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第十八章 帝都決戦
7 新生バイアー帝国の誕生ですわ!
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皇帝ベルナルドの死が公にされ、帝都ミュニホフは騒然となった。嘆き悲しむ者、事実を受け止められず呆然と立ち尽くす者、淡々と皇帝の死を受け入れる者……。反応は様々だったが、しかし、ベルナルドが慕われていた事実に変わりはない。否定的な反応のほうが圧倒的に多い様子は、アリツェの目から見ても明らかだった。
現状でミュニホフは、反皇帝軍が軍政を敷いている。表立ってラディムたちを非難する人間はいない。
(お兄様の挑戦は、とてつもなく過酷なものになるやもしれませんわ……)
同時に、ラディムの皇帝即位のお触れも出された。こちらについては、皆冷淡な反応だ。
表向きでは受け入れる姿勢を見せている。だが、果たして内心ではどうであろうか。
二日後には皇宮のテラスからミュニホフの市民に向けて、ラディムによる即位の挨拶が披露される。どれほどの市民が駆けつけ、どれほどの市民がラディムの話を聞き、そして、どれほどの市民が新しい帝国の指針へと賛同を表明するだろうか。
(即位披露の場で、荒れなければよいのですが……)
湿った風がアリツェの頬を撫でる。
空を見上げれば、厚く垂れこめた黒い雲。ここしばらく好天続きだった帝都に、久しぶりの雨の予感がする。降りしきる雨とともに、人々にまとわりこびりついている負の感情も、一緒に洗い流してくれたならば、どれほどありがたいだろうか。
明日は、皇宮近くの世界再生教大聖堂――後日、精霊教会に改宗される予定らしいが――で、ラディムの戴冠式だ。雨に濡れ、体調を崩すわけにもいかない。アリツェは土砂降りになる前に、急ぎ宿へと戻った。
ラディムの戴冠式の翌日、ギーゼブレヒト大通りを一望できる宮殿のテラスに、ラディムが皇帝の夏用の正装を身にまとい立っていた。小柄な体躯も、風に吹かれて翻る深紅のマントのおかげで、遠目からは大分大きく見える。頭上には金で複雑な細工の施された帝冠を載せており、その手には、やはり黄金でできた錫杖を持っていた。
前日の嵐も過ぎ去り、空は雲一つない晴天だった。照り付ける強烈な日差しによって、ラディムの身につけた黄金はきらびやかに輝き、人々の目に焼き付いていく。
もしお披露目の場にミュニホフの市民たちが集まらなかったらどうしようと、アリツェは不安を募らせていた。だが、その懸念も杞憂に終わった。
ギーゼブレヒト大通りは、多数の市民で埋め尽くされ、新皇帝の言葉を今か今かと待ちわびているようだ。ただ、ラディムの言葉への期待感が、果たして肯定的なものなのか否定的なものなのかまでは、わからなかったが。
いずれにせよ、こうして市民にラディム自身の生の言葉を聞いてもらうことこそが、今のラディムにとっては必要だ。地道に、少しずつ、帝国国民の支持を集めていかなければならない。今日がその第一歩になる。
「親愛なる帝国臣民よ!」
ラディムは声を張り上げた。
ざわついていたギーゼブレヒト大通りも、水を打ったように静まり返る。
「皇帝ベルナルド・ギーゼブレヒトは去り、私が新たな皇帝となる。……今回の事態に、困惑している者も多いと思う」
ぐるりと周囲を見回すラディムの視線に、周囲からゴクリと生唾を飲み込む音が漏れ聞こえてきた。
誰も、一言も発しない。ただただ、年若い新皇帝の言葉に耳を傾けている。
「近いうちに今回の顛末を、政府としてきちんと告知という形で皆に知らしめるつもりだ。すぐに理解をしてもらえるとは、私も思っていない。私に対して反感を覚えている者が多い事実も、厳粛に受け止める」
アリツェは遠目から、わずかにラディムの表情が歪んだのが見えた。だが、ラディムはすぐに顔を引き締めなおした。
「だが、一つだけ聞いてほしい。我がギーゼブレヒト家は、世界再生教の司教にいいように思想を操られ、皆に誤った考えを植え付けてしまった。私は偶然にも他国で正しい情報を得られ、こうして洗脳を解くことができたが、帝国を統べる帝室の一員として本当に恥ずかしい。すまなかった」
ラディムは頭上の帝冠を下ろして小脇に抱えると、ゆっくりと頭を垂れた。長々と。
なかなか頭をあげないラディムに、周囲からざわめきが起き始めたころ、ゆっくりとラディムは姿勢を戻した。
今のラディムの態度を、ミュニホフの市民たちはいったいどのような気持ちで見守っただろうか。いまさら頭を下げても、市民の愛したベルナルドは戻ってこないとの非難や憎悪の想いか。皇帝という最高権力を持ちながらも、きちんと謝罪のできるできた人間だとの評価か。年若い皇帝による明るい未来を創造し、期待感を抱いたか。はたまた、何ら感じるものなどなかったか。
「今後、世界再生教の国教指定は解除し、精霊教の布教も認める。我が帝室は精霊教を信奉するが、国民皆に押し付けるつもりはない」
宗教問題に関して、ラディムやムシュカ伯爵の出した結論だった。
世界再生教を禁止しては、以前精霊教を禁教化した時のような事態が、世界再生教徒に対して起こる危険性もある。国としてはあくまで、精霊教を重視する方針は曲げられない。だが、従前どおり世界再生教を信仰する者を、むやみやたらに排除したりもしない。改宗を強制させたりすれば、新たな宗教問題の火種になりかねないとの判断からだった。
「世界再生教の教義自体が誤っていたわけではない。今回の件の黒幕が、世界再生教の教義を捻じ曲げていたにすぎない。なので、これまで通り世界再生教を信仰し続けることも、当然に認める」
精霊教が悪役にされたのも、あくまでもザハリアーシュ一派の企みのせいだった。おおもとの世界再生教が、精霊を否定しているわけではない。事実、大陸中央支部以外の世界再生教支部で、明確に精霊教を叩いていた所はなかった。
「前帝ベルナルドの政策でよかったものは、今後も継続してゆく」
おそらく、市民の一番の関心は経済政策だろう。ベルナルドの改革で救われた者は非常に多い。この点を変えてしまえば、反発は今以上に膨れ上がるのは必至だった。
「帝国臣民よ、早急に普段の生活に戻れるよう、私は全力を尽くす! どうかしばらくは、私の行動を見守っていてはくれないか」
非難の声が上がず、ラディムもどうやらホッとしているようだ。続く言葉に力がこもっている。
「虫のいい話だとはわかっている。だが、どうか私に機会をくれ。きっと結果を出して見せる」
ラディムは右手を前方に突き出すと、ぎゅっとこぶしを固く締めた。
「そして、その結果が満足のいかぬものであれば、どうぞ私を批判をしてくれ。私は皆の声を甘んじて受け入れ、身を引くつもりだ」
ラディムの言葉に、周囲から驚きの声が上がる。まさか、皇帝が自ら身を引こうと訴えるとは、誰も思っていなかったようだ。
……アリツェも、まさかラディムがここまで言うとは知らされておらず、少々面食らった。だが、それほどの覚悟のうえで、ラディムは帝位を手にしたのだろう。
「しばらくは厳しい時期が続くかもしれない。だが、必ず帝国は立ち直る。どうか、ともに戦ってほしい!」
残念ながら、ここで皇帝の名を呼ぶ歓声が上がるような事態にはならなかった。だが、アリツェが周りのミュニホフ市民の表情を伺うと、演説前の否定的な様子が大分薄らいでいるのがわかった。今回のラディムの宣言は、決して失敗ではなかったはずだ。
ラディムの国民へのお披露目の日から、さらに数日が経った。今回の戦争の総括のために、皇宮のラディムの私室に主だった面々が集まっている。
発端となったザハリアーシュら世界再生教側の陰謀。追放された帝国内の精霊教徒達のこれまでの境遇と今後の対策。ベルナルド側が流したラディムに対する悪評の内容と、今後どのように名誉を回復していくか。今回の戦争の功労者への報酬。などなど、様々な内容が話し合われた。
思った以上に議論が白熱し、この日一日ではすべての案件を処理しきれなかった。ひとまず一番優先順位が高いと思われた戦争功労者への恩賞に絞り、結論を出した。
「今回の戦の論功行賞も終わり、帝国の上層部もだいぶ様変わりするな」
ムシュカ伯爵は目の前の資料に目を落としつつ、つぶやいた。資料には、今日決定した恩賞対象者の名がずらりと並んでいる。
「伯爵様――ええと、もう侯爵様、ですわね。お兄様の周りには、侯爵様以外に安心して相談できるような方はいらっしゃるのでしょうか」
アリツェも同じ資料に目をとおしつつ、果たしてこの中のどれだけの者が、ラディムの信頼できる味方なのだろうかとアリツェは訝しんだ。
ちなみにムシュカ伯爵もこの一覧に名が乗っており、恩賞として加増、昇爵され、侯爵となる。
「私と親交の深かった貴族で、世界再生教にどっぷりとは浸かっていなかった者が何名かおったので、その者を当面の間傍につかせるつもりだ。だが、将来的にはラディム陛下の子飼いを育てておきたいところだな」
ムシュカ侯爵は口元を手で覆いながら、「ウーム……」と唸り声をあげた。
「やはり、わたくしがマリエ様を殺めてしまったのは、大きな損失でしたわ……」
霊素持ちで優秀な導師だったマリエは、生きてさえいればラディムの最も頼れる側近になったに違いなかった。アリツェは吹っ切ったつもりではあったが、やはりこうして思い出せば、胸にチクリと刺さるものはある。
「アリツェ様、事情は伺っております。あまりお気に病まないでください」
エリシュカは気を遣ってくれたのか、紅茶を入れて持ってきた。
「ありがとうございますわ、エリシュカ様」
アリツェは礼を言ってカップを受け取ると、そっとひとくち口に含んだ。さすがに元第一皇子付きの侍女。味わいも香りも、アリツェが淹れたものではとても及ばない。
「導師部隊に従軍させられていた子供で、ザハリアーシュの洗脳が解けた者たちを、どうにか育てられないかと思ってはいるのだが」
「先は長そうですわね。……霊素持ちの子供の教育であれば、わたくしが請け負ってもよろしいですわ。王国の人間であるわたくしが、差し出がましいかもしれませんが」
元々精霊使いの育成は、ラディムへの援助として考えていた。アリツェとしても、請われれば喜んで引き受けるつもりではあった。
「アリツェ殿にご助力いただけるのは大変に助かる。正直なところ、霊素持ちを適切に導ける人材が、今の帝国にはいないのだ。ラディム陛下はご自身の役割で精いっぱいなので、身動きがとれんし」
侯爵は渋い表情を浮かべた。
帝国内で最も精霊術に長けているのはラディムだったが、さすがに皇帝自らが人材の育成に携わる時間はないだろう。
「では、グリューンへ寄こしていただければ、わたくしがどうにか致しましょう。ちょうど、わたくしの側近として、孤児院時代の友人に精霊術を教える話になっております。ですので、一緒に面倒を見ますわ」
シモンとガブリエラへの精霊術指導へ一緒に参加させれば、お互いに切磋琢磨しあえるだろう。手間がかかるどころか、むしろ、教育効率が上がりそうな気がした。
「まったく、アリツェ殿には感謝しかないな。ザハリアーシュが作った『生命力』持ちの育成マニュアルも、表面的な部分以外はすべて大司教に持ち出されていたようで、ノウハウがないのだ。非常に助かる」
「困ったときはお互い様ですわ、侯爵様」
頭を下げる侯爵に、アリツェはニコリと微笑みかけた。
アリツェも侯爵には世話になっている。その分の恩はきっちりと返さねばならない。
「しばらく帝国は混乱期に入る。これ以上、何事もなければいいのだが……」
ぼそっとつぶやく侯爵の表情は、僅かに不安に揺れているように見えた。
論功行賞の決定後も、引き続き戦争の総括は続いた。数日の話し合いの後、どうにか一通りの結論を出し終えたところで、新たに一つの案件が俎上に載せられた。
――ラディムの婚約の件だった。
特段の反対意見も出されなかったので、ムシュカ侯爵から提案された日取りで、新皇帝ラディムの婚約の儀が執り行われる運びとなった。
会議はいったん休憩に入り、アリツェはラディムとともに窓際に移動する。いつの間にか日も暮れかけており、夏の強烈な日差しも入り込んでは来ない。
夕暮れに赤く染まるミュニホフとエウロパ山脈を見遣りつつ、アリツェはラディムに話しかけた。
「お兄様、とうとう婚約ですわね」
アリツェは右手を伸ばし、そっと窓を撫でる。窓にはアリツェ自身とラディムの姿が、わずかに映りこんでいた。
「ああ、戴冠した以上、伴侶を決めねば外聞が悪いのでな」
窓に映るラディムは頭を掻いている。だが、表情はとても嬉しそうに見えた。
「エリシュカ様とならお似合いですわ!」
アリツェはラディムに向き直り、パッと微笑んだ。
「ありがとう、アリツェ」
アリツェの言葉に、ラディムは目を細めた。
「婚約の儀はいつになさるのです?」
「来月だ。援軍で滞在しているフェイシア、ヤゲルの両王国とバルデル公国の者たちが、来月には自国に帰還する予定になっている。その前に執り行うつもりだよ」
「各国に新皇帝とその妃候補を知らしめる、良い機会ですわね」
この機会でのお披露目は、まさに好都合だった。これから特に関係を強化すべき国々の重鎮たちに、ラディムとエリシュカの姿をしかと見せられる。
「その場で、各国と友好を深められればいいのだが。今の帝国の現状では、他国との関係悪化は命取りだ」
こういった話をするときのラディムは、もういっぱしの政治家だった。まだまだ成人前の子供だなどと、ラディムを軽んずる者はいないだろう。
「慶事ですもの。いい外交の手段になりますわね」
アリツェはうなずいた。
「いずれはエリシュカを妻にするつもりだった。私としては異存はまったく無いし、私事で国に貢献できるのであれば、願ったりかなったりだな」
ラディムは厳しい顔を崩し、一転、にこやかに相好を崩した。
「素敵な式を、楽しみにしておりますわ」
「ああ、もちろんだ。任せてくれ」
アリツェはラディムと微笑みあった。
帝国全土を掌握したラディムにより、バイアー帝国は精霊教を保護する新帝国を樹立すると高らかに宣言した。周辺各国も、この帝国の新たな方針に、おおむね好意的な反応を示す。
帝国国内に目を向ければ、ムシュカ伯爵を侯爵に昇爵するなど、現時点で採れる万全の体制を整えた。
また、新皇帝ラディムと新侯爵コンラート・ムシュカの娘エリシュカ・ムシュコヴァの間の婚約も正式に発表された。
概ね、戦後処理は終わったと言える。
中央大陸暦八一四年九月――。
今ここに、中央大陸の大国すべてが精霊教へと改宗し、世界情勢は新たなステージへと移ろうとしていた。
第四部 中央大陸宗教大戦 ――完――
現状でミュニホフは、反皇帝軍が軍政を敷いている。表立ってラディムたちを非難する人間はいない。
(お兄様の挑戦は、とてつもなく過酷なものになるやもしれませんわ……)
同時に、ラディムの皇帝即位のお触れも出された。こちらについては、皆冷淡な反応だ。
表向きでは受け入れる姿勢を見せている。だが、果たして内心ではどうであろうか。
二日後には皇宮のテラスからミュニホフの市民に向けて、ラディムによる即位の挨拶が披露される。どれほどの市民が駆けつけ、どれほどの市民がラディムの話を聞き、そして、どれほどの市民が新しい帝国の指針へと賛同を表明するだろうか。
(即位披露の場で、荒れなければよいのですが……)
湿った風がアリツェの頬を撫でる。
空を見上げれば、厚く垂れこめた黒い雲。ここしばらく好天続きだった帝都に、久しぶりの雨の予感がする。降りしきる雨とともに、人々にまとわりこびりついている負の感情も、一緒に洗い流してくれたならば、どれほどありがたいだろうか。
明日は、皇宮近くの世界再生教大聖堂――後日、精霊教会に改宗される予定らしいが――で、ラディムの戴冠式だ。雨に濡れ、体調を崩すわけにもいかない。アリツェは土砂降りになる前に、急ぎ宿へと戻った。
ラディムの戴冠式の翌日、ギーゼブレヒト大通りを一望できる宮殿のテラスに、ラディムが皇帝の夏用の正装を身にまとい立っていた。小柄な体躯も、風に吹かれて翻る深紅のマントのおかげで、遠目からは大分大きく見える。頭上には金で複雑な細工の施された帝冠を載せており、その手には、やはり黄金でできた錫杖を持っていた。
前日の嵐も過ぎ去り、空は雲一つない晴天だった。照り付ける強烈な日差しによって、ラディムの身につけた黄金はきらびやかに輝き、人々の目に焼き付いていく。
もしお披露目の場にミュニホフの市民たちが集まらなかったらどうしようと、アリツェは不安を募らせていた。だが、その懸念も杞憂に終わった。
ギーゼブレヒト大通りは、多数の市民で埋め尽くされ、新皇帝の言葉を今か今かと待ちわびているようだ。ただ、ラディムの言葉への期待感が、果たして肯定的なものなのか否定的なものなのかまでは、わからなかったが。
いずれにせよ、こうして市民にラディム自身の生の言葉を聞いてもらうことこそが、今のラディムにとっては必要だ。地道に、少しずつ、帝国国民の支持を集めていかなければならない。今日がその第一歩になる。
「親愛なる帝国臣民よ!」
ラディムは声を張り上げた。
ざわついていたギーゼブレヒト大通りも、水を打ったように静まり返る。
「皇帝ベルナルド・ギーゼブレヒトは去り、私が新たな皇帝となる。……今回の事態に、困惑している者も多いと思う」
ぐるりと周囲を見回すラディムの視線に、周囲からゴクリと生唾を飲み込む音が漏れ聞こえてきた。
誰も、一言も発しない。ただただ、年若い新皇帝の言葉に耳を傾けている。
「近いうちに今回の顛末を、政府としてきちんと告知という形で皆に知らしめるつもりだ。すぐに理解をしてもらえるとは、私も思っていない。私に対して反感を覚えている者が多い事実も、厳粛に受け止める」
アリツェは遠目から、わずかにラディムの表情が歪んだのが見えた。だが、ラディムはすぐに顔を引き締めなおした。
「だが、一つだけ聞いてほしい。我がギーゼブレヒト家は、世界再生教の司教にいいように思想を操られ、皆に誤った考えを植え付けてしまった。私は偶然にも他国で正しい情報を得られ、こうして洗脳を解くことができたが、帝国を統べる帝室の一員として本当に恥ずかしい。すまなかった」
ラディムは頭上の帝冠を下ろして小脇に抱えると、ゆっくりと頭を垂れた。長々と。
なかなか頭をあげないラディムに、周囲からざわめきが起き始めたころ、ゆっくりとラディムは姿勢を戻した。
今のラディムの態度を、ミュニホフの市民たちはいったいどのような気持ちで見守っただろうか。いまさら頭を下げても、市民の愛したベルナルドは戻ってこないとの非難や憎悪の想いか。皇帝という最高権力を持ちながらも、きちんと謝罪のできるできた人間だとの評価か。年若い皇帝による明るい未来を創造し、期待感を抱いたか。はたまた、何ら感じるものなどなかったか。
「今後、世界再生教の国教指定は解除し、精霊教の布教も認める。我が帝室は精霊教を信奉するが、国民皆に押し付けるつもりはない」
宗教問題に関して、ラディムやムシュカ伯爵の出した結論だった。
世界再生教を禁止しては、以前精霊教を禁教化した時のような事態が、世界再生教徒に対して起こる危険性もある。国としてはあくまで、精霊教を重視する方針は曲げられない。だが、従前どおり世界再生教を信仰する者を、むやみやたらに排除したりもしない。改宗を強制させたりすれば、新たな宗教問題の火種になりかねないとの判断からだった。
「世界再生教の教義自体が誤っていたわけではない。今回の件の黒幕が、世界再生教の教義を捻じ曲げていたにすぎない。なので、これまで通り世界再生教を信仰し続けることも、当然に認める」
精霊教が悪役にされたのも、あくまでもザハリアーシュ一派の企みのせいだった。おおもとの世界再生教が、精霊を否定しているわけではない。事実、大陸中央支部以外の世界再生教支部で、明確に精霊教を叩いていた所はなかった。
「前帝ベルナルドの政策でよかったものは、今後も継続してゆく」
おそらく、市民の一番の関心は経済政策だろう。ベルナルドの改革で救われた者は非常に多い。この点を変えてしまえば、反発は今以上に膨れ上がるのは必至だった。
「帝国臣民よ、早急に普段の生活に戻れるよう、私は全力を尽くす! どうかしばらくは、私の行動を見守っていてはくれないか」
非難の声が上がず、ラディムもどうやらホッとしているようだ。続く言葉に力がこもっている。
「虫のいい話だとはわかっている。だが、どうか私に機会をくれ。きっと結果を出して見せる」
ラディムは右手を前方に突き出すと、ぎゅっとこぶしを固く締めた。
「そして、その結果が満足のいかぬものであれば、どうぞ私を批判をしてくれ。私は皆の声を甘んじて受け入れ、身を引くつもりだ」
ラディムの言葉に、周囲から驚きの声が上がる。まさか、皇帝が自ら身を引こうと訴えるとは、誰も思っていなかったようだ。
……アリツェも、まさかラディムがここまで言うとは知らされておらず、少々面食らった。だが、それほどの覚悟のうえで、ラディムは帝位を手にしたのだろう。
「しばらくは厳しい時期が続くかもしれない。だが、必ず帝国は立ち直る。どうか、ともに戦ってほしい!」
残念ながら、ここで皇帝の名を呼ぶ歓声が上がるような事態にはならなかった。だが、アリツェが周りのミュニホフ市民の表情を伺うと、演説前の否定的な様子が大分薄らいでいるのがわかった。今回のラディムの宣言は、決して失敗ではなかったはずだ。
ラディムの国民へのお披露目の日から、さらに数日が経った。今回の戦争の総括のために、皇宮のラディムの私室に主だった面々が集まっている。
発端となったザハリアーシュら世界再生教側の陰謀。追放された帝国内の精霊教徒達のこれまでの境遇と今後の対策。ベルナルド側が流したラディムに対する悪評の内容と、今後どのように名誉を回復していくか。今回の戦争の功労者への報酬。などなど、様々な内容が話し合われた。
思った以上に議論が白熱し、この日一日ではすべての案件を処理しきれなかった。ひとまず一番優先順位が高いと思われた戦争功労者への恩賞に絞り、結論を出した。
「今回の戦の論功行賞も終わり、帝国の上層部もだいぶ様変わりするな」
ムシュカ伯爵は目の前の資料に目を落としつつ、つぶやいた。資料には、今日決定した恩賞対象者の名がずらりと並んでいる。
「伯爵様――ええと、もう侯爵様、ですわね。お兄様の周りには、侯爵様以外に安心して相談できるような方はいらっしゃるのでしょうか」
アリツェも同じ資料に目をとおしつつ、果たしてこの中のどれだけの者が、ラディムの信頼できる味方なのだろうかとアリツェは訝しんだ。
ちなみにムシュカ伯爵もこの一覧に名が乗っており、恩賞として加増、昇爵され、侯爵となる。
「私と親交の深かった貴族で、世界再生教にどっぷりとは浸かっていなかった者が何名かおったので、その者を当面の間傍につかせるつもりだ。だが、将来的にはラディム陛下の子飼いを育てておきたいところだな」
ムシュカ侯爵は口元を手で覆いながら、「ウーム……」と唸り声をあげた。
「やはり、わたくしがマリエ様を殺めてしまったのは、大きな損失でしたわ……」
霊素持ちで優秀な導師だったマリエは、生きてさえいればラディムの最も頼れる側近になったに違いなかった。アリツェは吹っ切ったつもりではあったが、やはりこうして思い出せば、胸にチクリと刺さるものはある。
「アリツェ様、事情は伺っております。あまりお気に病まないでください」
エリシュカは気を遣ってくれたのか、紅茶を入れて持ってきた。
「ありがとうございますわ、エリシュカ様」
アリツェは礼を言ってカップを受け取ると、そっとひとくち口に含んだ。さすがに元第一皇子付きの侍女。味わいも香りも、アリツェが淹れたものではとても及ばない。
「導師部隊に従軍させられていた子供で、ザハリアーシュの洗脳が解けた者たちを、どうにか育てられないかと思ってはいるのだが」
「先は長そうですわね。……霊素持ちの子供の教育であれば、わたくしが請け負ってもよろしいですわ。王国の人間であるわたくしが、差し出がましいかもしれませんが」
元々精霊使いの育成は、ラディムへの援助として考えていた。アリツェとしても、請われれば喜んで引き受けるつもりではあった。
「アリツェ殿にご助力いただけるのは大変に助かる。正直なところ、霊素持ちを適切に導ける人材が、今の帝国にはいないのだ。ラディム陛下はご自身の役割で精いっぱいなので、身動きがとれんし」
侯爵は渋い表情を浮かべた。
帝国内で最も精霊術に長けているのはラディムだったが、さすがに皇帝自らが人材の育成に携わる時間はないだろう。
「では、グリューンへ寄こしていただければ、わたくしがどうにか致しましょう。ちょうど、わたくしの側近として、孤児院時代の友人に精霊術を教える話になっております。ですので、一緒に面倒を見ますわ」
シモンとガブリエラへの精霊術指導へ一緒に参加させれば、お互いに切磋琢磨しあえるだろう。手間がかかるどころか、むしろ、教育効率が上がりそうな気がした。
「まったく、アリツェ殿には感謝しかないな。ザハリアーシュが作った『生命力』持ちの育成マニュアルも、表面的な部分以外はすべて大司教に持ち出されていたようで、ノウハウがないのだ。非常に助かる」
「困ったときはお互い様ですわ、侯爵様」
頭を下げる侯爵に、アリツェはニコリと微笑みかけた。
アリツェも侯爵には世話になっている。その分の恩はきっちりと返さねばならない。
「しばらく帝国は混乱期に入る。これ以上、何事もなければいいのだが……」
ぼそっとつぶやく侯爵の表情は、僅かに不安に揺れているように見えた。
論功行賞の決定後も、引き続き戦争の総括は続いた。数日の話し合いの後、どうにか一通りの結論を出し終えたところで、新たに一つの案件が俎上に載せられた。
――ラディムの婚約の件だった。
特段の反対意見も出されなかったので、ムシュカ侯爵から提案された日取りで、新皇帝ラディムの婚約の儀が執り行われる運びとなった。
会議はいったん休憩に入り、アリツェはラディムとともに窓際に移動する。いつの間にか日も暮れかけており、夏の強烈な日差しも入り込んでは来ない。
夕暮れに赤く染まるミュニホフとエウロパ山脈を見遣りつつ、アリツェはラディムに話しかけた。
「お兄様、とうとう婚約ですわね」
アリツェは右手を伸ばし、そっと窓を撫でる。窓にはアリツェ自身とラディムの姿が、わずかに映りこんでいた。
「ああ、戴冠した以上、伴侶を決めねば外聞が悪いのでな」
窓に映るラディムは頭を掻いている。だが、表情はとても嬉しそうに見えた。
「エリシュカ様とならお似合いですわ!」
アリツェはラディムに向き直り、パッと微笑んだ。
「ありがとう、アリツェ」
アリツェの言葉に、ラディムは目を細めた。
「婚約の儀はいつになさるのです?」
「来月だ。援軍で滞在しているフェイシア、ヤゲルの両王国とバルデル公国の者たちが、来月には自国に帰還する予定になっている。その前に執り行うつもりだよ」
「各国に新皇帝とその妃候補を知らしめる、良い機会ですわね」
この機会でのお披露目は、まさに好都合だった。これから特に関係を強化すべき国々の重鎮たちに、ラディムとエリシュカの姿をしかと見せられる。
「その場で、各国と友好を深められればいいのだが。今の帝国の現状では、他国との関係悪化は命取りだ」
こういった話をするときのラディムは、もういっぱしの政治家だった。まだまだ成人前の子供だなどと、ラディムを軽んずる者はいないだろう。
「慶事ですもの。いい外交の手段になりますわね」
アリツェはうなずいた。
「いずれはエリシュカを妻にするつもりだった。私としては異存はまったく無いし、私事で国に貢献できるのであれば、願ったりかなったりだな」
ラディムは厳しい顔を崩し、一転、にこやかに相好を崩した。
「素敵な式を、楽しみにしておりますわ」
「ああ、もちろんだ。任せてくれ」
アリツェはラディムと微笑みあった。
帝国全土を掌握したラディムにより、バイアー帝国は精霊教を保護する新帝国を樹立すると高らかに宣言した。周辺各国も、この帝国の新たな方針に、おおむね好意的な反応を示す。
帝国国内に目を向ければ、ムシュカ伯爵を侯爵に昇爵するなど、現時点で採れる万全の体制を整えた。
また、新皇帝ラディムと新侯爵コンラート・ムシュカの娘エリシュカ・ムシュコヴァの間の婚約も正式に発表された。
概ね、戦後処理は終わったと言える。
中央大陸暦八一四年九月――。
今ここに、中央大陸の大国すべてが精霊教へと改宗し、世界情勢は新たなステージへと移ろうとしていた。
第四部 中央大陸宗教大戦 ――完――
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年上の婚約者には気付けば幼いエルネスティーネよりも年齢も近く、彼女よりも女性らしい色香を纏った女友達が常にジークヴァルトの傍にいた。
ただの女友達だと彼は言う。
だが偶然エルネスティーネは知ってしまった。
彼らが友人ではなく想い合う関係である事を……。
また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。
エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。
覆す事は出来ない。
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そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。
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