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第六章《三つ目の伝説とサクラ》
【三】
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快く了承した弥生ではあったが、部屋に誘われた途端に歯切れが悪くなった。
「あの、やっぱりこんな夜半にご迷惑でしたか?」
緑茶の注がれた器を彼の手前に置き、しゅんと項垂れながら向かい側の席につく。
「迷惑……では全然ないのですが」
弥生は月を浴びた髪を掻き、言葉を探すように視線を逸らした。
「貴方には、もう少し危機感を持っていただきたいですね」
「え?」
目を瞬かせる彼女を見つめ、彼は困ったように眉を下げる。
「これじゃ、旅行のときの二の舞になりますよ」
旅行のとき、と記憶を手繰った彼女は、察したのかみるみる頬が紅潮していく。
「ちが……っあの、それを言うのでしたら以前秋桐様だって私の部屋にいらしたでしょう?」
必死に弁明する彼女に、弥生は「わかってないですね」と息をついた。
「一つ。あのときのあなたは病人でしたが今は違います。二つ。旅行のときの言質──お忘れですか?」
指を立てて説明され、紅子は「ですが」と弱々しく反駁する。
「それともう一つありましたね。名前で呼んで欲しいと言ったこと、それもお忘れのようですね」
と微笑みを向けられた紅子は、言葉を返すことができない。
「……なんて、意地悪が過ぎましたね。あまりに無警戒なものですから、つい」
すみません、と彼は本心を隠すように目を細めた。
「あの、それはすみませんでした……でも、あの……お土産を、渡したかっただけなんです」
「お土産?」
眼鏡の奥の瞳が大きく開かれる。
頷いた紅子は椅子を引き、宝飾品を入れる棚の上に置かれていた飴細工を手に、再び彼の目の前に立つ。
「こちらです」
差し出された飴細工に、弥生は「これは」と声を落とした。
「帰りは一緒には居られなかったので、一緒に村を回ることはできませんでしたから。なにか思い出に残るものを、と思ったのです。その──……」
きゅっと手を握り、真っ赤な耳を晒しながら彼女は言う。
「ふ、二人で行く初めての遠出でしたから」
茹でダコのように真っ赤になるが、弥生は紅子ではなく飴細工をまじまじと眺めている。
「……ありがとうございます」
ふっと優しく口角を上げた弥生は、飴細工を手に立ち上がった。
「けれど、こちらはあなたにもっていてほしいですね」
と青い龍を彼女に握らせた。
「この赤い龍は私にください」
と透明な袋の上から飴細工に口づけをした。
「この龍の赤は、あなたの髪と同じ色ですね。いきなり食べてしまうのは気が引けます。まずはじっくり眺めてから……それから、ゆっくり味わうことにしましょう」
と赤い舌をわずかに覗かせる弥生に、
「あ、飴細工の話……ですよね?」
「飴細工の話ですよ?それとも……」
と彼は紅子のすぐ耳元で囁いた。
「──実際に、されたいですか?」
吐息に肩がぴくりと震え、足もおぼつかない様子で、立っているだけなのにふらふらと揺れて危なっかしい。
「大丈夫ですか?」
そんな彼女の様子を楽しむように、弥生はくすくすと笑っている。
「だ、大丈夫じゃなくしてるの、秋桐様じゃないですか」
キッと眦を吊り上げるその潤んだ瞳に、弥生は「駄目ですよ」と言った。
「その顔は、逆効果というものです」
するりと頬に手を回され、細める目がかすかに痙攣する。
ぎゅっと目を瞑った紅子を前に、彼の手はぴたりと止められた。
「……そんな反応されると、強引にでも触れたくなってしまうのですが」
呟いた弥生は、紅子の細い腰に手を回して抱き寄せた。いつぞやの夜と同じ展開に、彼女の心臓は破れそうなほど大きな音を立てる。
既に了承してしまっていることに対し、恨めしい思いと同時に安堵の感情もあったことにそのとき気づく。
──触れて欲しいと、どこかでずっと思っていたということ……?
今までに経験したことのない自分の感情の変化に、彼女の心中は羞恥で覆い尽くされていく。
「今度は、止めませんよ」
回された腕に力が込められたことを感じとり、紅子は身体をより一層熱くした。
近づく端正な顔を見つめ続けることができず、彼女は薄く目を閉じる。
唇に吐息がかかる距離まで近づき、そのまま柔くカサリとした感触が訪れた。
自分のものではない熱の感覚に、酷く戸惑う。けれど、その熱がとても愛おしく感じる。紅子は離れた熱を惜しげに見つめ、自身の口元に手を添えた。
束の間の時が過ぎ、弥生は腕を解いた──かと思うと、近くの椅子にふらふらと体重を預けた。
「あき……弥生様?」
彼は鼻から下を手で覆い、
「………………幸せという感情は、きっとこれを指すのだろうな」
細い声が室内に消える。
聞き間違いかと、紅子は自分の耳を疑った。
「弥生様、それは」
──それは、期待してもいいということですか。
コンコンと小さくノックされたかと思うと、
「あーちゃん、まだ起きてる……?」
と愛らしい少女の声が外から聞こえた。
サクラだ、と扉に向かおうとする手を捕まれ、引き寄せられた。
「あっ……!?」
小さな悲鳴はすぐに消え、彼女の頭は弥生の胸の中に収まっていた。
突然のことに思考が回らず、紅子はぐるぐる目を回す。
「あ、あのあき……っ」
名を呼ぼうとしたが、顎を掬い取られかと思うとその口を彼のモノで塞がれた。
「今は、そっちの名を呼ばれたくないな」
熱の篭った視線を向けられた紅子の背は、またゾクリと震えた。
「今だけでいい。私だけを意識してほしい」
また唇を重ねられ、紅子の呼吸は乱される。脳が正常に機能せず、甘く痺れた感覚に酔いしれそうになる。
「それは……っ私の、方こそ……あなたの目に、今だけども映ればいいと思っているのは、私の方です」
考え無しの言葉が口から溢れ出た。
けれどその言葉に、彼女自身が目を見張った。
好きになりかけてるとか、惚れそうになるとか、一歩退いたかのような言い方で誤魔化してきた。けれどこれはもう、言い訳ができない。
冷たい瞳も、今向けられている情熱も、優しい微笑みも、細いのに力強い腕も、その声も、全て目に、体に、焼き付いて離れない。
「思い通りになるのは嫌だけどそれ以前に……私は、貴方との縁を、貴方の手で切られたくありません……っ」
決壊した感情の波に呑まれ、形になったものが彼の頬に落ちた。
弥生は声もなく、ただ震えながら涙を流す彼女を見つめた。
「……貴方の自由を思って言ったんだが」
呟かれた言葉に「え?」と赤くなった目を擦りながら顔を上げる。
その手に優しく触れ、もう一方の手でテーブルに置かれていた紙ナプキンを取ると彼女の目元にあてた。
「あのときは、貴方が心置きなくこの屋敷を出られればと思って言ったんだ。けれどそれがあなたを泣かせることになるなんて……許してほしい」
またも腕を回され、抱きしめられる。心臓の音が大きく早くなっていく。照れくさい。が、ずっとこのまま彼の腕の中に居たいとも思ってしまう。
「望んでいるよ。貴方が、この屋敷にずっと留まってくれることを……私も、望んでいる」
弥生の口から紡がれた言葉に、紅子の瞳から再び涙が生成されていく。
優しい夜は、まるで彼女たちの時間を尊重するかのように、ゆったりと過ぎていった。
「あの、やっぱりこんな夜半にご迷惑でしたか?」
緑茶の注がれた器を彼の手前に置き、しゅんと項垂れながら向かい側の席につく。
「迷惑……では全然ないのですが」
弥生は月を浴びた髪を掻き、言葉を探すように視線を逸らした。
「貴方には、もう少し危機感を持っていただきたいですね」
「え?」
目を瞬かせる彼女を見つめ、彼は困ったように眉を下げる。
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「それともう一つありましたね。名前で呼んで欲しいと言ったこと、それもお忘れのようですね」
と微笑みを向けられた紅子は、言葉を返すことができない。
「……なんて、意地悪が過ぎましたね。あまりに無警戒なものですから、つい」
すみません、と彼は本心を隠すように目を細めた。
「あの、それはすみませんでした……でも、あの……お土産を、渡したかっただけなんです」
「お土産?」
眼鏡の奥の瞳が大きく開かれる。
頷いた紅子は椅子を引き、宝飾品を入れる棚の上に置かれていた飴細工を手に、再び彼の目の前に立つ。
「こちらです」
差し出された飴細工に、弥生は「これは」と声を落とした。
「帰りは一緒には居られなかったので、一緒に村を回ることはできませんでしたから。なにか思い出に残るものを、と思ったのです。その──……」
きゅっと手を握り、真っ赤な耳を晒しながら彼女は言う。
「ふ、二人で行く初めての遠出でしたから」
茹でダコのように真っ赤になるが、弥生は紅子ではなく飴細工をまじまじと眺めている。
「……ありがとうございます」
ふっと優しく口角を上げた弥生は、飴細工を手に立ち上がった。
「けれど、こちらはあなたにもっていてほしいですね」
と青い龍を彼女に握らせた。
「この赤い龍は私にください」
と透明な袋の上から飴細工に口づけをした。
「この龍の赤は、あなたの髪と同じ色ですね。いきなり食べてしまうのは気が引けます。まずはじっくり眺めてから……それから、ゆっくり味わうことにしましょう」
と赤い舌をわずかに覗かせる弥生に、
「あ、飴細工の話……ですよね?」
「飴細工の話ですよ?それとも……」
と彼は紅子のすぐ耳元で囁いた。
「──実際に、されたいですか?」
吐息に肩がぴくりと震え、足もおぼつかない様子で、立っているだけなのにふらふらと揺れて危なっかしい。
「大丈夫ですか?」
そんな彼女の様子を楽しむように、弥生はくすくすと笑っている。
「だ、大丈夫じゃなくしてるの、秋桐様じゃないですか」
キッと眦を吊り上げるその潤んだ瞳に、弥生は「駄目ですよ」と言った。
「その顔は、逆効果というものです」
するりと頬に手を回され、細める目がかすかに痙攣する。
ぎゅっと目を瞑った紅子を前に、彼の手はぴたりと止められた。
「……そんな反応されると、強引にでも触れたくなってしまうのですが」
呟いた弥生は、紅子の細い腰に手を回して抱き寄せた。いつぞやの夜と同じ展開に、彼女の心臓は破れそうなほど大きな音を立てる。
既に了承してしまっていることに対し、恨めしい思いと同時に安堵の感情もあったことにそのとき気づく。
──触れて欲しいと、どこかでずっと思っていたということ……?
今までに経験したことのない自分の感情の変化に、彼女の心中は羞恥で覆い尽くされていく。
「今度は、止めませんよ」
回された腕に力が込められたことを感じとり、紅子は身体をより一層熱くした。
近づく端正な顔を見つめ続けることができず、彼女は薄く目を閉じる。
唇に吐息がかかる距離まで近づき、そのまま柔くカサリとした感触が訪れた。
自分のものではない熱の感覚に、酷く戸惑う。けれど、その熱がとても愛おしく感じる。紅子は離れた熱を惜しげに見つめ、自身の口元に手を添えた。
束の間の時が過ぎ、弥生は腕を解いた──かと思うと、近くの椅子にふらふらと体重を預けた。
「あき……弥生様?」
彼は鼻から下を手で覆い、
「………………幸せという感情は、きっとこれを指すのだろうな」
細い声が室内に消える。
聞き間違いかと、紅子は自分の耳を疑った。
「弥生様、それは」
──それは、期待してもいいということですか。
コンコンと小さくノックされたかと思うと、
「あーちゃん、まだ起きてる……?」
と愛らしい少女の声が外から聞こえた。
サクラだ、と扉に向かおうとする手を捕まれ、引き寄せられた。
「あっ……!?」
小さな悲鳴はすぐに消え、彼女の頭は弥生の胸の中に収まっていた。
突然のことに思考が回らず、紅子はぐるぐる目を回す。
「あ、あのあき……っ」
名を呼ぼうとしたが、顎を掬い取られかと思うとその口を彼のモノで塞がれた。
「今は、そっちの名を呼ばれたくないな」
熱の篭った視線を向けられた紅子の背は、またゾクリと震えた。
「今だけでいい。私だけを意識してほしい」
また唇を重ねられ、紅子の呼吸は乱される。脳が正常に機能せず、甘く痺れた感覚に酔いしれそうになる。
「それは……っ私の、方こそ……あなたの目に、今だけども映ればいいと思っているのは、私の方です」
考え無しの言葉が口から溢れ出た。
けれどその言葉に、彼女自身が目を見張った。
好きになりかけてるとか、惚れそうになるとか、一歩退いたかのような言い方で誤魔化してきた。けれどこれはもう、言い訳ができない。
冷たい瞳も、今向けられている情熱も、優しい微笑みも、細いのに力強い腕も、その声も、全て目に、体に、焼き付いて離れない。
「思い通りになるのは嫌だけどそれ以前に……私は、貴方との縁を、貴方の手で切られたくありません……っ」
決壊した感情の波に呑まれ、形になったものが彼の頬に落ちた。
弥生は声もなく、ただ震えながら涙を流す彼女を見つめた。
「……貴方の自由を思って言ったんだが」
呟かれた言葉に「え?」と赤くなった目を擦りながら顔を上げる。
その手に優しく触れ、もう一方の手でテーブルに置かれていた紙ナプキンを取ると彼女の目元にあてた。
「あのときは、貴方が心置きなくこの屋敷を出られればと思って言ったんだ。けれどそれがあなたを泣かせることになるなんて……許してほしい」
またも腕を回され、抱きしめられる。心臓の音が大きく早くなっていく。照れくさい。が、ずっとこのまま彼の腕の中に居たいとも思ってしまう。
「望んでいるよ。貴方が、この屋敷にずっと留まってくれることを……私も、望んでいる」
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