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第一章《出会いと別れと悲嘆》
【七】
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宿屋では、週に一度行われる舞のために客がいつもより多く集まっていた。
「さぁ、今日も頑張らないと」
化粧を施した滋宇が、ぐっと拳を握りながら言った。
「夕飯、できましたよ」
一口サイズの手毬寿司が乗った盆を、紅子は踊り子に配っていく。
「美味しそう!いただきまーす」
踊り子たちは皆目を輝かせて取っていく。
「んんん!おいひぃ……お紅ちゃんが作るのは、いつもホントに絶品だわぁ」
桃李は頬に手を当ててうっとりとした表情で言う。
「でも勿体ない……お紅ちゃんも舞やればいいのに。体動かすことは長けているし、器量もとても良いのに」
残念そうに呟く梅夜に、紅子は苦笑を返す。
「私は、いつ居なくなってもおかしくない身の上なので」
とは言えずに、
「お料理作るの、好きなので」
とだけ答えた。
余計なことを言って空気を悪くしたくない。
「でも一応、ヘルプで出るくらいの技量は姉様たちから教わってますよ」
姉様たちというのは、梅夜や桃李のさらに先輩にあたる舞姫と呼ばれる踊り子だ。
すでに結婚して職を離れる者や、指導係に転身している者が多い。勿論現役もまだいる。
「ああ。お紅ちゃんは、姉様たちのかなりのお気に入りですものね」
紅子の控えめながらに努力家な姿勢、丁寧な態度は、彼女の生い立ちも相まって、年上の彼女たちの母性というか、姉性をくすぐるような存在なのだ。
「でも流石よね。いつまで経っても、追いつける気がしないわ」
羽織を身につけながら、梅夜は溜息を吐いた。
「追いつく……ですか。私は、皆が楽しそうに舞うのを見るのがとても好きです。勿論、姉様たちの舞はとても綺麗です。ですが、私は梅夜さんの舞も、桃李さんの舞も、比べるものがないほど美しいと思います」
紅子は世辞を言わない。
それゆえ、彼女らには紅子が本心から言っているのだと伝わる。
梅夜は紅色の唇をふっと和らげ、
「ありがとう」
と笑った。
本当に、稀に見る美人とはこの人たちのことだと紅子は思う。
梅夜と桃李は化粧をすれば別人になるが、どちらもこの世の者かと尋ねたくなるほど美しいのだ。
二人揃えばまた違う迫力がある。
「お紅ちゃんのご飯も食べたし、行ってくるね!」
ぐーっと腕を上に伸ばして、滋宇はにこりと笑う。
「ええ。頑張って、滋宇」
と、舞台へと彼女らを見送る。
「舞、ね」
私がこの宿屋で拾われた子だったら、心からこの生活を楽しめただろうに。
着物の裾を握りしめ、紅子は悲しげな笑みを湛えた。
いい人ばかりのこの宿屋で、ずっと生きていきたいのに。離れたくなんか、ないのに。
それをあの人は許さない。
許してなんかくれない。私が望むことは全て叶わない。
──どう、楽しめというのかしら。
いつ終わるやも分からないこの不安の中、どうして心の底から笑えようか。
「紅子さん。そろそろ……」
後ろから女将代理に声をかけられる。
紅子は「はい」と応えて舞台裏を後にした。
酒や肴を盆に乗せて、舞を楽しむ客に提供する。
舞を見にくるものは、女が多い日と男が多い日とある。
前者は基本昼間に、武装や男物の衣装を身につけた踊り子たちが劇をする。
後者は夜間、幼子の寝る時間辺りから始まる。値は勿論こちらの方が張る。
とはいえ、踊り子たちも若い女子だ。そんなに遅くまで営業はしないし、この宿屋は枕仕事はやっていない。
一見さんにたまに見かけるのが、札束をチラつかせて「お持ち帰り」しようと企む輩だ。あまりにしつこいようだと、見回りの警察にしょっぴかれていく。
「紅ちゃんは、踊らんの?」
芸名で呼ばれた紅子は、客に酒を注ぎながら苦笑した。
「私、舞って向いてないんです」
客は既に赤い顔をしている。
テーブルの上には、空の徳利が四杯寝そべっている。
「紅ちゃん、似合うと思うけどなぁ」
カラカラと笑う常連に、紅子はにこりと笑いだけを返す。
「お、そうだ。紅ちゃんも酒飲めるやろ?」
今年で十六になる紅子はたしかに飲める。
だが、彼女は酒がものすごく弱いのだ。
「いえ……私は、遠慮しておきます。明日も朝早いですし」
やんわりと断ろうと腰をあげると、腕をパシッと掴まれる。
「えぇやん、少しくらい。ほら、ほら」
そう言って日本酒を勧めてくる。
──この人、苦手なんだよなぁ。
常連だから無下にはできない上、羽振りもいいのだ。
だが、じとりとした視線や、何か企んでいそうなその表情が、紅子の背筋をゾクリとさせるのだ。
「あの、腕を離してください」
紅子は精一杯力を入れたが、ピクリとも動かない。
だんだんと手に汗が浮かんでくる。
──やだやだ……!気持ち悪い!
ぎゅっと目を瞑り、「困ります!」と声を上げると、男は舌打ちした。
「そういうのいいから。もうさっさとうち来てくれる?話はそこで聞くからさ」
金は前払いだ。
今更会計をする必要はないし、舞は盛り上がっていて誰も気づいていない。
──どうして!?
いつもなら見張りが必ずいるのだ。
だがその姿が見えない。
カタカタと身体が震える。
「俺ずっと、紅ちゃんのことイイと思ってたんだよね」
そう言った男の顔は、とても黒く、陰湿な雰囲気を醸し出していた。
「い、嫌です……やめてください………っ」
紅子の目に涙が浮かぶ。
ニヤニヤと笑いながら、男は紅子の腕を離さない。
そのまま外に連れ出されてしまった。
「大丈夫。優しくするから……──」
「旦那」
突如、男の肩を掴む手がにゅっと現れ、もう片方の腕で紅子を抱き寄せた。
ビクリと男の肩が跳ね上がった。
「な、なんだお前」
なんとも、悪役が叫びそうな台詞を吐きながら腕を振り払って右方向に半周回って手の主と対面した。
「この店の客ですが……旦那、ルールは守らないと」
身長は紅子よりも頭一つ分くらい高い。
だがそれ以上に、貫禄のある男だった。
紺の着物に黒い羽織を着ていて、髪は後ろで小さく結われ、小さく整った鼻の上に眼鏡をかけていた。
眼鏡をかけた男はそっと紅子から腕を離した。
「な、なんなんだ!俺は別に……その子が抜け出したいって言ったから連れ出してやっただけだ!」
ギロッと睨みつけるように紅子へ視線を向ける。
「そうだろ!?」
腕が小さく震える。
「頼んで、ないです……」
「あぁそう。じゃあもうこの店来れねぇなぁ?こんなに客を貶めようとする奴がいる所になんか、誰が行きたいのかねぇ?」
紅子は目に涙を溜めて、着物を握りしめた。
「貶めているのは、あなたの方です……!」
「はぁ?」
「この宿屋では!あなたのような客は歓迎していないと言っているのです!こっちから願い下げです!どうぞお帰りくださいませ!!」
紅子の剣幕に、男はたじろいだ。
燃えるような青白い光を灯す瞳が、月夜に輝く。
「な、なんなんだよ……クソ共が!」
「……クソはそっちだろうに」
と、紅子の後ろで男は呟いた。
「あっあの……助けていただいてありがとうございました。本当に助かりました」
深々と頭を下げる紅子に、男は優しげな笑みを浮かべて「いえいえ」とだけ答えて宿屋へと戻っていった。
──お客様だったのか。
紅子の口から自然と溜息が零れ出た。
天の川のよく見える空が、果てしなく続いている夜であった。
「さぁ、今日も頑張らないと」
化粧を施した滋宇が、ぐっと拳を握りながら言った。
「夕飯、できましたよ」
一口サイズの手毬寿司が乗った盆を、紅子は踊り子に配っていく。
「美味しそう!いただきまーす」
踊り子たちは皆目を輝かせて取っていく。
「んんん!おいひぃ……お紅ちゃんが作るのは、いつもホントに絶品だわぁ」
桃李は頬に手を当ててうっとりとした表情で言う。
「でも勿体ない……お紅ちゃんも舞やればいいのに。体動かすことは長けているし、器量もとても良いのに」
残念そうに呟く梅夜に、紅子は苦笑を返す。
「私は、いつ居なくなってもおかしくない身の上なので」
とは言えずに、
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とだけ答えた。
余計なことを言って空気を悪くしたくない。
「でも一応、ヘルプで出るくらいの技量は姉様たちから教わってますよ」
姉様たちというのは、梅夜や桃李のさらに先輩にあたる舞姫と呼ばれる踊り子だ。
すでに結婚して職を離れる者や、指導係に転身している者が多い。勿論現役もまだいる。
「ああ。お紅ちゃんは、姉様たちのかなりのお気に入りですものね」
紅子の控えめながらに努力家な姿勢、丁寧な態度は、彼女の生い立ちも相まって、年上の彼女たちの母性というか、姉性をくすぐるような存在なのだ。
「でも流石よね。いつまで経っても、追いつける気がしないわ」
羽織を身につけながら、梅夜は溜息を吐いた。
「追いつく……ですか。私は、皆が楽しそうに舞うのを見るのがとても好きです。勿論、姉様たちの舞はとても綺麗です。ですが、私は梅夜さんの舞も、桃李さんの舞も、比べるものがないほど美しいと思います」
紅子は世辞を言わない。
それゆえ、彼女らには紅子が本心から言っているのだと伝わる。
梅夜は紅色の唇をふっと和らげ、
「ありがとう」
と笑った。
本当に、稀に見る美人とはこの人たちのことだと紅子は思う。
梅夜と桃李は化粧をすれば別人になるが、どちらもこの世の者かと尋ねたくなるほど美しいのだ。
二人揃えばまた違う迫力がある。
「お紅ちゃんのご飯も食べたし、行ってくるね!」
ぐーっと腕を上に伸ばして、滋宇はにこりと笑う。
「ええ。頑張って、滋宇」
と、舞台へと彼女らを見送る。
「舞、ね」
私がこの宿屋で拾われた子だったら、心からこの生活を楽しめただろうに。
着物の裾を握りしめ、紅子は悲しげな笑みを湛えた。
いい人ばかりのこの宿屋で、ずっと生きていきたいのに。離れたくなんか、ないのに。
それをあの人は許さない。
許してなんかくれない。私が望むことは全て叶わない。
──どう、楽しめというのかしら。
いつ終わるやも分からないこの不安の中、どうして心の底から笑えようか。
「紅子さん。そろそろ……」
後ろから女将代理に声をかけられる。
紅子は「はい」と応えて舞台裏を後にした。
酒や肴を盆に乗せて、舞を楽しむ客に提供する。
舞を見にくるものは、女が多い日と男が多い日とある。
前者は基本昼間に、武装や男物の衣装を身につけた踊り子たちが劇をする。
後者は夜間、幼子の寝る時間辺りから始まる。値は勿論こちらの方が張る。
とはいえ、踊り子たちも若い女子だ。そんなに遅くまで営業はしないし、この宿屋は枕仕事はやっていない。
一見さんにたまに見かけるのが、札束をチラつかせて「お持ち帰り」しようと企む輩だ。あまりにしつこいようだと、見回りの警察にしょっぴかれていく。
「紅ちゃんは、踊らんの?」
芸名で呼ばれた紅子は、客に酒を注ぎながら苦笑した。
「私、舞って向いてないんです」
客は既に赤い顔をしている。
テーブルの上には、空の徳利が四杯寝そべっている。
「紅ちゃん、似合うと思うけどなぁ」
カラカラと笑う常連に、紅子はにこりと笑いだけを返す。
「お、そうだ。紅ちゃんも酒飲めるやろ?」
今年で十六になる紅子はたしかに飲める。
だが、彼女は酒がものすごく弱いのだ。
「いえ……私は、遠慮しておきます。明日も朝早いですし」
やんわりと断ろうと腰をあげると、腕をパシッと掴まれる。
「えぇやん、少しくらい。ほら、ほら」
そう言って日本酒を勧めてくる。
──この人、苦手なんだよなぁ。
常連だから無下にはできない上、羽振りもいいのだ。
だが、じとりとした視線や、何か企んでいそうなその表情が、紅子の背筋をゾクリとさせるのだ。
「あの、腕を離してください」
紅子は精一杯力を入れたが、ピクリとも動かない。
だんだんと手に汗が浮かんでくる。
──やだやだ……!気持ち悪い!
ぎゅっと目を瞑り、「困ります!」と声を上げると、男は舌打ちした。
「そういうのいいから。もうさっさとうち来てくれる?話はそこで聞くからさ」
金は前払いだ。
今更会計をする必要はないし、舞は盛り上がっていて誰も気づいていない。
──どうして!?
いつもなら見張りが必ずいるのだ。
だがその姿が見えない。
カタカタと身体が震える。
「俺ずっと、紅ちゃんのことイイと思ってたんだよね」
そう言った男の顔は、とても黒く、陰湿な雰囲気を醸し出していた。
「い、嫌です……やめてください………っ」
紅子の目に涙が浮かぶ。
ニヤニヤと笑いながら、男は紅子の腕を離さない。
そのまま外に連れ出されてしまった。
「大丈夫。優しくするから……──」
「旦那」
突如、男の肩を掴む手がにゅっと現れ、もう片方の腕で紅子を抱き寄せた。
ビクリと男の肩が跳ね上がった。
「な、なんだお前」
なんとも、悪役が叫びそうな台詞を吐きながら腕を振り払って右方向に半周回って手の主と対面した。
「この店の客ですが……旦那、ルールは守らないと」
身長は紅子よりも頭一つ分くらい高い。
だがそれ以上に、貫禄のある男だった。
紺の着物に黒い羽織を着ていて、髪は後ろで小さく結われ、小さく整った鼻の上に眼鏡をかけていた。
眼鏡をかけた男はそっと紅子から腕を離した。
「な、なんなんだ!俺は別に……その子が抜け出したいって言ったから連れ出してやっただけだ!」
ギロッと睨みつけるように紅子へ視線を向ける。
「そうだろ!?」
腕が小さく震える。
「頼んで、ないです……」
「あぁそう。じゃあもうこの店来れねぇなぁ?こんなに客を貶めようとする奴がいる所になんか、誰が行きたいのかねぇ?」
紅子は目に涙を溜めて、着物を握りしめた。
「貶めているのは、あなたの方です……!」
「はぁ?」
「この宿屋では!あなたのような客は歓迎していないと言っているのです!こっちから願い下げです!どうぞお帰りくださいませ!!」
紅子の剣幕に、男はたじろいだ。
燃えるような青白い光を灯す瞳が、月夜に輝く。
「な、なんなんだよ……クソ共が!」
「……クソはそっちだろうに」
と、紅子の後ろで男は呟いた。
「あっあの……助けていただいてありがとうございました。本当に助かりました」
深々と頭を下げる紅子に、男は優しげな笑みを浮かべて「いえいえ」とだけ答えて宿屋へと戻っていった。
──お客様だったのか。
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