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第四章《秘められた涙と潜む影》
【一】
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陽の暖かさに目がゆっくりと開かれる。
滑らかな絹の肌触りが、紅子をまた眠りへと誘う。
「……あ!まって寝ないで!くださいっ」
聞き馴染みのある声に、紅子は寝ぼけ眼をこする。
「…………滋宇?おはよう……」
掠れた声が喉から出てくる。
んんっ、と喉を鳴らし、調子を整える。
「良かった目が覚めた……帰ってきた日から、もう三日も眠り続けてたんですよ」
「そう、三日も…………」
紅子はのそっと起き上がり、洗面台へとゆっくり歩く。
パシャパシャと顔を洗い、鏡の中の自分と目が合った。
頬は少しやつれ、顔色は青い。
ふと、ぼんやりしていた頭が回り出す。
「……三日も!?」
慌てて滋宇に駆け寄り、
「え、私どうやって帰ってきたの?というか、秋桐様にご挨拶しなきゃよね。ご迷惑をおかけしてばかりだわ」
目を白黒させる紅子の肩に、滋宇は両手を置いた。
「落ち着いてください。まず秋桐様ですが、今日はもう既にお出かけになられています。お仕事の関係で、今日は帰りが遅くなるようです。とりあえず一報入れたいところではありますが、なにせ連絡手段がございません。ので、ご挨拶はご秋桐様が帰ってからで大丈夫です」
滋宇の説明に、紅子は「そう」と安堵のため息を零す。
滋宇は「そうです。なので」とニコッと笑う。
「紅子様はまず食事を召し上がってくださいませ」
有無を言わさない笑顔に、紅子は「わ、わかった」と首を縦に振った。
***
食事は至って質素なものだった。
玉子がゆに梅干し二つ、それとキャベツがじっくり煮込まれたスープ。
──てっきり豪華なものが沢山出てくるかと思ってた。
ほっと安堵のため息を零す。
まだ本調子でない体に、重たい食べ物は酷だ。それに、椅子が以前と変わっていた。以前はお高い西洋風の椅子だったのだが、今座っている椅子は、背もたれ部分が少し傾き、昼寝をするのに適していそうだ。
体調が悪くなったら、すぐに体を休められる。
さすが領主家長男邸、といったところか。何も言わずとも、適した環境が用意されている。
玉子がゆに匙をいれ、そっと口に運ぶ。
優しい味が口に広がる。
「なんか、あそこで食べたみたいな味」
ぽつ、と紅子が呟くと、
「ご名答ーっ」
と、盆を持ったサクラが紅子の前に現れた。
「え……さ、サクラ……さん?なんでここに」
灰色の湯のみをテーブルに置き、サクラは柔らかく微笑む。
「初めてあーちゃんの声聞けたよ。想像通り優しい声色だ」
そう微笑み、彼女は紅子の向かい側に腰を下ろすなり深々と頭を下げた。
「助けてくれてありがとう。私たちは、あーちゃんがいなければ死んでいた。……その能力は使いたくなかったよね。……ほんとに、ありがとう」
サクラは、髪を切っていた。
腰まであった桃色の髪の毛は、肩の高さに揃えられていた。ふわふわの毛先が今は真っ直ぐになり、凛とした空気に包まれていた。
「私は死んでもいいと思ってた。……だから、助かった時も、正直私だけが生き残っているのなら死のうと思ってた。だけど……みんな助かってた。……レンは、主様とどこかへ行っちゃったみたいだけどね」
少し眉を下げて彼女は笑う。
だが、おそらくずっと泣いていたのだ。
もう三日、四日経つというのに、彼女の目の周りは赤かった。
「秋桐当主にね、説明された。ここまでの経緯。けどまさか、主様があーちゃんを殺そうとしていたなんて全然知らなかった。私たちはそれに巻き込まれただけだったなんて、宗主を討つのが表向きの計画だったなんて、知らなかった」
──いやそれは私も知らなかった。
紅子は目を丸くした。
その目的は本物ではなかったのか。
俯くサクラの両頬を、淡い桃色の髪がさらりと撫でる。
「私たち、全員騙されたんだなぁ……って、やっぱりちょっと悲しくなったよ。……帰る場所も、もう無いしね」
帰る場所がない。
それは、拐われた紅子も思ったことだった。
帰る場所がないというのは、死んでもいいという思いにすらなってしまう。
「それで、雇って貰えることになったの」
「そう……」
少し目を伏せながら、紅子は呟いた。
──そうか、帰る場所がないから、雇ってもらえることに。そう。…………え?
ばっと顔を上げ、「今なんと……?」と紅子は困惑を顕にした表情をサクラに向けた。
「当主がね、雇ってくれるって。私は料理と給仕として。シンと要人は、護衛として」
要人というのは、あの冷たい眼差しの男か。あの人が素直に護衛になるなんて、少し怖い。
紅子が眉をひそめると、サクラは「ああ、うん」と目を泳がせた。
「要人はね、私専属の護衛……に、なったのよ。私が護衛される意味なんてないんだけど、レンたちに連れ去られて人質にでもされたら、あーちゃんが絶対黙っていないからって」
確かに、と紅子は目を軽く見張った。
だがそれだけで、ほんの数日前まで敵だった相手に、衣食住を保証するだろうか。
理由も取ってつけた感が拭えない。
「でも、ホントびっくりした。まさか拐ってきたのが宗主の上の立場の奥さんだったなんて。殺されること覚悟してたわ」
と、サクラは眉間に皺を寄せた。
その言葉に、忘れていた記憶が紅子の頭に蘇る。
──声が出るようになったらお連れしたい場が……。
そうだ。
紅子は膝の上で手を握りしめた。
連れていかれる場なんて、処罰部屋以外に思いつかない。
「秋桐」という家の名に泥を塗るようなことをさせた。迷惑をかけた。
──全てお前が悪い。
かつて、七兵衛から毎日毎日吐かれた言葉。
それはいつしか呪いとなり、紅子の胸にしこりとなって残っている。彼女は自己肯定することを、否定され続けた。
──お前がグズで、要領の悪い奴だから、家の収益は下がるばかりなんだ。
毎日毎日折檻された日々が脳裏に焼き付き、離れない。
カタカタッと肩を震わせる紅子を余所に、
「あら?秋桐様だわ」
と滋宇が呟いた。
「今日は帰りが遅いと伺っていたのに。……ノア、一応主様のお食事の用意をしておいた方がいいかしら」
「そうね。伝えておくわ」
とノアは頷き、厨房に駆けていった。
「じゃ、私はお片付けしてくるわ。またね、あーちゃん」
とサクラは席を立つ。
カタン、と椅子が引きずられた音により、紅子の意識が引き戻される。
息は浅く、額にはうっすらと脂汗をかいている。
だが次の瞬間、紅子の震えは止まった。
そうだった。
そういうことは、慣れているんだった、と。
上げられた顔は、表情を映してはいなかった。
滑らかな絹の肌触りが、紅子をまた眠りへと誘う。
「……あ!まって寝ないで!くださいっ」
聞き馴染みのある声に、紅子は寝ぼけ眼をこする。
「…………滋宇?おはよう……」
掠れた声が喉から出てくる。
んんっ、と喉を鳴らし、調子を整える。
「良かった目が覚めた……帰ってきた日から、もう三日も眠り続けてたんですよ」
「そう、三日も…………」
紅子はのそっと起き上がり、洗面台へとゆっくり歩く。
パシャパシャと顔を洗い、鏡の中の自分と目が合った。
頬は少しやつれ、顔色は青い。
ふと、ぼんやりしていた頭が回り出す。
「……三日も!?」
慌てて滋宇に駆け寄り、
「え、私どうやって帰ってきたの?というか、秋桐様にご挨拶しなきゃよね。ご迷惑をおかけしてばかりだわ」
目を白黒させる紅子の肩に、滋宇は両手を置いた。
「落ち着いてください。まず秋桐様ですが、今日はもう既にお出かけになられています。お仕事の関係で、今日は帰りが遅くなるようです。とりあえず一報入れたいところではありますが、なにせ連絡手段がございません。ので、ご挨拶はご秋桐様が帰ってからで大丈夫です」
滋宇の説明に、紅子は「そう」と安堵のため息を零す。
滋宇は「そうです。なので」とニコッと笑う。
「紅子様はまず食事を召し上がってくださいませ」
有無を言わさない笑顔に、紅子は「わ、わかった」と首を縦に振った。
***
食事は至って質素なものだった。
玉子がゆに梅干し二つ、それとキャベツがじっくり煮込まれたスープ。
──てっきり豪華なものが沢山出てくるかと思ってた。
ほっと安堵のため息を零す。
まだ本調子でない体に、重たい食べ物は酷だ。それに、椅子が以前と変わっていた。以前はお高い西洋風の椅子だったのだが、今座っている椅子は、背もたれ部分が少し傾き、昼寝をするのに適していそうだ。
体調が悪くなったら、すぐに体を休められる。
さすが領主家長男邸、といったところか。何も言わずとも、適した環境が用意されている。
玉子がゆに匙をいれ、そっと口に運ぶ。
優しい味が口に広がる。
「なんか、あそこで食べたみたいな味」
ぽつ、と紅子が呟くと、
「ご名答ーっ」
と、盆を持ったサクラが紅子の前に現れた。
「え……さ、サクラ……さん?なんでここに」
灰色の湯のみをテーブルに置き、サクラは柔らかく微笑む。
「初めてあーちゃんの声聞けたよ。想像通り優しい声色だ」
そう微笑み、彼女は紅子の向かい側に腰を下ろすなり深々と頭を下げた。
「助けてくれてありがとう。私たちは、あーちゃんがいなければ死んでいた。……その能力は使いたくなかったよね。……ほんとに、ありがとう」
サクラは、髪を切っていた。
腰まであった桃色の髪の毛は、肩の高さに揃えられていた。ふわふわの毛先が今は真っ直ぐになり、凛とした空気に包まれていた。
「私は死んでもいいと思ってた。……だから、助かった時も、正直私だけが生き残っているのなら死のうと思ってた。だけど……みんな助かってた。……レンは、主様とどこかへ行っちゃったみたいだけどね」
少し眉を下げて彼女は笑う。
だが、おそらくずっと泣いていたのだ。
もう三日、四日経つというのに、彼女の目の周りは赤かった。
「秋桐当主にね、説明された。ここまでの経緯。けどまさか、主様があーちゃんを殺そうとしていたなんて全然知らなかった。私たちはそれに巻き込まれただけだったなんて、宗主を討つのが表向きの計画だったなんて、知らなかった」
──いやそれは私も知らなかった。
紅子は目を丸くした。
その目的は本物ではなかったのか。
俯くサクラの両頬を、淡い桃色の髪がさらりと撫でる。
「私たち、全員騙されたんだなぁ……って、やっぱりちょっと悲しくなったよ。……帰る場所も、もう無いしね」
帰る場所がない。
それは、拐われた紅子も思ったことだった。
帰る場所がないというのは、死んでもいいという思いにすらなってしまう。
「それで、雇って貰えることになったの」
「そう……」
少し目を伏せながら、紅子は呟いた。
──そうか、帰る場所がないから、雇ってもらえることに。そう。…………え?
ばっと顔を上げ、「今なんと……?」と紅子は困惑を顕にした表情をサクラに向けた。
「当主がね、雇ってくれるって。私は料理と給仕として。シンと要人は、護衛として」
要人というのは、あの冷たい眼差しの男か。あの人が素直に護衛になるなんて、少し怖い。
紅子が眉をひそめると、サクラは「ああ、うん」と目を泳がせた。
「要人はね、私専属の護衛……に、なったのよ。私が護衛される意味なんてないんだけど、レンたちに連れ去られて人質にでもされたら、あーちゃんが絶対黙っていないからって」
確かに、と紅子は目を軽く見張った。
だがそれだけで、ほんの数日前まで敵だった相手に、衣食住を保証するだろうか。
理由も取ってつけた感が拭えない。
「でも、ホントびっくりした。まさか拐ってきたのが宗主の上の立場の奥さんだったなんて。殺されること覚悟してたわ」
と、サクラは眉間に皺を寄せた。
その言葉に、忘れていた記憶が紅子の頭に蘇る。
──声が出るようになったらお連れしたい場が……。
そうだ。
紅子は膝の上で手を握りしめた。
連れていかれる場なんて、処罰部屋以外に思いつかない。
「秋桐」という家の名に泥を塗るようなことをさせた。迷惑をかけた。
──全てお前が悪い。
かつて、七兵衛から毎日毎日吐かれた言葉。
それはいつしか呪いとなり、紅子の胸にしこりとなって残っている。彼女は自己肯定することを、否定され続けた。
──お前がグズで、要領の悪い奴だから、家の収益は下がるばかりなんだ。
毎日毎日折檻された日々が脳裏に焼き付き、離れない。
カタカタッと肩を震わせる紅子を余所に、
「あら?秋桐様だわ」
と滋宇が呟いた。
「今日は帰りが遅いと伺っていたのに。……ノア、一応主様のお食事の用意をしておいた方がいいかしら」
「そうね。伝えておくわ」
とノアは頷き、厨房に駆けていった。
「じゃ、私はお片付けしてくるわ。またね、あーちゃん」
とサクラは席を立つ。
カタン、と椅子が引きずられた音により、紅子の意識が引き戻される。
息は浅く、額にはうっすらと脂汗をかいている。
だが次の瞬間、紅子の震えは止まった。
そうだった。
そういうことは、慣れているんだった、と。
上げられた顔は、表情を映してはいなかった。
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