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第一章《出会いと別れと悲嘆》
【十】
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宿屋に帰ってきた紅子を見るなり、滋宇は目を丸くした。
「ど、うしたの……お紅ちゃん?」
ほんのりと目を赤くした紅子は、「ちょっとね」と笑い、
「後で話すわ」
と奥の方へ消えた。
滋宇は前掛けを軽く握り、「えぇ……」と力ない返事をした。
紅子はすぐに戻ってくると、厨房へと入って料理の支度にとりかかった。
「お紅ちゃん」
仕事が済むなり、滋宇は紅子の元へと駆け寄ってきた。
「何があったの……今日ずっと上の空だったじゃない」
ひたすら料理を作り続けていた紅子は、他の人が何か言っても基本反応が無かった。ただひたすら、何かに取り憑かれたように手を動かし続けていたのだ。
「……私、縁談が決まったみたいなの」
軽く笑う紅子に、滋宇は「はっ!?」と声を上げた。
「なぁにー?」
「ちょっとうーちゃん。今は夜なのよ?もうちょっと静かにしないと」
部屋の前を通りがかった梅夜と桃李が、襖をカラッと開けて注意した。
「ちょっ……梅ちゃん、桃ちゃん、聞いてよっ」
何かに必死な滋宇の様子に、二人は顔を見合わせて部屋へ入り襖を閉めた。
「──縁談」
二人は小さな声を合わせた。
「え、それは……喜ぶことではないの?」
首を傾げる梅夜に、滋宇は「そんなわけないです」と反論した。
「だって、あの御館様よ?良い縁談なわけがないわ」
と主張する滋宇に、二人は「ああ、確かに」と納得した。
「だから先に良い縁談を持ってこうとしていたのに……」
小さく呟く滋宇に、紅子は眉を下げて笑う。
「良いのよ。ただ……ここから出るのも、寂しいな」
梅夜はそんな紅子に、顔を顰めてみせた。
「それだけじゃないでしょ」
梅夜の言葉に、三人は「え」と目を瞬かせた。
「あなた、想い人が居たんでしょ?だからそんな顔してるんだわ」
「想い人……なんて」
居ない、はず。
──ああ、でも。
頭に浮かぶのは、あの人が柔らかく笑う顔。
その時、紅子は初めて、自分が昭平に恋心を抱いていたのだと自覚した。
「やっぱりね」
重い溜息を吐き、梅夜は立ち上がると部屋を出て行った。
「呆れられちゃったかな」
紅子が苦笑すると、桃李はそんな彼女の頭を優しく撫でた。
「違うわ。多分すぐに帰ってくる。ねぇ、紅子ちゃん」
紅子がそっと上を見ると、優しい緑色の瞳が輝いていた。
「もしかしたら、運命ってあるかもよ」
そう言った桃李は、ニコリとした。
「…………それは、どういう」
紅子が尋ねようとした時、またも襖がカラッと開いた。
「あ、梅夜さ──ぶっ!?」
梅夜は入ってくるなり、紅子の顔めがけて何かを投げつけた。
「羽織?」
首を傾げる紅子に、梅夜はビッと人差し指を突き立てた。
「今すぐ、行ってきなさい」
え、と目を丸くする紅子の背を無理矢理押し、廊下へと追い出す。
「確認してきなさい。両思いか、そうでないのか。今やらなければ、あなたは一生後悔するわよ」
「ですが、私にはどうすることも…………」
反論しようとする紅子の両頬を、梅夜の右手がぐわっと包む。
「いいこと?このご時世に好きに結婚できるだなんてことはそうそう無いでしょう。だったら、意を決して駆け落ちするなり、想いを伝えてスッキリさせて縁談受けるなりしなさい。兎に角、そんなジメジメした気持ちで嫁ぐのはねぇ、相手に一番失礼なのよ」
わかったらさっさと行きなさい、と梅夜は手を離した。
「……いって、きます」
そう告げ、紅子は羽織をふわりと肩にかけて走った。
最後に一度振り返ると、梅夜は二階から顔を覗かせていた。彼女は紅子の方を見てはおらず、切ない表情で空を見上げていた。
紅子が生田邸の門前まで着いたとき、丁度見回りが回ってきていた。
見回りに見つかれば、紅子は間違いなくしょっぴかれて義父を呼び出されるだろう。
手にじんわりと汗が滲む。
「おい、誰かいるのか」
見回りの一人が、灯りを前の方に向けてくる。
紅子が踵を返して宿へ戻ろうとした時だった。
どこからか紅子の腰回りを抱えられ、思い切り引っ張られた。
「……なんだ?誰も居ないじゃないか」
「おいおい、やめろよ……さっさと行こう」
見回り人らは首を傾げてはいたものの、すぐにその場を離れていった。
その様子を、紅子は誰かの腕の中から眺めていた。
おそるおそる見上げると、月明かりに黒い髪が浮かび上がっていた。
「しょ、昭平さん……どうして表に……」
驚く紅子に、昭平は頭を掻いた。
「いや、屋敷の屋根に登ってて……赤い髪が見えたからびっくりして降りてきたんだ」
昭平はゆっくりと立ち上がると、門のすぐ横の壁を押して屋敷から出た。どうやら隠し扉のようになっていたらしい。紅子は腰に手を回され、その扉の奥、つまりは敷地内に匿われていたのだ。
「それで……俺に、用があったんだよね?」
昭平の言葉に、紅子は小さく頷いた。
「でも……俺が屋根にいなかったら、どうやって取り次ぐ気だったの?」
「か、考えてなかったです」
頬をほんのりと染める紅子に、昭平は吹き出した。
「そ、そんなに笑わなくても……!」
耳に髪をかけながら視線を逸らす紅子に、
「いや、だって……変なとこで行動力あるんだなぁ」
と、昭平は喉を鳴らしながら笑いを堪えている。
「あ、あの……昭平さんは、その場に居たから知ってますけど、その、改めて……私、縁談が決まったようなんです」
紅子はそう言いながら、手をきゅっと帯の前で握りしめた。
昭平は笑いを次第に消していき、ごほんと一つ咳払いをした。
「はい。知ってますよ。おめでとうございます」
にこりと笑う昭平に、紅子の胸は酷く痛む。
「……ありがとうございます」
紅子は作り笑いを浮かべ、礼を言った。
──後悔の、ないように。
すぅ、と息を吸い、「昭平さんは」と震える声を出す。
「昭平さんは、それで良いんですか……っ?」
思わず泣きそうになる目元を押さえながら、紅子は昭平の返事を待った。
「……俺、ですか」
ぽつりと呟くような声は、明らかに戸惑いを含んでいた。
「どうして、俺が良いとか悪いとか言えるんです?俺は関係ないような気がするのですが」
関係ない。
その言葉は、紅子の胸に深く刺さった。
「そう、ですよね。ごめんなさい変なこと言って……帰ります」
紅子は羽織をふわっと頭上に掛けながら踵を返し、来た道を走った。
「あ、紅子さん!」
パッと反射で掴まれた腕を、「やめてくださいっ」と紅子は振り払おうとした。
その拍子に顔が月明かりに照らされてしまう。
「…………え?」
頬に透明な筋を光らせる紅子に、昭平は戸惑ったようだ。
力が抜けた瞬間に紅子は腕を引き抜いて、出せる限りの速度で走った。
酸素が足りなくなる。苦しい。
胸が詰まって、肺に上手く呼吸が通らない。
──振られたんだ。なんとも思われてなかったんだ。
恥ずかしさと悲しさと、訳のわからないぐちゃぐちゃの感情が胸中を支配する。
紅子は帰るなり、女将代理の部屋へと向かった。
「紅子お嬢様」
眼鏡を外しながら近づいてくる彼女に、紅子は微笑を浮かべた。
「女将様。私紅子は、縁談がまとまったため、この宿を出ていきます」
膝をついて頭を下げる紅子に、女将代理は慌てて「顔を上げてください!」と自身もしゃがみ込む。
「……よろしいのですか?」
心配そうな女将代理に、紅子は目を細めて口元を緩めた。
「──もう、良いのです」
「ど、うしたの……お紅ちゃん?」
ほんのりと目を赤くした紅子は、「ちょっとね」と笑い、
「後で話すわ」
と奥の方へ消えた。
滋宇は前掛けを軽く握り、「えぇ……」と力ない返事をした。
紅子はすぐに戻ってくると、厨房へと入って料理の支度にとりかかった。
「お紅ちゃん」
仕事が済むなり、滋宇は紅子の元へと駆け寄ってきた。
「何があったの……今日ずっと上の空だったじゃない」
ひたすら料理を作り続けていた紅子は、他の人が何か言っても基本反応が無かった。ただひたすら、何かに取り憑かれたように手を動かし続けていたのだ。
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「なぁにー?」
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「ちょっ……梅ちゃん、桃ちゃん、聞いてよっ」
何かに必死な滋宇の様子に、二人は顔を見合わせて部屋へ入り襖を閉めた。
「──縁談」
二人は小さな声を合わせた。
「え、それは……喜ぶことではないの?」
首を傾げる梅夜に、滋宇は「そんなわけないです」と反論した。
「だって、あの御館様よ?良い縁談なわけがないわ」
と主張する滋宇に、二人は「ああ、確かに」と納得した。
「だから先に良い縁談を持ってこうとしていたのに……」
小さく呟く滋宇に、紅子は眉を下げて笑う。
「良いのよ。ただ……ここから出るのも、寂しいな」
梅夜はそんな紅子に、顔を顰めてみせた。
「それだけじゃないでしょ」
梅夜の言葉に、三人は「え」と目を瞬かせた。
「あなた、想い人が居たんでしょ?だからそんな顔してるんだわ」
「想い人……なんて」
居ない、はず。
──ああ、でも。
頭に浮かぶのは、あの人が柔らかく笑う顔。
その時、紅子は初めて、自分が昭平に恋心を抱いていたのだと自覚した。
「やっぱりね」
重い溜息を吐き、梅夜は立ち上がると部屋を出て行った。
「呆れられちゃったかな」
紅子が苦笑すると、桃李はそんな彼女の頭を優しく撫でた。
「違うわ。多分すぐに帰ってくる。ねぇ、紅子ちゃん」
紅子がそっと上を見ると、優しい緑色の瞳が輝いていた。
「もしかしたら、運命ってあるかもよ」
そう言った桃李は、ニコリとした。
「…………それは、どういう」
紅子が尋ねようとした時、またも襖がカラッと開いた。
「あ、梅夜さ──ぶっ!?」
梅夜は入ってくるなり、紅子の顔めがけて何かを投げつけた。
「羽織?」
首を傾げる紅子に、梅夜はビッと人差し指を突き立てた。
「今すぐ、行ってきなさい」
え、と目を丸くする紅子の背を無理矢理押し、廊下へと追い出す。
「確認してきなさい。両思いか、そうでないのか。今やらなければ、あなたは一生後悔するわよ」
「ですが、私にはどうすることも…………」
反論しようとする紅子の両頬を、梅夜の右手がぐわっと包む。
「いいこと?このご時世に好きに結婚できるだなんてことはそうそう無いでしょう。だったら、意を決して駆け落ちするなり、想いを伝えてスッキリさせて縁談受けるなりしなさい。兎に角、そんなジメジメした気持ちで嫁ぐのはねぇ、相手に一番失礼なのよ」
わかったらさっさと行きなさい、と梅夜は手を離した。
「……いって、きます」
そう告げ、紅子は羽織をふわりと肩にかけて走った。
最後に一度振り返ると、梅夜は二階から顔を覗かせていた。彼女は紅子の方を見てはおらず、切ない表情で空を見上げていた。
紅子が生田邸の門前まで着いたとき、丁度見回りが回ってきていた。
見回りに見つかれば、紅子は間違いなくしょっぴかれて義父を呼び出されるだろう。
手にじんわりと汗が滲む。
「おい、誰かいるのか」
見回りの一人が、灯りを前の方に向けてくる。
紅子が踵を返して宿へ戻ろうとした時だった。
どこからか紅子の腰回りを抱えられ、思い切り引っ張られた。
「……なんだ?誰も居ないじゃないか」
「おいおい、やめろよ……さっさと行こう」
見回り人らは首を傾げてはいたものの、すぐにその場を離れていった。
その様子を、紅子は誰かの腕の中から眺めていた。
おそるおそる見上げると、月明かりに黒い髪が浮かび上がっていた。
「しょ、昭平さん……どうして表に……」
驚く紅子に、昭平は頭を掻いた。
「いや、屋敷の屋根に登ってて……赤い髪が見えたからびっくりして降りてきたんだ」
昭平はゆっくりと立ち上がると、門のすぐ横の壁を押して屋敷から出た。どうやら隠し扉のようになっていたらしい。紅子は腰に手を回され、その扉の奥、つまりは敷地内に匿われていたのだ。
「それで……俺に、用があったんだよね?」
昭平の言葉に、紅子は小さく頷いた。
「でも……俺が屋根にいなかったら、どうやって取り次ぐ気だったの?」
「か、考えてなかったです」
頬をほんのりと染める紅子に、昭平は吹き出した。
「そ、そんなに笑わなくても……!」
耳に髪をかけながら視線を逸らす紅子に、
「いや、だって……変なとこで行動力あるんだなぁ」
と、昭平は喉を鳴らしながら笑いを堪えている。
「あ、あの……昭平さんは、その場に居たから知ってますけど、その、改めて……私、縁談が決まったようなんです」
紅子はそう言いながら、手をきゅっと帯の前で握りしめた。
昭平は笑いを次第に消していき、ごほんと一つ咳払いをした。
「はい。知ってますよ。おめでとうございます」
にこりと笑う昭平に、紅子の胸は酷く痛む。
「……ありがとうございます」
紅子は作り笑いを浮かべ、礼を言った。
──後悔の、ないように。
すぅ、と息を吸い、「昭平さんは」と震える声を出す。
「昭平さんは、それで良いんですか……っ?」
思わず泣きそうになる目元を押さえながら、紅子は昭平の返事を待った。
「……俺、ですか」
ぽつりと呟くような声は、明らかに戸惑いを含んでいた。
「どうして、俺が良いとか悪いとか言えるんです?俺は関係ないような気がするのですが」
関係ない。
その言葉は、紅子の胸に深く刺さった。
「そう、ですよね。ごめんなさい変なこと言って……帰ります」
紅子は羽織をふわっと頭上に掛けながら踵を返し、来た道を走った。
「あ、紅子さん!」
パッと反射で掴まれた腕を、「やめてくださいっ」と紅子は振り払おうとした。
その拍子に顔が月明かりに照らされてしまう。
「…………え?」
頬に透明な筋を光らせる紅子に、昭平は戸惑ったようだ。
力が抜けた瞬間に紅子は腕を引き抜いて、出せる限りの速度で走った。
酸素が足りなくなる。苦しい。
胸が詰まって、肺に上手く呼吸が通らない。
──振られたんだ。なんとも思われてなかったんだ。
恥ずかしさと悲しさと、訳のわからないぐちゃぐちゃの感情が胸中を支配する。
紅子は帰るなり、女将代理の部屋へと向かった。
「紅子お嬢様」
眼鏡を外しながら近づいてくる彼女に、紅子は微笑を浮かべた。
「女将様。私紅子は、縁談がまとまったため、この宿を出ていきます」
膝をついて頭を下げる紅子に、女将代理は慌てて「顔を上げてください!」と自身もしゃがみ込む。
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