甘瀬の声は夏を呼ぶ

木風 麦

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伝え損ねたこと

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「ごめんねー 思ったより荷造りに時間かかっちゃってさ」
 息を弾ませながら彼女が走ってきた。薄緑のワンピースとサンダルという、制服でない見た目に見事どきりとさせられる。
 今日は出立の日。甘瀬夏呼と会うのが最後になるかもしれない日だ。
 ところは甘瀬の自宅近くの公園。小さめのジャングルジムと漕ぐ部分のなくなったブランコ。ちゃちなところだが、砂場で遊ぶ子ども二人は楽しそうだ。
 なにから話せばいいのかわからずに、
「晴れたな」などとくだらないことを口にする。
 無難だがなんの生産性もない話題を振ってしまった。
「ね。転居日和ってやつ?」
 彼女は笑いながら会話にしてくれる。
 長い間眠るためには、まず体を慣らさなくてはいけないのだと教えてくれたことがあった。だから徐々に眠る時間を増やしていくのだと。そのために寝所を早いうちから病院へ移してしまうのだと。
「……遠いんだっけか、病院」
「まあ、近くはないね。でも行けない距離ではないと思うよ?」
 悪戯っぽく彼女は笑う。
 あやふやにしたのはそっちじゃないか、と文句を言いたくなる。だがすぐに、逃げたのは自分も同じだったと思い直す。
「それで、お別れの挨拶だけしにきたの?」
 さすがに焦れたのか、彼女のほうから聞いてきた。
「ああ、いや。今日は体育祭の写真を持ってきたんだ。先生がいいカメラで撮ってくれたろ?それを現像したんだと」
 と写真を鞄から取り出す。
 体育祭の、学ランを着た彼女が大きく腕を振っている写真、スピーチで家族を泣かせた写真、みんなで撮ったクラス写真、友人たちと写った写真。
 一枚一枚、彼女は思い出をなぞるようにじっくり見返す。

 体育祭の応援合戦の前に、各々のチームの応援団長が意気込みを語る場面があった。そのときに彼女は、少し変わったことをした。
 普通は応援団として過ごした日々を振り返ったり、「絶対勝つぞぉ!」みたいな気合いを入れたりするものだ。けれど彼女は、自分の家族に向けてスピーチをした。

「お父さんお母さん、そして愛する私の妹に、私の思いを伝えたくて応援団に入りました。私は……私は、生まれてきて、今日が、今が一番楽しいです!育ててくれて、産んでくれて、愛をたくさんくれて、ありがとう!大好きです!……それを、ふつうの日常の中で言う機会なんてないから、この場を借りて言わせてもらいました!みんな付き合わせてごめん!ありがとう!」

 この言葉の本当の意味を知っているのはごく僅か。やっぱり甘瀬の家族は泣いていたし、甘瀬の友人たちは「うちらも甘瀬のこと大好きだかんねーっ!」と声援を飛ばしていた。

「ありがとう」
 彼女は慈しむような目で写真を眺め、壊れ物に触れるかのような丁寧な仕草で写真をしまう。
「もう、用事は終わり?」
「……そうだな」
「そっか」
 彼女はうなずき、背を向けた。

「……前さ、植物に水をやってる男子って君だったんだみたいなこと言ったじゃない」

 唐突な話題に、無意識に首肯する。どの場面だ、と頭を巡らす前に、彼女が再び口を開く。
「実は前から知ってたんだ。君が植物に水をやってるって。保健室の窓からちょっと見えるんだよ。それで……君はほとんど毎日、水をやりにきてたよね。根が真面目なのかなって思ったら宿題ちょくちょく忘れてきてたり、男子と馬鹿やったりもしてる。変な人だなって思ったよ」
 改めて言葉にされると恥ずかしい行動ばかりしている気がする。
 火が出そうな顔を背けると、彼女は間を置いた。

「君が私に話しかけてくれる前から、私は君のこと知ってたよ」

 真っ直ぐに向けられた言葉に、耳が熱を持つのを感じる。こんなふうに言われたら誰だって勘違いするに決まってる。
 今が終われば、きっと翌年の夏も君を思い出すんだろう。そのときいい思い出として残るか、それとも後悔が残るものにしてしまうのか。

「それじゃ、さよなら」

 半身で振り返った彼女に、言葉を返せない。ただ一言、「さよなら」と言ってしまえば彼女はもう振り返らないだろう。
 彼女にハッパをかけたのは誰だ、と自分を叱咤する。自分だけ逃げるのは卑怯だともうひとりの自分が言う。

 去ろうとする背に、
「甘瀬!」と短く叫んだ。

 振り返る動作が、すごく緩慢なものに思えた。

「おれは、甘瀬夏呼が……気になってます」

 甘瀬は無言で続きを促す。
「おれはまだ、好きだと言えるほど君のことを知らない。でもずっと気になってるんだ。君のことを知りたいと思ってる。だから、……だから、それを知るために、おれと付き合ってほしい」
 緊張で口がだんだん早くなるのを自覚していても止められない。自分のことにいっぱいいっぱいで、相手の様子を窺う余裕さえない。
「君の友人でいるって言ったのは、そうしたら君との縁はずっとつながってる。君との関係性を示す言葉をずっと持ち続けているって思ったからなんだ。けどよく考えたら、初恋の子としておれの中にはずっと残るなって思ったから……なんか、友人じゃなくてもいいかなとか、勝手に」
 やっぱり締まらない。うまく完結させられたらいいのだが、脳から溢れ出る感情と情報を言葉にするので精一杯なのだ。
 そんなおれの葛藤を知ってか知らずか、彼女は「あははっ」と笑い声を上げた。
「なにそれ!もう……私はたしかに告白を期待してたけどさ、まさかここまで予想外な告白とは」
 お腹を抑えながら笑い続ける彼女につられるように、おれの唇も弛んでしまう。だって好きな子が目の前で楽しそうに笑っていたら、内容がどうであれ、もうなんでもいいやと思えてしまう。
「私は好きだよ、晴澄くん。君さえよければ、残りの私の人生に付き合ってほしいな」
 告白が重い。重いが、嫌悪感はゼロだった。むしろ充足感にも似た多幸感が腹の底から湧いてくるようだった。

 夏の日差しのように明るい彼女を、一緒にいてもいなくても、ふと思い出すんだろう。あの暑い体育祭で、彼女が張り上げた声と、眩しい笑顔とともに──……。


***


 そうこうしている間に、秋がきた。

 彼女は、夏休みの半ば辺りから本格的に眠りに入り、次に目覚めるのは冬らしい。こうして彼女の体の時計の秒針をゆっくりにしていくのだ。

 半月、彼女が目を覚まさない状況が続いている。

 不安だし、怖い。気を抜いたら泣いてしまうかもしれない。けれどそれは彼女が望むことではないと知っている。
 だから今日も、おれは一輪の花を片手に病室へ通い続ける。

 また一緒に笑い合える日を夢見て。
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