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第一章《出会いと別れと悲嘆》
【二】
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入学式ならぬ入塾式が来週に迫った頃、紅子の働く宿屋に、義父の七兵衛が顔を出した。
用件は週に一回の金銭管理のため、だと疑わなかったのだが、帳簿を見てから玄関へと向かう七兵衛が、ふいに振り返って紅子に視線を注いだ。
あの、背筋がゾッとする冷たい視線で。
「塾へ行く分の給料は、引いておくからな。──良いように由利江を使おうなんて考えるなよ」
低く、憎悪のような感情しか見当たらない声色だった。付近に居た従業員らはしんと口を噤み、事の次第を見守るように二人を注視する。
紅子はそっと膝を折り、恭しく頭を下げた。
「…………勿論でございます。この度は、お許し頂き誠に感謝しております。誠心誠意、御館様にお仕えさせて頂く所存です」
七兵衛は、紅子の後頭部を視界の端に入れ、ピシャッと大きな音を立てて戸を閉めた。
数秒後、誰ともつかない安堵の溜息で緊迫していた空気が和らいだ。
「いつもならお紅ちゃんのことは無視なのに……どうして今日に限ってあんな……ねぇ?」
従業員の一人の桃李が、双子の姉である梅夜に同意を求めるように視線を投げた。
「ていうか、お紅ちゃんと話したくもないような顔して……話したくないなら話しかけるなってかんじだわ。全く……腹立たしい」
そう言った梅夜の額には青い血管が浮き出ていた。
梅夜も桃李も、家無しの子供だった。
親に捨てられ、盗みをして暮らしていたところを紅子の母親である清美に拾われた。
清美は家のない子や貧乏な子を積極的に雇い、賃金と寝床を与えてやった。
加えて、接客に対する礼儀作法や、安物の生地ではあったが、着物を仕立てたりお下がりをあげたりしていた。
今でこそ立派な美人姉妹として看板娘を担っているが、それもこれも元を辿れば清美の恩恵に行き着く。
清美が彼女らに対して家族のように接するため、彼女らも次第に心を開いていき、やがて自然と笑えるようになった。
そのため、清美を崇拝していたといっても過言ではないくらい彼女を慕っていた梅夜らは、清美の亡き後すぐに再婚し、紅子を邪険にする七兵衛のことを忌み嫌っている。
「びっくりしたわ……話しかけてくることなんて今まで無かったのに」
「ああ、そうね。いつもは誰かお付者を挟んで会話するものね」
と梅夜が相槌を打ち、「いつの時代の貴族だっての。つか貴族ですらないくせに」と毒を吐く。
「あーっもう!いらいらするわ。桃李!今日の夜は飲みに行くわよ!」
酒好きな彼女は声を荒らげた。
彼女は何かむしゃくしゃするときは飲んでスッキリ忘れる。
そんなスッキリとしたとも言える彼女の生き方が、周りに好かれる理由でもある。
「何を大声出してるんですか」
奥から出てきた女将代理が眉間に皺を寄せて梅夜を睨んだ。
「すみません」
と首を竦めた梅夜は、襷を着物の袖から取り出して袂を絡げた。
「じゃ、そろそろ営業しましょうかね」
女将代理の手を打ち合わせる音で、皆の表情が引き締まる。
「今日もいい笑顔で。皆さん、頼みましたよ」
「はい!」
従業員たちは声を合わせて応えた。
この宿屋は、先代女将の清美によって集められた女たちによって経営され、夜は宿屋、昼間は甘味処となっている。
元々料理の腕が優れていた清美ならではの発想である。
その料理係は、現在は女将代理と梅夜と紅子が担っている。
以前清美一人で料理を担当していると、体力的に限界があるという問題点が浮き彫りになり、料理は最低二人以上が受け持つこととなったのだ。
「私が塾に通うと、二人になってしまいますけと……大丈夫でしょうか」
上目遣いで二人をちらと見る。
「夕暮れ時にはいるんでしょ?なら平気よ。任せなさい」
梅夜はなんでもないことのように請け負う。
「それに、陽時厘を入れてしまえば解決ですよ」
女将代理は炭を起こしながら微笑んだ。
陽時厘とは、先代女将が美少女と間違えて勧誘した、松衛たった一人の男子の従業員なのだ。
肉があまりつかない体質の上に髪を伸ばしているため、一見さんは殆ど彼を女子と見なす。
本人は気にしていないというより、むしろ自分から女装をしている。
「だって男の格好していると、お客さんの出入りが悪いもの」
とのことだ。
実際、甘味処の時間帯に彼が男の格好をすると、女の客が入り浸って出ていこうとはしない。
男の客だと、仕事柄入り浸る時間もないため回転率が良いのだ。
「陽時厘にあとで謝っておかないと」
と紅子が苦笑すると、梅夜はニヤッと口の端を上げて「いやいや」と言う。
「お紅ちゃんが『お願い陽時厘!』って言うだけで言うこと聞くわよ、アイツ」
「ちょろいものね、陽時厘は」
と、女将代理まで笑っている。
当の本人の陽時厘はと言えば、玄関の掃き掃除をしている。
「陽時厘」
団子を丸め終えてから、紅子は陽時厘に歩み寄った。
「どうした?」
と、陽時厘が振り返る。
相変わらず目がクリッとしていて端正な顔立ちをしている。
「私、塾に通うから料理を代わりにやってくれないかしら」
駄目?と眉を下げる紅子に、陽時厘はうっと声を詰まらせる。
「お紅さん、わかってやってるの?ズルい…………」
頬を赤らめながらブツブツ言う陽時厘に、紅子はもう一度ダメ押しで「やっぱり駄目?」と聞く。
「いいよ、やるよ。その代わり……」
「ありがとう、陽時厘!」
と、紅子は笑顔で陽時厘の両手を握った。
ぶわっと陽時厘が首まで赤くなる。
「時雨さん!梅夜ちゃん!陽時厘がいいって言ってくれました」
タッタッと厨房に戻っていく紅子と、真っ赤な顔のまま取り残された陽時厘とを見て、桃李と滋宇は思わず吹き出した。
「頑張れ、陽時厘」
笑いながら声をかけてくる二人に、陽時厘は精一杯目をきつく寄せたが、美少女が頬を膨らませているような表情にしかならない。
「ほら、陽時厘!請け負ったならすぐ来る!」
梅夜の号令に、陽時厘はムスッとした表情のまま厨房へと駆けていった。
用件は週に一回の金銭管理のため、だと疑わなかったのだが、帳簿を見てから玄関へと向かう七兵衛が、ふいに振り返って紅子に視線を注いだ。
あの、背筋がゾッとする冷たい視線で。
「塾へ行く分の給料は、引いておくからな。──良いように由利江を使おうなんて考えるなよ」
低く、憎悪のような感情しか見当たらない声色だった。付近に居た従業員らはしんと口を噤み、事の次第を見守るように二人を注視する。
紅子はそっと膝を折り、恭しく頭を下げた。
「…………勿論でございます。この度は、お許し頂き誠に感謝しております。誠心誠意、御館様にお仕えさせて頂く所存です」
七兵衛は、紅子の後頭部を視界の端に入れ、ピシャッと大きな音を立てて戸を閉めた。
数秒後、誰ともつかない安堵の溜息で緊迫していた空気が和らいだ。
「いつもならお紅ちゃんのことは無視なのに……どうして今日に限ってあんな……ねぇ?」
従業員の一人の桃李が、双子の姉である梅夜に同意を求めるように視線を投げた。
「ていうか、お紅ちゃんと話したくもないような顔して……話したくないなら話しかけるなってかんじだわ。全く……腹立たしい」
そう言った梅夜の額には青い血管が浮き出ていた。
梅夜も桃李も、家無しの子供だった。
親に捨てられ、盗みをして暮らしていたところを紅子の母親である清美に拾われた。
清美は家のない子や貧乏な子を積極的に雇い、賃金と寝床を与えてやった。
加えて、接客に対する礼儀作法や、安物の生地ではあったが、着物を仕立てたりお下がりをあげたりしていた。
今でこそ立派な美人姉妹として看板娘を担っているが、それもこれも元を辿れば清美の恩恵に行き着く。
清美が彼女らに対して家族のように接するため、彼女らも次第に心を開いていき、やがて自然と笑えるようになった。
そのため、清美を崇拝していたといっても過言ではないくらい彼女を慕っていた梅夜らは、清美の亡き後すぐに再婚し、紅子を邪険にする七兵衛のことを忌み嫌っている。
「びっくりしたわ……話しかけてくることなんて今まで無かったのに」
「ああ、そうね。いつもは誰かお付者を挟んで会話するものね」
と梅夜が相槌を打ち、「いつの時代の貴族だっての。つか貴族ですらないくせに」と毒を吐く。
「あーっもう!いらいらするわ。桃李!今日の夜は飲みに行くわよ!」
酒好きな彼女は声を荒らげた。
彼女は何かむしゃくしゃするときは飲んでスッキリ忘れる。
そんなスッキリとしたとも言える彼女の生き方が、周りに好かれる理由でもある。
「何を大声出してるんですか」
奥から出てきた女将代理が眉間に皺を寄せて梅夜を睨んだ。
「すみません」
と首を竦めた梅夜は、襷を着物の袖から取り出して袂を絡げた。
「じゃ、そろそろ営業しましょうかね」
女将代理の手を打ち合わせる音で、皆の表情が引き締まる。
「今日もいい笑顔で。皆さん、頼みましたよ」
「はい!」
従業員たちは声を合わせて応えた。
この宿屋は、先代女将の清美によって集められた女たちによって経営され、夜は宿屋、昼間は甘味処となっている。
元々料理の腕が優れていた清美ならではの発想である。
その料理係は、現在は女将代理と梅夜と紅子が担っている。
以前清美一人で料理を担当していると、体力的に限界があるという問題点が浮き彫りになり、料理は最低二人以上が受け持つこととなったのだ。
「私が塾に通うと、二人になってしまいますけと……大丈夫でしょうか」
上目遣いで二人をちらと見る。
「夕暮れ時にはいるんでしょ?なら平気よ。任せなさい」
梅夜はなんでもないことのように請け負う。
「それに、陽時厘を入れてしまえば解決ですよ」
女将代理は炭を起こしながら微笑んだ。
陽時厘とは、先代女将が美少女と間違えて勧誘した、松衛たった一人の男子の従業員なのだ。
肉があまりつかない体質の上に髪を伸ばしているため、一見さんは殆ど彼を女子と見なす。
本人は気にしていないというより、むしろ自分から女装をしている。
「だって男の格好していると、お客さんの出入りが悪いもの」
とのことだ。
実際、甘味処の時間帯に彼が男の格好をすると、女の客が入り浸って出ていこうとはしない。
男の客だと、仕事柄入り浸る時間もないため回転率が良いのだ。
「陽時厘にあとで謝っておかないと」
と紅子が苦笑すると、梅夜はニヤッと口の端を上げて「いやいや」と言う。
「お紅ちゃんが『お願い陽時厘!』って言うだけで言うこと聞くわよ、アイツ」
「ちょろいものね、陽時厘は」
と、女将代理まで笑っている。
当の本人の陽時厘はと言えば、玄関の掃き掃除をしている。
「陽時厘」
団子を丸め終えてから、紅子は陽時厘に歩み寄った。
「どうした?」
と、陽時厘が振り返る。
相変わらず目がクリッとしていて端正な顔立ちをしている。
「私、塾に通うから料理を代わりにやってくれないかしら」
駄目?と眉を下げる紅子に、陽時厘はうっと声を詰まらせる。
「お紅さん、わかってやってるの?ズルい…………」
頬を赤らめながらブツブツ言う陽時厘に、紅子はもう一度ダメ押しで「やっぱり駄目?」と聞く。
「いいよ、やるよ。その代わり……」
「ありがとう、陽時厘!」
と、紅子は笑顔で陽時厘の両手を握った。
ぶわっと陽時厘が首まで赤くなる。
「時雨さん!梅夜ちゃん!陽時厘がいいって言ってくれました」
タッタッと厨房に戻っていく紅子と、真っ赤な顔のまま取り残された陽時厘とを見て、桃李と滋宇は思わず吹き出した。
「頑張れ、陽時厘」
笑いながら声をかけてくる二人に、陽時厘は精一杯目をきつく寄せたが、美少女が頬を膨らませているような表情にしかならない。
「ほら、陽時厘!請け負ったならすぐ来る!」
梅夜の号令に、陽時厘はムスッとした表情のまま厨房へと駆けていった。
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