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第一章《出会いと別れと悲嘆》
【九】
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それから、早二年の時が過ぎた。
その二年で、紅子を取り巻く環境は大きく変化した。
楽器を始めてすぐに名が売れてからは、七兵衛が下手な手出しが出来なくなった。
ファンなるものが出てきたことで、どこから漏れたのか、給料差別のことも巷に一気に広まり、七兵衛宅前で大規模な反対運動のようなものまで起こったのだ。それ以来、七兵衛は紅子を無下に扱うことが出来なくなったのだ。
また、昭平との距離が縮まっていった。
当初は警戒していた紅子だったが、だんだんと彼に心を開き、ついには塾に通うことが無くなっても、彼と会うまでの仲になっていた。
そんな日々が、紅子の気持ちを変えていった。
「──お紅ちゃん。もうそろそろじゃない?」
赤い唇が自然と上がってしまう滋宇が、口元を隠しながら紅子に声をかけた。
「ああ、本当。行ってくるわ」
団子やら桜餅やらが入った重箱を風呂敷に包み込み、紅子はカロンと音を鳴らして宿屋を出た。
昭平の兄は大の甘党らしく、よく宿屋に菓子の注文を寄越すのだ。その日も、生田家に菓子を届けるよう女将代理に言われたのだ。
「あ、紅子さん」
門に背を預けるようにして立っていた青年は、綺麗な横顔をぱっと可愛らしくほころばせた。
「昭平さん。お待たせしてしまいましたか?」
紅子が少し小走りで駆け寄ると、昭平はへらっと相好を崩した。
「いいえ、全然!あなたがここに来る姿が見たかっただけだし……いや、なんでも」
コホンと咳払いをして昭平は少し横を向く。
「それより、毎度ありがとうございます。重かったでしょう」
ひょいとお重を持ち上げる昭平に、紅子は首を振った。
「これくらい、全然……でも、ありがとうございます」
にこりと微笑を浮かべると、昭平は嬉しそうに目を細めた。
「あ、そうそう。今日は、紅子さんにも話があるらしいんだ」
なんだろ、と言いながら昭平は門の内へ入るよう促す。
「私がですか?」
いくら昭平と面識があるとはいえ、その家族とまで仲が繋がるわけではない。
一度も会ったこともないのに、何故呼び出されるのか。
紅子が不安そうに俯くと、昭平は不意に彼女の手首を掴んだ。
「ね、いいもの見せてあげる」
にっと笑いながら、彼は紅子の手を引いた。
連れてこられたのは、梅が咲き乱れる庭だった。
「う、わ…………」
白の絨毯がふわっと風に合わせて散り、またひらひらと不規則な動きで地に戻る。
なんとも幻想的な空間に、紅子は目を輝かせた。
「綺麗……とても、綺麗ですね」
「だよね。俺も好き」
ふと、紅子は彼を見上げる。
いつの間にか伸びていた身長と、自分より大分大きな肩幅。
不意に示されたような気がして、紅子の胸がうるさく騒いで音を立てる。
この人と、一緒にいれたらなぁ。
そんなことを考え、紅子は触れる指に、ほんの少しだけ力を込めた。
「こちらにいらしたのですか」
女中の声に、紅子はびくっと肩を震わせた。
女中はそんなことは気にも留めずに、「早くいらしてくださいませ」と声をかけて姿を消した。
「……びっくりしました」
「うん。しってる」
くくっと肩を震わせる昭平に、紅子は少し頬を膨らませてみせる。
「ごめんごめん──行こうか」
柔らかい笑みを浮かべながら、彼は紅子から手を離した。
大広間に通された紅子は、思わず体を強ばらせた。
正確には、自然と体がすくみ上がってしまったのだ。
なぜ、と紅子は唇を震わせた。
座敷には、家の主と女中、そしてその隣に横を向いて酒を飲んでいる紅子の義父の七兵衛がいたのだ。
そんな紅子の様子に気づかない様子の昭平は、にこやかに「ただいま戻りました」と彼の父に挨拶した。
彼の父、生田京三は、優しく微笑み返して紅子を一瞥し、少し驚いたような表情をした。
「ええと、君が……松衛さんの、次女のほうかな?」
紅子は戸惑いながらも「いいえ」と首を振る。
「私は、長女の紅子と申します」
次女というのは七兵衛の実の娘の方であろう。なぜ彼女と勘違いしたのだろう。彼女は確か、今年で八つになるくらいの年のはずだ。
京三が戸惑いながら七兵衛に「おい」と耳打ちした。
「どこが不細工だよ。めちゃくちゃべっぴんじゃないか」
七兵衛はふっと鼻に皺を寄せて醜く笑った。
「そうですかね?ですがもう、決まってますから。情報はしっかり持っておいた方が良いかと」
そう言いながら立った七兵衛は、ニマニマと嬉しそうに紅子の元へと歩いてきた。
紅子は、背に冷たい汗が流れるのを感じた。
「喜べ」
ぐっと紅子の顎をつかみ、七兵衛は細い目をさらに細める。
「お前の縁談がまとまった。ようやくお前がいなくなるかと思うと……嬉しいものだ」
紅子は、一瞬頭が真っ白になった。
ふらりと後ずさり、その場にしゃがみ込んでしまう。
目を白黒させる紅子の様子に、七兵衛は満足気に膝をついた。
「まさか、断るわけがないよな?ああ、そうそう。その証人が、この方だ」
そう言って京三を振り返る。
証人とは、縁談のまとまりを見届ける人のことだ。また、その家は証人を頼んだ人にしてみれば神聖な人とされるため、そう易々と面会も出来なくなる。
おそるおそる、紅子は昭平を見上げた。
昭平もまた、紅子と同じく呆然とその場に立っているだけのようだ。
だがすぐに、昭平はすっと紅子に手を差し伸べた。
その手をとり、紅子はゆっくりと立ち上がって昭平と視線を合わせた。
「……紅子さん」
昭平はすっと息を吸い、
──笑った。
「おめでとうございます。先越されちゃったなぁ。どうぞ幸せになってくださいね」
曇りない笑顔に、紅子は、彼女の中の何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
「……ありがとう、ございます」
そう言って、紅子はすっと手を引いた。
「私、まだ仕事が……すみません、失礼致します」
不審に思われぬよう逸る心を抑えながら、できる限りゆっくりとその場を後にした。
ちゃんと笑えていただろうか。変な動きをしてしまわなかったか。
きっと、きっと大丈夫だろう。なのに、あの人の前で失敗してないはずなのに、どうして。
「どうして、こんなに辛いの…………」
人が行き交う道を逸れた静かな小道には、小さな啜り泣くような声が響いていた。
その二年で、紅子を取り巻く環境は大きく変化した。
楽器を始めてすぐに名が売れてからは、七兵衛が下手な手出しが出来なくなった。
ファンなるものが出てきたことで、どこから漏れたのか、給料差別のことも巷に一気に広まり、七兵衛宅前で大規模な反対運動のようなものまで起こったのだ。それ以来、七兵衛は紅子を無下に扱うことが出来なくなったのだ。
また、昭平との距離が縮まっていった。
当初は警戒していた紅子だったが、だんだんと彼に心を開き、ついには塾に通うことが無くなっても、彼と会うまでの仲になっていた。
そんな日々が、紅子の気持ちを変えていった。
「──お紅ちゃん。もうそろそろじゃない?」
赤い唇が自然と上がってしまう滋宇が、口元を隠しながら紅子に声をかけた。
「ああ、本当。行ってくるわ」
団子やら桜餅やらが入った重箱を風呂敷に包み込み、紅子はカロンと音を鳴らして宿屋を出た。
昭平の兄は大の甘党らしく、よく宿屋に菓子の注文を寄越すのだ。その日も、生田家に菓子を届けるよう女将代理に言われたのだ。
「あ、紅子さん」
門に背を預けるようにして立っていた青年は、綺麗な横顔をぱっと可愛らしくほころばせた。
「昭平さん。お待たせしてしまいましたか?」
紅子が少し小走りで駆け寄ると、昭平はへらっと相好を崩した。
「いいえ、全然!あなたがここに来る姿が見たかっただけだし……いや、なんでも」
コホンと咳払いをして昭平は少し横を向く。
「それより、毎度ありがとうございます。重かったでしょう」
ひょいとお重を持ち上げる昭平に、紅子は首を振った。
「これくらい、全然……でも、ありがとうございます」
にこりと微笑を浮かべると、昭平は嬉しそうに目を細めた。
「あ、そうそう。今日は、紅子さんにも話があるらしいんだ」
なんだろ、と言いながら昭平は門の内へ入るよう促す。
「私がですか?」
いくら昭平と面識があるとはいえ、その家族とまで仲が繋がるわけではない。
一度も会ったこともないのに、何故呼び出されるのか。
紅子が不安そうに俯くと、昭平は不意に彼女の手首を掴んだ。
「ね、いいもの見せてあげる」
にっと笑いながら、彼は紅子の手を引いた。
連れてこられたのは、梅が咲き乱れる庭だった。
「う、わ…………」
白の絨毯がふわっと風に合わせて散り、またひらひらと不規則な動きで地に戻る。
なんとも幻想的な空間に、紅子は目を輝かせた。
「綺麗……とても、綺麗ですね」
「だよね。俺も好き」
ふと、紅子は彼を見上げる。
いつの間にか伸びていた身長と、自分より大分大きな肩幅。
不意に示されたような気がして、紅子の胸がうるさく騒いで音を立てる。
この人と、一緒にいれたらなぁ。
そんなことを考え、紅子は触れる指に、ほんの少しだけ力を込めた。
「こちらにいらしたのですか」
女中の声に、紅子はびくっと肩を震わせた。
女中はそんなことは気にも留めずに、「早くいらしてくださいませ」と声をかけて姿を消した。
「……びっくりしました」
「うん。しってる」
くくっと肩を震わせる昭平に、紅子は少し頬を膨らませてみせる。
「ごめんごめん──行こうか」
柔らかい笑みを浮かべながら、彼は紅子から手を離した。
大広間に通された紅子は、思わず体を強ばらせた。
正確には、自然と体がすくみ上がってしまったのだ。
なぜ、と紅子は唇を震わせた。
座敷には、家の主と女中、そしてその隣に横を向いて酒を飲んでいる紅子の義父の七兵衛がいたのだ。
そんな紅子の様子に気づかない様子の昭平は、にこやかに「ただいま戻りました」と彼の父に挨拶した。
彼の父、生田京三は、優しく微笑み返して紅子を一瞥し、少し驚いたような表情をした。
「ええと、君が……松衛さんの、次女のほうかな?」
紅子は戸惑いながらも「いいえ」と首を振る。
「私は、長女の紅子と申します」
次女というのは七兵衛の実の娘の方であろう。なぜ彼女と勘違いしたのだろう。彼女は確か、今年で八つになるくらいの年のはずだ。
京三が戸惑いながら七兵衛に「おい」と耳打ちした。
「どこが不細工だよ。めちゃくちゃべっぴんじゃないか」
七兵衛はふっと鼻に皺を寄せて醜く笑った。
「そうですかね?ですがもう、決まってますから。情報はしっかり持っておいた方が良いかと」
そう言いながら立った七兵衛は、ニマニマと嬉しそうに紅子の元へと歩いてきた。
紅子は、背に冷たい汗が流れるのを感じた。
「喜べ」
ぐっと紅子の顎をつかみ、七兵衛は細い目をさらに細める。
「お前の縁談がまとまった。ようやくお前がいなくなるかと思うと……嬉しいものだ」
紅子は、一瞬頭が真っ白になった。
ふらりと後ずさり、その場にしゃがみ込んでしまう。
目を白黒させる紅子の様子に、七兵衛は満足気に膝をついた。
「まさか、断るわけがないよな?ああ、そうそう。その証人が、この方だ」
そう言って京三を振り返る。
証人とは、縁談のまとまりを見届ける人のことだ。また、その家は証人を頼んだ人にしてみれば神聖な人とされるため、そう易々と面会も出来なくなる。
おそるおそる、紅子は昭平を見上げた。
昭平もまた、紅子と同じく呆然とその場に立っているだけのようだ。
だがすぐに、昭平はすっと紅子に手を差し伸べた。
その手をとり、紅子はゆっくりと立ち上がって昭平と視線を合わせた。
「……紅子さん」
昭平はすっと息を吸い、
──笑った。
「おめでとうございます。先越されちゃったなぁ。どうぞ幸せになってくださいね」
曇りない笑顔に、紅子は、彼女の中の何かが音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
「……ありがとう、ございます」
そう言って、紅子はすっと手を引いた。
「私、まだ仕事が……すみません、失礼致します」
不審に思われぬよう逸る心を抑えながら、できる限りゆっくりとその場を後にした。
ちゃんと笑えていただろうか。変な動きをしてしまわなかったか。
きっと、きっと大丈夫だろう。なのに、あの人の前で失敗してないはずなのに、どうして。
「どうして、こんなに辛いの…………」
人が行き交う道を逸れた静かな小道には、小さな啜り泣くような声が響いていた。
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