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第二章《突然の別れと思惑》
【十】
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「ホノオ……って、炎のことかしら……でも水の対極は火じゃないのかしら。それにどちらかといえば炎の対極は氷なんじゃ……」
部屋に戻った紅子は布団に身を投げた。
そして独り言を呟き続けるも、ふっと言葉を切ってこんがらがった頭の中を振り払うように枕に顔を埋めた。
「……あの方って、何を考えてるのかさっぱりだわ」
紅子の脳裏に柔和な笑みを浮かべている弥生が浮かぶ。
最初に出会ったのは宿でのはずだ。ただの宿泊客と従業員としての出会い。そこの一瞬で既に目をつけられたというのか。そんな会って間もないのに能力のことを知れるだろうか。
──いやでも……あの微笑い方……どこかで……。
ふっ、と記憶が頭に蘇る。
紅子が宿屋から強引に連れ出されかけたとき、助けてくれた人物がいた。だが、共通するのは眼鏡をかけていた、ということくらい。口調も髪色もまるで違っていたのだ。
「変装だったのかしら……でもどうして」
ずっと弥生のことを考えていると、池でのやり取りまでが頭をよぎる。
──あなたが来てくだされば……。
ぼっと頬が熱くなる。
あれは、私の能力が欲しいってだけでなんの意味もないんだから。
──そう、他意なんてない。
バタバタと動かしていた足を止める。
わかってるけど、わかってたけど、どうしても胸は軋むように痛くなるばかりなのだ。
失恋したばかりで心が愛情を求めているのかもしれない。
「バカだな」
ぽろっと溢れ出た言葉に、紅子は目をぎゅっと閉じた。
「若奥様……起きてくださいな。お夕食のご用意が整いました」
ふと目を開けると、まだ見慣れないシミひとつない天井と壁が映る。
「……寝てたんですね」
しぱしぱと目を瞬き、白いハーフエプロンを着けたノアに視線を向ける。
「すぐ支度をします」
「ごゆっくりで平気ですよ。弥生もお仕事がまだ片付いてはいないようですので」
弥生、と零したものの、当の本人は気づかなかったようだ。もしかしたら、無理してご主人様などと言っているのかもしれない。
「あきぎ……弥生様とは、仲がよろしいのですか?」
当たり障りなく尋ねたつもりだった。しかし、ノアは顔を真っ白にした。
「とんでもごさいません。私などがご主人様と……とんでもごさいません」
漂う異様な空気に、紅子は慌てて笑みを作り、
「そう。変な事聞いてごめんなさいね」
なんとなく、態度に食い違いが見えたような気がした。しかし何がどうちぐはぐなのかまでは、その時はまだ分からなかった。
しかし、気づくべきだったのかもしれなかった。
***
翌日、ツヤツヤした肌でやってきた店の女は、馬車を背に立っていた。紅子は嫌な予感に、思わず一歩退いた。
「今日はお店までおいで下さい。なにせ今日は柄とお色と帯と……」
まだあるのか、と言わんばかりに紅子は眉を下げた。
「きっと若奥様もお気に召すものがございますよ」
そういう問題じゃない。
紅子は口には出さずに小さく息を吐いた。
「……わかりまし」
た、という言葉は、馬車に乗る人物のシルエットを見て声にはならなかった。
紅子は早足で馬車の扉を開ける。
「ご機嫌いかがですか?前もってお伝えせずに申し訳ありません」
例の当主が馬車に乗っていたのだ。
なぜ、と言いたげな紅子に、彼は柔らかく微笑みかける。
「ただ私もご一緒する、というだけの話ですよ」
紅子は「嬉しゅうございます」と硬い笑いを返した。
正直弥生の考えることが、紅子は読めたことがない。時々遠い目をしては、紅子を見ているようで別の何か、誰かを見ているかのような気配を醸し出すのだ。そしてどこか、気取られないようわざとそうした壁を作っているようにも感じた。
「今日は沢山買うものがありそうですしね。ちょっとした荷物持ちのようなものですよ。折角なので、お好きなものをお好きなだけ買いましょう」
馬車なのだから荷物持ちは要らないだろう、という突っ込みは敢えてしなかった。きっと、何か別の意図がある事はもう分かっているのだ。
紅子は「ありがとうございます」とだけ応え、馬車に乗り込んだ。
車内での二人はといえば、特に話題もなく、無言が続いていた。
「貴方は、何か特別好きなものは無いのですか?」
唐突な弥生の問に、紅子はしばし声を詰まらせた。
「あ、えと……特に」
好きなもの、はどういったものか。特に好き嫌いがない紅子には、この手の質問はあまり得意ではないのだ。特にこれといって好きな食べ物もないし、色も別段好き嫌いはない。服の流行なども興味が向かわず、彼女は姉たちの言われるがままに生活してきたのだ。
好き嫌いだのが芽生えるはずだった感情は、ほとんどを七兵衛がむしり取っていった。彼の教育により、紅子は我儘を言わない、意志のない子どもに育ってしまったのだ。
ようやく解放されても、心のどこかには必ず七兵衛が住み憑いている。
なんの感情も映さず黙ってしまった紅子に、
「では、人より少し得意なことなどありますか」
まるで仕事の面接だ。紅子は「ありません」と答えそうになった。
しかし、唐突に滋宇と母の顔が浮かんだ。
続く言葉を飲み込み、「楽器が」とどこか喘ぐような声を出す。
「楽器なら、私は少し……少しだけ他の人より上手く弾けます」
紅子の手も、声も震えていた。そんな彼女は何かに抗っているかのようだった。
弥生はそんな彼女を眩しそうに見つめ、目を細める。
「いつか、聞いてみたいですね」
車内はまた静まり返ったが、先程のような息が詰まる場所ではなくなっていた。
店に着いてから、紅子は約四時間もの時間、着せ替え人形と化した。そしてお茶を一杯飲み、それからまた約三時間、着せ替え人形となった。
店の女が満足する頃、紅子の瞳にはもはや感情が映っていなかった。
「それでは帰りましょうか」
と弥生が声をかけた時だ。
外が騒がしく、野次馬が路上に円を作り始めた。
「……少し、様子を見てきます」
そう呟いた弥生は、今まで見たことのないほど真剣な表情だった。
「貴方は先に馬車へ戻っていて下さい」
そう言い残し、彼は野次馬の間をすり抜けていく。
残された紅子は、大人しく馬車に乗り込んだ。
数分して、コンコンとドアを叩く音がした。しかし弥生であれば声をかけてくるはずだし、御者が扉を開けるはずなのだ。
そうだ、御者はどうした。
なにか異変があれば彼の声が聞こえるはずなのだ。しかし不気味なことに、御者の声は一切聞こえなかった。それに御者の声だけではない。周りの雑音全てがかき消されたように静まり返っているのだ。
紅子は嫌な汗が背を伝うのを感じた。深呼吸をし、「どなたですか」と声をかける。
「警察の者です。ドアを開けていただけませんか。指名手配犯を取り締まる捜査にご協力ください」
相手が嘘を吐いている可能性がある以上、ドアを開けるのは躊躇われた。
「申し訳ありませんが、あき……やよ……主人が戻るまでお待ちください。私の独断でドアを開けることさえできない身であること、お察し頂けますよね」
この世間は男尊女卑の激しい社会。風向きは変わりつつあるが、受け入れられることが少なく、まだまだ実現が夢のような社会であった。
すると、ドアの外に居たはずのシルエットがふっと消えた。その代わりに、シルエットは二つに増え、「面倒だなぁ」という呟きが零された。
紅子は自分が狙われていることを確信し、シルエットから目を離さなかった。
しかし勢いよく開かれたのは、背を向けていた方のドアだった。
しまった、と思った時には既に遅く、車内に霧が一気に入り込んできた。時はまだ夕刻。霧も霞も発生する時間ではないのだ。
見慣れぬ三人が覗き込んでくる姿を最後に、紅子は意識を手放した。
部屋に戻った紅子は布団に身を投げた。
そして独り言を呟き続けるも、ふっと言葉を切ってこんがらがった頭の中を振り払うように枕に顔を埋めた。
「……あの方って、何を考えてるのかさっぱりだわ」
紅子の脳裏に柔和な笑みを浮かべている弥生が浮かぶ。
最初に出会ったのは宿でのはずだ。ただの宿泊客と従業員としての出会い。そこの一瞬で既に目をつけられたというのか。そんな会って間もないのに能力のことを知れるだろうか。
──いやでも……あの微笑い方……どこかで……。
ふっ、と記憶が頭に蘇る。
紅子が宿屋から強引に連れ出されかけたとき、助けてくれた人物がいた。だが、共通するのは眼鏡をかけていた、ということくらい。口調も髪色もまるで違っていたのだ。
「変装だったのかしら……でもどうして」
ずっと弥生のことを考えていると、池でのやり取りまでが頭をよぎる。
──あなたが来てくだされば……。
ぼっと頬が熱くなる。
あれは、私の能力が欲しいってだけでなんの意味もないんだから。
──そう、他意なんてない。
バタバタと動かしていた足を止める。
わかってるけど、わかってたけど、どうしても胸は軋むように痛くなるばかりなのだ。
失恋したばかりで心が愛情を求めているのかもしれない。
「バカだな」
ぽろっと溢れ出た言葉に、紅子は目をぎゅっと閉じた。
「若奥様……起きてくださいな。お夕食のご用意が整いました」
ふと目を開けると、まだ見慣れないシミひとつない天井と壁が映る。
「……寝てたんですね」
しぱしぱと目を瞬き、白いハーフエプロンを着けたノアに視線を向ける。
「すぐ支度をします」
「ごゆっくりで平気ですよ。弥生もお仕事がまだ片付いてはいないようですので」
弥生、と零したものの、当の本人は気づかなかったようだ。もしかしたら、無理してご主人様などと言っているのかもしれない。
「あきぎ……弥生様とは、仲がよろしいのですか?」
当たり障りなく尋ねたつもりだった。しかし、ノアは顔を真っ白にした。
「とんでもごさいません。私などがご主人様と……とんでもごさいません」
漂う異様な空気に、紅子は慌てて笑みを作り、
「そう。変な事聞いてごめんなさいね」
なんとなく、態度に食い違いが見えたような気がした。しかし何がどうちぐはぐなのかまでは、その時はまだ分からなかった。
しかし、気づくべきだったのかもしれなかった。
***
翌日、ツヤツヤした肌でやってきた店の女は、馬車を背に立っていた。紅子は嫌な予感に、思わず一歩退いた。
「今日はお店までおいで下さい。なにせ今日は柄とお色と帯と……」
まだあるのか、と言わんばかりに紅子は眉を下げた。
「きっと若奥様もお気に召すものがございますよ」
そういう問題じゃない。
紅子は口には出さずに小さく息を吐いた。
「……わかりまし」
た、という言葉は、馬車に乗る人物のシルエットを見て声にはならなかった。
紅子は早足で馬車の扉を開ける。
「ご機嫌いかがですか?前もってお伝えせずに申し訳ありません」
例の当主が馬車に乗っていたのだ。
なぜ、と言いたげな紅子に、彼は柔らかく微笑みかける。
「ただ私もご一緒する、というだけの話ですよ」
紅子は「嬉しゅうございます」と硬い笑いを返した。
正直弥生の考えることが、紅子は読めたことがない。時々遠い目をしては、紅子を見ているようで別の何か、誰かを見ているかのような気配を醸し出すのだ。そしてどこか、気取られないようわざとそうした壁を作っているようにも感じた。
「今日は沢山買うものがありそうですしね。ちょっとした荷物持ちのようなものですよ。折角なので、お好きなものをお好きなだけ買いましょう」
馬車なのだから荷物持ちは要らないだろう、という突っ込みは敢えてしなかった。きっと、何か別の意図がある事はもう分かっているのだ。
紅子は「ありがとうございます」とだけ応え、馬車に乗り込んだ。
車内での二人はといえば、特に話題もなく、無言が続いていた。
「貴方は、何か特別好きなものは無いのですか?」
唐突な弥生の問に、紅子はしばし声を詰まらせた。
「あ、えと……特に」
好きなもの、はどういったものか。特に好き嫌いがない紅子には、この手の質問はあまり得意ではないのだ。特にこれといって好きな食べ物もないし、色も別段好き嫌いはない。服の流行なども興味が向かわず、彼女は姉たちの言われるがままに生活してきたのだ。
好き嫌いだのが芽生えるはずだった感情は、ほとんどを七兵衛がむしり取っていった。彼の教育により、紅子は我儘を言わない、意志のない子どもに育ってしまったのだ。
ようやく解放されても、心のどこかには必ず七兵衛が住み憑いている。
なんの感情も映さず黙ってしまった紅子に、
「では、人より少し得意なことなどありますか」
まるで仕事の面接だ。紅子は「ありません」と答えそうになった。
しかし、唐突に滋宇と母の顔が浮かんだ。
続く言葉を飲み込み、「楽器が」とどこか喘ぐような声を出す。
「楽器なら、私は少し……少しだけ他の人より上手く弾けます」
紅子の手も、声も震えていた。そんな彼女は何かに抗っているかのようだった。
弥生はそんな彼女を眩しそうに見つめ、目を細める。
「いつか、聞いてみたいですね」
車内はまた静まり返ったが、先程のような息が詰まる場所ではなくなっていた。
店に着いてから、紅子は約四時間もの時間、着せ替え人形と化した。そしてお茶を一杯飲み、それからまた約三時間、着せ替え人形となった。
店の女が満足する頃、紅子の瞳にはもはや感情が映っていなかった。
「それでは帰りましょうか」
と弥生が声をかけた時だ。
外が騒がしく、野次馬が路上に円を作り始めた。
「……少し、様子を見てきます」
そう呟いた弥生は、今まで見たことのないほど真剣な表情だった。
「貴方は先に馬車へ戻っていて下さい」
そう言い残し、彼は野次馬の間をすり抜けていく。
残された紅子は、大人しく馬車に乗り込んだ。
数分して、コンコンとドアを叩く音がした。しかし弥生であれば声をかけてくるはずだし、御者が扉を開けるはずなのだ。
そうだ、御者はどうした。
なにか異変があれば彼の声が聞こえるはずなのだ。しかし不気味なことに、御者の声は一切聞こえなかった。それに御者の声だけではない。周りの雑音全てがかき消されたように静まり返っているのだ。
紅子は嫌な汗が背を伝うのを感じた。深呼吸をし、「どなたですか」と声をかける。
「警察の者です。ドアを開けていただけませんか。指名手配犯を取り締まる捜査にご協力ください」
相手が嘘を吐いている可能性がある以上、ドアを開けるのは躊躇われた。
「申し訳ありませんが、あき……やよ……主人が戻るまでお待ちください。私の独断でドアを開けることさえできない身であること、お察し頂けますよね」
この世間は男尊女卑の激しい社会。風向きは変わりつつあるが、受け入れられることが少なく、まだまだ実現が夢のような社会であった。
すると、ドアの外に居たはずのシルエットがふっと消えた。その代わりに、シルエットは二つに増え、「面倒だなぁ」という呟きが零された。
紅子は自分が狙われていることを確信し、シルエットから目を離さなかった。
しかし勢いよく開かれたのは、背を向けていた方のドアだった。
しまった、と思った時には既に遅く、車内に霧が一気に入り込んできた。時はまだ夕刻。霧も霞も発生する時間ではないのだ。
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