
と問いを返した。
紅子は「どう、にもできないです」とか細い声を出す。
「弥生様には、本当は春の宮様のような相応しい方がいらっしゃることはわかります」
「では、身を引くのですか?」
「それが弥生様のためになるのでしたら、喜んで」
と紅子は目を閉じる。
脳裏に、彼の優しい笑顔が浮かぶ。その笑顔が自分以外に向けられるのは、実を言うなら寂しいし、胸がジンと痺れるみたいに痛くなる。
──けれど、あなたの幸せの方が大事だから。
あなたの未来の方が、私の一時の感情よりもずっとずっと大事だから。
春の宮は息を吐き、「弥生さんが苦労するわけだわ」と苦く笑う。
「私は幼少の頃に三度弥生さんにお会いしただけです。初対面のときは結婚だなんて意味がわからず、この人と二人で過ごすんだと教えられたときに、ちょっとだけ楽しそうだと思ったことは否めません。けれど二度目の対面のとき、会話が続かずに息苦しかった記憶しかありません。三度目は……彼の身内が亡くなったときでしたから、お悔やみの言葉を述べて終わりました。
そんな親戚と変わらないようなやり取りしかしてないのに結婚とか、少し虚しくなったこともありました。けれど弥生さんは、どこか達観していたというか、諦めていたというか。
そんな彼だったから、婚約者の報告を受けた時はすごく驚いたんです。あの人が自分で道を歩み始めたのだと感じました。きっとその道には、紅子さんが必要なんだと思いますよ。
こんなに良い婚約者を振ってまで、あなたと共にこの先在りたい、と願った彼の気持ちを見ないふりするのは失礼だと思いますが?」
にこ、とイタズラを企む子どものような表情をする春の宮は、
「弥生さんのため、と仰るなら、この先の茨の道を共に歩むことをお勧めしますわ」
弥生と同じような立場──否、おそらくそれ以上に生きていく上で制限をかけられている彼女の言葉は、とても重く、とても切実だ。
紅子は自信なさげな顔を上げた。
「私は、自分に自信がありません。自信なんて持てません。まして弥生様のような家柄もお人柄も良い方の伴侶となるなんて、きっと私には務まらないと、そう自分に言い聞かせていました。……けれど、願ってしまったのです。あの方の隣に在りたいと、分不相応なことを思ってしまった。……先程の発言は、ただ私の逃げ道を作るためのものでしたね。
春の宮様、ありがとうございます」
光を浴びて煌めく髪に、春の宮は目を細める。
眩しくて、輝いていて、こんな闇を抱えている私すらも、あなたの見ている世界に連れて行ってくれそうな──……。
「……ホント、弥生さんが羨ましいですわ」
小さく放られた言葉は彼女の耳には届いていないようで、もう資料を探し始めている。
春の宮は手に取っていた本をパラッとめくる。
伝承が子どもでもわかりやすいような語りになっているその本は、一体何回読んだかわからない。
外で遊ぶことも良くないことと禁じられていて、檻のような部屋でただひたすら時が過ぎるのを待っていたのは、ほんの最近のこと。
一刻も早く資料が見つかれば良いという思いと同時に、見つからなければ良いのにという感情も湧いてくる。
──そんなこと、絶対に言えませんけど。
口元に浮かんだ微笑を隠すように、春の宮は本を持つ腕を少し上げた。
そう春の宮が誇らしげにしていただけはある。
書物だけで弥生の屋敷を埋めつくせるほど、書庫は広く書物も豊富だった。壁一面に本が飾られ、二階まで設けられているこの部屋は、たしかに危険を犯してでも入る価値はありそうだ。
「……先程は、不快な思いをさせてしまいましたね」
春の宮は書を手にするなり呟いた。
「私が申し上げても説得力がないかもしれませんが、あなたの御身は、決して傷つけたりは致しません。この春の宮……いいえ、『椿』の名において誓います」
後光のように差し込む光を受ける春の宮に、紅子は「どうして」と困惑する。
「なぜそこまでしてくださるのですか。春の宮様の隠し名にお誓いするほどのことでしょうか」
隠し名は春の宮の本当の名前であり、公にすることが許されていない名前でもある。家族や親族の一部の人しか知らず、また夫となる者にすら教えないこともある。その隠し名を知っているというだけで命を狙われることも有り得るのだ。
「ええ。弥生さんのために命を懸けて敵地へいらしてくださったのですから、私も全力でお守りするというのが筋というものです。それに……弥生さんがとても大事になさっている方は、私にとっても大事な方なのです」
ふっと花が綻ぶような笑みに、紅子の胸は微かに痛くなる。
「それは、あの……弥生様のことが大事だからでしょうか」
紅子の問いに春の宮は怪訝そうに首を傾げる。
「その、つまり……弥生さんのことを、本当のところは好いておられるのでは、と」
数秒、間があった。
春の宮はふと考えるように唇に人差し指を当て、
「仮にそうだとして、あなたはどうなさるおつもり?」
と問いを返した。
紅子は「どう、にもできないです」とか細い声を出す。
「弥生様には、本当は春の宮様のような相応しい方がいらっしゃることはわかります」
「では、身を引くのですか?」
「それが弥生様のためになるのでしたら、喜んで」
と紅子は目を閉じる。
脳裏に、彼の優しい笑顔が浮かぶ。その笑顔が自分以外に向けられるのは、実を言うなら寂しいし、胸がジンと痺れるみたいに痛くなる。
──けれど、あなたの幸せの方が大事だから。
あなたの未来の方が、私の一時の感情よりもずっとずっと大事だから。
春の宮は息を吐き、「弥生さんが苦労するわけだわ」と苦く笑う。
「私は幼少の頃に三度弥生さんにお会いしただけです。初対面のときは結婚だなんて意味がわからず、この人と二人で過ごすんだと教えられたときに、ちょっとだけ楽しそうだと思ったことは否めません。けれど二度目の対面のとき、会話が続かずに息苦しかった記憶しかありません。三度目は……彼の身内が亡くなったときでしたから、お悔やみの言葉を述べて終わりました。
そんな親戚と変わらないようなやり取りしかしてないのに結婚とか、少し虚しくなったこともありました。けれど弥生さんは、どこか達観していたというか、諦めていたというか。
そんな彼だったから、婚約者の報告を受けた時はすごく驚いたんです。あの人が自分で道を歩み始めたのだと感じました。きっとその道には、紅子さんが必要なんだと思いますよ。
こんなに良い婚約者を振ってまで、あなたと共にこの先在りたい、と願った彼の気持ちを見ないふりするのは失礼だと思いますが?」
にこ、とイタズラを企む子どものような表情をする春の宮は、
「弥生さんのため、と仰るなら、この先の茨の道を共に歩むことをお勧めしますわ」
弥生と同じような立場──否、おそらくそれ以上に生きていく上で制限をかけられている彼女の言葉は、とても重く、とても切実だ。
紅子は自信なさげな顔を上げた。
「私は、自分に自信がありません。自信なんて持てません。まして弥生様のような家柄もお人柄も良い方の伴侶となるなんて、きっと私には務まらないと、そう自分に言い聞かせていました。……けれど、願ってしまったのです。あの方の隣に在りたいと、分不相応なことを思ってしまった。……先程の発言は、ただ私の逃げ道を作るためのものでしたね。
春の宮様、ありがとうございます」
光を浴びて煌めく髪に、春の宮は目を細める。
眩しくて、輝いていて、こんな闇を抱えている私すらも、あなたの見ている世界に連れて行ってくれそうな──……。
「……ホント、弥生さんが羨ましいですわ」
小さく放られた言葉は彼女の耳には届いていないようで、もう資料を探し始めている。
春の宮は手に取っていた本をパラッとめくる。
伝承が子どもでもわかりやすいような語りになっているその本は、一体何回読んだかわからない。
外で遊ぶことも良くないことと禁じられていて、檻のような部屋でただひたすら時が過ぎるのを待っていたのは、ほんの最近のこと。
一刻も早く資料が見つかれば良いという思いと同時に、見つからなければ良いのにという感情も湧いてくる。
──そんなこと、絶対に言えませんけど。
口元に浮かんだ微笑を隠すように、春の宮は本を持つ腕を少し上げた。
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