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第五章《動く心と呪いの石》
【四】
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部屋を出た弥生は大きな浴槽に数分浸かり、すぐに湯から上がった。
火照った肌を晒しながら桶と手拭いと石鹸を小脇にはさみ、年代を感じさせる廊下を軋ませながら歩く。
その途中の廊下で、櫛を手にした仲居が弥生を見るなり微笑んだ。
「お久しぶりですね、弥生様」
親しげに名を呼ぶ女に苦笑を返す。
「お久しぶりです。まさかここで働いているとは思いませんでしたよ」
「そう?実は予測してたんじゃない?」
という指摘に、弥生は否定も肯定もせずに口角を上げた。
「ほんと食えない男。ところであの女はお姉さん?それとも妹?」
「いえ、妻です」
告げられた方の仲居はぴくりと眉を動かし、
「そーなの」
「そうなんですよ」
つれない反応に彼女は、
「以前私に言ってくれたことは嘘だったの?」
と耳にかかっている髪を指で弄ぶ。
弥生は目を伏せ、
「嘘になってしまいましたね」
「そこはもう少し苦しみながら言う場面でしょ」
ほんと変わってない、と仲居は洩らす。
「今回あなたがこの宿にきたとき、ちょっと……いいえ、かなり期待してたのよ」
「申し訳ありません」
「……謝罪なんかがほしいわけじゃない」
と目を吊り上げ、
「紅い髪だから婚約したんでしょ?」
弥生は口を開きかけたが、遮るように、
「そうだって、言ってよ」
仲居は弥生の浴衣に指をかけ、消え入りそうな声で言った。
──修羅場……?
すっかり白い肌を取り戻した紅子は、無料で飲めるお茶が置いてある大広間へ向かっていた。
だがその方向は、露天風呂へ行く道と途中まで同じであり、タイミング悪く現場に居合わせたのだ。慌てて死角となる壁に背をつけたものの、気になる会話は聞こえてくる。
出ていくタイミングを完全に逃した彼女は、今現在身動きが取れずにいた。
ちなみに仲居の方から声をかけた場面からばっちり目撃している。
そろ、と顔をのぞかせ二人を見ると、仲居と弥生はじっと見つめあっていた。いい雰囲気に包まれているようにしか見えない。
「紅い髪だから婚約したんでしょ?」
仲居の指摘に、紅子はぴくりと肩を震わせた。
紅い髪だとなにか特別なのだろうか。いやでも、何か目的があって婚約したのは間違いない。
いやそれ以前に、どこで髪の色を知られたのだ、と紅子は顔を青くする。
普段外に出る時、彼女は覡の双子から渡された布地を被っていた。
滋宇やノアいわく、
「真っ黒な髪に見える」
とのことだった。
二重の意味で、どくんどくんと心臓の音が大きくなっていく。
「たしかに、それはあります」
微かな間の後、弥生はため息混じりに呟いた。
紅子は唇を引き結び、踵を返した。
足が自然と速く動く。
目頭が熱くなり、じんわりと視界が滲む。
仮面夫婦だと、契約上の関係だと割り切ったつもりだった。けれど、彼女は想像していた以上のショックを受けてしまった。
自分の心を秘めることは得意だが、人間関係を割り切ることは彼女の不得意分野だった。
部屋の扉を閉め、ずるりとその背にもたれかかる。
──つくづく思う。
私を本気で好きになってくれる人なんていないのかもしれない。
いや、百歩譲ってそれでもいい。よくはないけどまあいい。それ以上に、期待してしまうことが嫌なのだ。
もしかしたら、というその先の未来を望んでしまうことが怖いのだ。勝手に相手も同じ思いでいてくれると解釈した愚かな自分を呪いたい。
紅子は頭を抱えてうずくまる。
──まだあの男が気になってるんですか。
風呂場での陽時厘の言葉が頭から抜けない。
今でも彼の声や表情を思い浮かべるくらいには、彼を気にしているし慕っている。
忘れたくてその地を離れたのに、と紅子は唇を噛む。
いや止めよう、と紅子は両手を組んで額にあてる。考えても仕方のないことだと。
ふらりと立ち上がり、彼女は覚束無い足取りで部屋を出た。
***
「たしかに、それはあります」
弥生の言葉に、肯定されると思わなかった仲居は目を見開いた。
仲居の──翡翠の細い唇が緩む。
そんな仲居の様子に一瞬動きをとめた弥生だったが、ゆっくりとした仕草で浴衣にかけられた指を外した。
翡翠はその手をすかさず握り、
「私を選んでよ」
とその手を自身の頬に擦り寄せた。
「……約束を、未だ夢見ているとは思っていませんでした」
「乙女は夢を見続けるものよ。それとも何?それを馬鹿にしてる?」
翡翠はすん、と鼻を鳴らし眉根を寄せた。弥生は困ったような笑みを返し、
「そうだと言ったら、この手を離してくださいますか」
翡翠は握る手に力を込め、唇をきゅっと結んだ。
「どうして、彼女がいいの?」
どうして私じゃ駄目なの。
仲居の指摘に、弥生は軽く唸った。
「絶対に彼女でなければならない、という理由なら、家の事情を差し引くとなくなりますね」
正直な物言いに、彼女は顔をしかめる。
「やっぱあなた……ひどいわね。彼女が可哀想だわ。やっぱり私くらいしかあなたのその考えについていってあげられないと思うけど」
自然な流れで自分を売り込む彼女をスルーし、
「そうですね、あまり信じてはいなかったのですが……強いて言うなら一目惚れです」
翡翠は声を詰まらせた。
意味がわからない、と目が雄弁に語っている。けれどその瞳に映る彼は、とても優しい表情をしていた。
「あの人は、他に好いておられる方がいるんです」
「えっ?」
予想外の情報に、翡翠は声を短く洩らす。
「そのときの顔がとても愛らしくて……奪ってきちゃいました」
相変わらずこの男は、と翡翠は目をすがめる。
嘘なんだか本当なんだか、曖昧な態度で言葉を交わす。
それが少し楽しくて、けれどその本心を垣間見たくて。
──結局、最後までわからなかった。
翡翠はため息を零し、手を放す。
「ハイハイ。もーわかったわよ」
むすっとした顔で仲居は手を振る。
「弥生様が私に興味ないってことがよぉくわかりましたとも。顔には自信があったんですけどね!こういうことを言うから慎ましくないだのなんだの言われて?結局見合い話がなくなったりもするんですけどね!えぇえぇ、せいぜいあの娘に振り回されてくださいませ。私の勘では、あの人は一筋縄じゃ手に入りやしませんよ」
端正な顔を歪め自嘲し、仲居は弥生に背を向けた。
「ちょーっとだけ気にかけていた縁も終わったことですし!私も気兼ねなく?縁談をお受けしようかしら!」
と天井に大きく手を伸ばし、
「良い女を逃したと後悔させてあげますわ」
振り返らずに、仲居は弥生から遠ざかっていった。
その背中は相変わらず凛としていて、彼女が泣いているだなんて思わせない態度だった。
弥生はその背になにか一言呟くと、彼女とは反対の方向へと足を踏み出した。
火照った肌を晒しながら桶と手拭いと石鹸を小脇にはさみ、年代を感じさせる廊下を軋ませながら歩く。
その途中の廊下で、櫛を手にした仲居が弥生を見るなり微笑んだ。
「お久しぶりですね、弥生様」
親しげに名を呼ぶ女に苦笑を返す。
「お久しぶりです。まさかここで働いているとは思いませんでしたよ」
「そう?実は予測してたんじゃない?」
という指摘に、弥生は否定も肯定もせずに口角を上げた。
「ほんと食えない男。ところであの女はお姉さん?それとも妹?」
「いえ、妻です」
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「そーなの」
「そうなんですよ」
つれない反応に彼女は、
「以前私に言ってくれたことは嘘だったの?」
と耳にかかっている髪を指で弄ぶ。
弥生は目を伏せ、
「嘘になってしまいましたね」
「そこはもう少し苦しみながら言う場面でしょ」
ほんと変わってない、と仲居は洩らす。
「今回あなたがこの宿にきたとき、ちょっと……いいえ、かなり期待してたのよ」
「申し訳ありません」
「……謝罪なんかがほしいわけじゃない」
と目を吊り上げ、
「紅い髪だから婚約したんでしょ?」
弥生は口を開きかけたが、遮るように、
「そうだって、言ってよ」
仲居は弥生の浴衣に指をかけ、消え入りそうな声で言った。
──修羅場……?
すっかり白い肌を取り戻した紅子は、無料で飲めるお茶が置いてある大広間へ向かっていた。
だがその方向は、露天風呂へ行く道と途中まで同じであり、タイミング悪く現場に居合わせたのだ。慌てて死角となる壁に背をつけたものの、気になる会話は聞こえてくる。
出ていくタイミングを完全に逃した彼女は、今現在身動きが取れずにいた。
ちなみに仲居の方から声をかけた場面からばっちり目撃している。
そろ、と顔をのぞかせ二人を見ると、仲居と弥生はじっと見つめあっていた。いい雰囲気に包まれているようにしか見えない。
「紅い髪だから婚約したんでしょ?」
仲居の指摘に、紅子はぴくりと肩を震わせた。
紅い髪だとなにか特別なのだろうか。いやでも、何か目的があって婚約したのは間違いない。
いやそれ以前に、どこで髪の色を知られたのだ、と紅子は顔を青くする。
普段外に出る時、彼女は覡の双子から渡された布地を被っていた。
滋宇やノアいわく、
「真っ黒な髪に見える」
とのことだった。
二重の意味で、どくんどくんと心臓の音が大きくなっていく。
「たしかに、それはあります」
微かな間の後、弥生はため息混じりに呟いた。
紅子は唇を引き結び、踵を返した。
足が自然と速く動く。
目頭が熱くなり、じんわりと視界が滲む。
仮面夫婦だと、契約上の関係だと割り切ったつもりだった。けれど、彼女は想像していた以上のショックを受けてしまった。
自分の心を秘めることは得意だが、人間関係を割り切ることは彼女の不得意分野だった。
部屋の扉を閉め、ずるりとその背にもたれかかる。
──つくづく思う。
私を本気で好きになってくれる人なんていないのかもしれない。
いや、百歩譲ってそれでもいい。よくはないけどまあいい。それ以上に、期待してしまうことが嫌なのだ。
もしかしたら、というその先の未来を望んでしまうことが怖いのだ。勝手に相手も同じ思いでいてくれると解釈した愚かな自分を呪いたい。
紅子は頭を抱えてうずくまる。
──まだあの男が気になってるんですか。
風呂場での陽時厘の言葉が頭から抜けない。
今でも彼の声や表情を思い浮かべるくらいには、彼を気にしているし慕っている。
忘れたくてその地を離れたのに、と紅子は唇を噛む。
いや止めよう、と紅子は両手を組んで額にあてる。考えても仕方のないことだと。
ふらりと立ち上がり、彼女は覚束無い足取りで部屋を出た。
***
「たしかに、それはあります」
弥生の言葉に、肯定されると思わなかった仲居は目を見開いた。
仲居の──翡翠の細い唇が緩む。
そんな仲居の様子に一瞬動きをとめた弥生だったが、ゆっくりとした仕草で浴衣にかけられた指を外した。
翡翠はその手をすかさず握り、
「私を選んでよ」
とその手を自身の頬に擦り寄せた。
「……約束を、未だ夢見ているとは思っていませんでした」
「乙女は夢を見続けるものよ。それとも何?それを馬鹿にしてる?」
翡翠はすん、と鼻を鳴らし眉根を寄せた。弥生は困ったような笑みを返し、
「そうだと言ったら、この手を離してくださいますか」
翡翠は握る手に力を込め、唇をきゅっと結んだ。
「どうして、彼女がいいの?」
どうして私じゃ駄目なの。
仲居の指摘に、弥生は軽く唸った。
「絶対に彼女でなければならない、という理由なら、家の事情を差し引くとなくなりますね」
正直な物言いに、彼女は顔をしかめる。
「やっぱあなた……ひどいわね。彼女が可哀想だわ。やっぱり私くらいしかあなたのその考えについていってあげられないと思うけど」
自然な流れで自分を売り込む彼女をスルーし、
「そうですね、あまり信じてはいなかったのですが……強いて言うなら一目惚れです」
翡翠は声を詰まらせた。
意味がわからない、と目が雄弁に語っている。けれどその瞳に映る彼は、とても優しい表情をしていた。
「あの人は、他に好いておられる方がいるんです」
「えっ?」
予想外の情報に、翡翠は声を短く洩らす。
「そのときの顔がとても愛らしくて……奪ってきちゃいました」
相変わらずこの男は、と翡翠は目をすがめる。
嘘なんだか本当なんだか、曖昧な態度で言葉を交わす。
それが少し楽しくて、けれどその本心を垣間見たくて。
──結局、最後までわからなかった。
翡翠はため息を零し、手を放す。
「ハイハイ。もーわかったわよ」
むすっとした顔で仲居は手を振る。
「弥生様が私に興味ないってことがよぉくわかりましたとも。顔には自信があったんですけどね!こういうことを言うから慎ましくないだのなんだの言われて?結局見合い話がなくなったりもするんですけどね!えぇえぇ、せいぜいあの娘に振り回されてくださいませ。私の勘では、あの人は一筋縄じゃ手に入りやしませんよ」
端正な顔を歪め自嘲し、仲居は弥生に背を向けた。
「ちょーっとだけ気にかけていた縁も終わったことですし!私も気兼ねなく?縁談をお受けしようかしら!」
と天井に大きく手を伸ばし、
「良い女を逃したと後悔させてあげますわ」
振り返らずに、仲居は弥生から遠ざかっていった。
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