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第五章《動く心と呪いの石》
【九】
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長い道のりで固くなった身体に顔を顰めながら、紅子はぐっと腕を伸ばす。既に日は暮れ、空では星が各々主張している。
「おかえりなさいませ」
夜も遅いというのに、屋敷の使用人たちはずらりと列をつくっていた。
「お疲れでしょう。お湯の用意はできております」
と優しい笑みを向けられ、紅子は小さく頷く。
「ありがとうございます。弥生様はもうお休みになられているのですか?」
「いえ、お仕事で出かけておいでです。遅くなりそうだから先にお休みになるよう言伝を頂いております」
「そうですか」
眉を下げた紅子だったが、すぐに笑顔を絹峰に向ける。
「これお土産なのですが、渡してもらってもいいですか?」
絹峰は受け取ろうとした手をピタリと止め、かすかに首を振った。
「若奥様が直接お渡しになられたほうがお喜びになるかと」
見透かされたような瞳に苦笑が零れる。大人しく手を引き、
「わかりました。そうします」
とはにかむ。
紅子たちが屋敷に入り、自室に戻るまで見届けた絹峰は眉を下げて溜息をついた。
時は昨日に遡る。
主のいない屋敷を掃除したり、炊事をしたり、書類整理をしたりと絹代が歳を感じさせない働きぶりを見せていたのだが。
「絹峰さん!」
バタバタと廊下を走る音に続き、切羽詰まった声色が執務室に響く。
「どうしたの」
女中は眉を八の字にして絹峰に駆け寄る。息が荒い。ただならぬ様子の女中に「落ち着いて」と言い聞かせる。
「大丈夫だから。何があったの」
宥めるように背をさすると、女中は真っ青な顔で手紙のようなものを渡してきた。
「む、村から……私の村から届いた手紙です」
震える女中の手から受け取った文を流し読み、にわかには信じられない文面に言葉を失った。
──ただでさえ面倒ごとを抱えていらっしゃるというのに。
今にも倒れそうな女中に笑みを向け、
「事情はわかりました。領主様に相談してみましょう」
「は、はい……あの、領主様に、ですか」
不安げな顔をする女中に、「顔に出てしまっていますよ」と注意を促す。
「領主様は、お仕事はきちんとしてくださいます。村の方も対処してくださるでしょう」
「……私は、あの方は信用できません」
「ちょっと」
「実の子どもを殺す人を信用なんかできま──」
握る拳を震わせながら、女中は涙目で叫ぶ。その口をパッと塞ぎ、
「口を慎みなさい」
と低い声で制する。
押し黙った女中に、
「誰がどこで聞いているかわからないのです。自分の命が惜しくば、二度とそのようなことを口にするんじゃありませんよ」
蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった女中の肩を軽く叩き、絹峰は背を向けて自室へと向かった。
***
「死人が襲ってくる……ですか」
弥生の言葉を繰り返したクロは口元に手を当てて唸る。
「それともう一つ……これまた吉報とは言えないものですが」
と困ったように笑いながら手紙を見せる。
受け取った手紙を流し読むクロの表情が苦いものになる。
「よりによってこんな時に……」
とぼやくクロに、弥生は「こんな時だからでしょうね」と頭を搔く。
「婚約者が降って湧いたんです。候補として挙げられていた家としては、まぁ文句も言いたくなるでしょう」
それに、と弥生は眉を下げる。
「今回の騒動は、この家の力を借りないと厳しいかもしれません」
クロは唇を噛み、無言で肯定した。
「あの家──というかあの家の当主と奥方に介入されないよう最善を尽くすしかないでしょうね」
「そうですね。それはまぁクロに一任します」
丸投げしてきた主に「御意」と膝を折る。
弥生は赤に染まりつつある月を見上げ、
「──あなたは」
心ここに在らず、といった様子で続ける。
「かつての人たちに、あなたの今を知ってもらいたいとは思わないのですか」
今までだったらそんなこと聞いてこなかったのに、とクロは目を瞬く。
この主は良くも悪くも人に頓着しない。だから基本他人の感情に踏み入ったりしない。
若奥様の影響か、と唇が緩くなる。
クロは感触を確かめるように自身の胸に手を当てた。鼓動が小さな音を規則正しく鳴らしている。
「それをしてしまうと、この体の主が本当に消えてしまう気がするので」
溢れ出た本心に、弥生は「そうですか」とだけ呟いた。
全てを焼け尽くさんとするかのような朝日を前に、弥生は顎を引く。横髪が頬にかかり、彼の表情を隠した。
「おかえりなさいませ」
夜も遅いというのに、屋敷の使用人たちはずらりと列をつくっていた。
「お疲れでしょう。お湯の用意はできております」
と優しい笑みを向けられ、紅子は小さく頷く。
「ありがとうございます。弥生様はもうお休みになられているのですか?」
「いえ、お仕事で出かけておいでです。遅くなりそうだから先にお休みになるよう言伝を頂いております」
「そうですか」
眉を下げた紅子だったが、すぐに笑顔を絹峰に向ける。
「これお土産なのですが、渡してもらってもいいですか?」
絹峰は受け取ろうとした手をピタリと止め、かすかに首を振った。
「若奥様が直接お渡しになられたほうがお喜びになるかと」
見透かされたような瞳に苦笑が零れる。大人しく手を引き、
「わかりました。そうします」
とはにかむ。
紅子たちが屋敷に入り、自室に戻るまで見届けた絹峰は眉を下げて溜息をついた。
時は昨日に遡る。
主のいない屋敷を掃除したり、炊事をしたり、書類整理をしたりと絹代が歳を感じさせない働きぶりを見せていたのだが。
「絹峰さん!」
バタバタと廊下を走る音に続き、切羽詰まった声色が執務室に響く。
「どうしたの」
女中は眉を八の字にして絹峰に駆け寄る。息が荒い。ただならぬ様子の女中に「落ち着いて」と言い聞かせる。
「大丈夫だから。何があったの」
宥めるように背をさすると、女中は真っ青な顔で手紙のようなものを渡してきた。
「む、村から……私の村から届いた手紙です」
震える女中の手から受け取った文を流し読み、にわかには信じられない文面に言葉を失った。
──ただでさえ面倒ごとを抱えていらっしゃるというのに。
今にも倒れそうな女中に笑みを向け、
「事情はわかりました。領主様に相談してみましょう」
「は、はい……あの、領主様に、ですか」
不安げな顔をする女中に、「顔に出てしまっていますよ」と注意を促す。
「領主様は、お仕事はきちんとしてくださいます。村の方も対処してくださるでしょう」
「……私は、あの方は信用できません」
「ちょっと」
「実の子どもを殺す人を信用なんかできま──」
握る拳を震わせながら、女中は涙目で叫ぶ。その口をパッと塞ぎ、
「口を慎みなさい」
と低い声で制する。
押し黙った女中に、
「誰がどこで聞いているかわからないのです。自分の命が惜しくば、二度とそのようなことを口にするんじゃありませんよ」
蛇に睨まれた蛙のように動かなくなった女中の肩を軽く叩き、絹峰は背を向けて自室へと向かった。
***
「死人が襲ってくる……ですか」
弥生の言葉を繰り返したクロは口元に手を当てて唸る。
「それともう一つ……これまた吉報とは言えないものですが」
と困ったように笑いながら手紙を見せる。
受け取った手紙を流し読むクロの表情が苦いものになる。
「よりによってこんな時に……」
とぼやくクロに、弥生は「こんな時だからでしょうね」と頭を搔く。
「婚約者が降って湧いたんです。候補として挙げられていた家としては、まぁ文句も言いたくなるでしょう」
それに、と弥生は眉を下げる。
「今回の騒動は、この家の力を借りないと厳しいかもしれません」
クロは唇を噛み、無言で肯定した。
「あの家──というかあの家の当主と奥方に介入されないよう最善を尽くすしかないでしょうね」
「そうですね。それはまぁクロに一任します」
丸投げしてきた主に「御意」と膝を折る。
弥生は赤に染まりつつある月を見上げ、
「──あなたは」
心ここに在らず、といった様子で続ける。
「かつての人たちに、あなたの今を知ってもらいたいとは思わないのですか」
今までだったらそんなこと聞いてこなかったのに、とクロは目を瞬く。
この主は良くも悪くも人に頓着しない。だから基本他人の感情に踏み入ったりしない。
若奥様の影響か、と唇が緩くなる。
クロは感触を確かめるように自身の胸に手を当てた。鼓動が小さな音を規則正しく鳴らしている。
「それをしてしまうと、この体の主が本当に消えてしまう気がするので」
溢れ出た本心に、弥生は「そうですか」とだけ呟いた。
全てを焼け尽くさんとするかのような朝日を前に、弥生は顎を引く。横髪が頬にかかり、彼の表情を隠した。
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