甘瀬の声は夏を呼ぶ

木風 麦

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 花壇での会話を最後に、体育祭はやってきた。
 これがもし漫画だったら、この期間にもっと交流があって距離が縮まったのかもしれない。だがそんなことはなく、相変わらず妙な距離を保ったままだ。
 お互い干渉せず、だがお互いに気にし合う。自惚れでないのなら、そんな状態が続いているのが現状だった。
 もしこれがただの気になる子という言葉で片付けられるのなら、きっと「ドキドキ」やら「わくわく」やらで胸がいっぱいになるんだろう。そうでありたかったような、そうなりたくなかったような、矛盾する感情に苛まれる。

 今だって、すぐ隣に彼女が友人と話している。その隣で、おれも自分のダチと話す。触れようと思えば、その手を握ることができた。けれどそんなことできるはずもなく。

──同じ色のハチマキを巻いていたって、こんなにも遠い。

 あと少しで彼女は去っていく。その「少し」の間に、距離が近づけるような気がした。おれにだけ秘密を話してくれたから、期待した。もしかしたら、と。
 その期待はわりとすぐに砕かれ、次にやってきたのは「もうこのままでいいじゃないか」という思いだった。他の男とは違う距離が確実にある今の状況でいいじゃないか。そう考えるようになった。無理に距離を縮めようと動いて彼女から避けられたら──と想像するだけで背中が震える。

「──あ、やっばい学ラン忘れた」

 甘瀬の透き通る声がするりと鼓膜に流れ込む。その声を、他の誰が聞いただろう。
 ここで立候補すれば、からかわれるのは目に見えている。なんの接点もないおれが名乗り出たら、好意が透けて見えると言われても否定ができない。
「まだ教室開いてるかな?ちょっと行ってくる」
 走り出す甘瀬の背を、横目で見ることしかできない。
 後ろの方で、何人かのため息が聞こえた。同じようなことを考えていた輩の落胆のため息だった。

「……ちょっと、飲み物買ってくるわ」

 財布を片手に走り出す。
 どくどくと耳元で脈が跳ねる。息も荒い。緊張でうまく酸素を取り込めない。走るのを今すぐやめて引き返して、冷静になりたい。冷静になって、それで、これは一時の気の迷いだと自分に言い聞かせたい。

 三階まで全力疾走したせいで、呼吸がまったく整わない。教室の扉の前まできて、またも手が止まる。
 何をしにきたんだ、という顔をされたらきっと心臓が痛くなる。釘を打ち付けられたような触感になるだろう。

──もしそうなったら、もしかしたら、吹っ切れるんだろうか。

 もやもやと悩むことが、彼女の反応に恐れることが無くなるのだろうか。

 それは果たして、「吹っ切れる」ってことなんだろうか。
 もし吹っ切れたらそのときは、隣に甘瀬以外の女がいるんだろうか。

 気づけばガラッと音を立てて扉を開いていた。

 窓側に並べられた机に座った彼女が、学ランを手にぶらぶらと足を揺らしていた。
 ゆっくり顔を上げ、その唇に笑みを灯した。
「どうしたの?」
「……べつに。甘瀬は?」
 誤魔化し方がわからず、ぶっきらぼうな応え方になる。だが甘瀬は相変わらず突っ込まずに、
「余韻に浸ってたんだよ」と言う。
「もうこれでホントに終わるんだなって。全然実感湧かないから、ちょっとずつ自分を納得させてるの」
 それだけ言うと、また窓の外へと視線を向けてしまう。
 金糸のような髪が風に吹かれてさらりと宙を舞う。外の喧騒がほとんど耳に入ってこない。自分の心臓の音だけが、いま聞こえるすべての音だった。

 好きだと、言いたくなった。

 気になっているんだと伝えたくなった。

──けど、……。

「……甘瀬は、未練をぜんぶ断ち切ろうとしてるのか?」

 甘瀬がぱっと振り返る。
 真ん丸になった瞳に、ぼんやりした自分が映っているのが見えた。

「ぜんぶここに、置いていこうとしてるのか?」
 はく、と口が微かに動いた。
 逡巡するように視線を遠くへ投げた彼女だが、もう一度目を合わせてきた。
 茶の瞳が真っ直ぐに向けられる。太陽の光をいくつか浴びて反射しているかのように眩しい。
「もし、違うよって言ったら?」
「そのときは、告白する」
「……じゃあ、そうだよって言ったら?」
「そのときは、……おれは、ずっと君の友人だって言うよ」
「…………なにそれ」

 呟いた彼女は、初めて顔をくしゃりと歪めた。
 潤んだ目で睨みつけ、「意味わかんない」と吐き捨てる。その言葉とは裏腹に、彼女の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れては太ももに落ちていった。
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