鬼の御宿の嫁入り狐

梅野小吹

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1巻

1-3

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「こ、こ、琥珀! お前、急に出てくんなよ! 心臓止まるかと思っただろ‼」
「父上こそ、俺の幼少期の戯言たわごとを勝手に蒸し返すのはやめていただけますか」
「なーにが戯言だ、お前自分で吐いた甘ったるい台詞忘れたのか!? だいたい今日だって『森から縁の匂いがする』っつって釣り竿ぶん投げてすっ飛んでっちまったくせに――」
「父上、そういえば先ほど母上が探しておりましたよ。賭博の件で話があるから今すぐ来いとのことです」
「……げっ!? ま、まさか賭博で大敗したことがバレ……そりゃまずい!」

 琥珀の報告を受けるやいなや、縁を膝から降ろして立ち上がる豪鬼丸。そのままばたばたと居間に戻っていき、琥珀は嘆息しながら開きっぱなしの戸を閉めた。
 それまでの喧騒が嘘のように、しんと満ちる静寂。縁は気まずそうに顔を逸らすが、琥珀は何食わぬ顔で口火を切った。

「お前、反省文は書き終わったのか」

 琥珀の問いかけに、縁はしおらしく耳を垂れ下げる。「まだです……」と正直に告げれば、琥珀は眉ひとつ動かさず縁の隣に腰掛けた。

「ほら」
「!」
「握り飯だ。くすねてきた」
「ごはんっ……!」

 不意打ちで取り出された握り飯に、感激のあまり瞳がうるむ。同時にぐうう、と腹の虫が唸り、空腹だった縁はごくんと生唾を飲み込んだ。

「よ、よいのですか……!? で、でも、これがバレたら若様まで女将様に怒られるのでは……っ」
「食わんのならいい、俺が食う」
「いえ! 食べます! 今すぐに!」

 慌てて琥珀から塩むすびをひったくり、縁はさっそくかぶりつく。いささか不格好な形の握り飯は、琥珀いわく「くすねてきた」そうだが――もしかしたら、自分で握って持ってきてくれたのかもしれない。

「若様、ありがとうございました」

 あっという間に食べ終え、縁は琥珀に深々と頭を下げた。対する琥珀はそっぽを向いたままあごを引く。

「……ああ」
「本当に助かりました、お腹が空きすぎて死んでしまいそうだったのです! おかげで命拾いをいたしました」
「俺は、今日の昼間の方が、お前が死んでしまうと思ったがな」

 琥珀は告げ、じろりと縁を睨んだ。
 その視線には怒りがこめられているように感じ、縁は言葉を詰まらせてたじろぐ。反射的に目を逸らした瞬間、不意に琥珀の手が伸ばされた。つい身構えて強く目を閉じると、頬に彼の指が触れる。

「頬に飯粒がついている」
「あ……す、すみませ……」
「縁」

 米粒を指ですくい上げ、琥珀は縁の名を呼びかける。恐る恐る目を開ければ、黄褐色の瞳に正面から射貫かれた。罪を裁く羅刹の眼光は鋭く、物言わずとも縁の行いを咎めているのだと分かる。

「いかなる理由であれ、今後、もう二度とあの森にはひとりで入るな」
「……はい……」
「次また同じようなことがあれば、俺も母上も許さないぞ」
「ごめんなさい……もうしません……」
「分かればいい」

 縮こまる縁に改めて忠告し、琥珀はため息交じりに腰を上げた。
 よもや幻滅されてしまったのではないか。そんな言いようのない不安を覚え、縁は思わず「若様!」と呼び止める。
 琥珀は振り向いた。

「何だ」
「あ、あの、今日は助けていただき、ありがとうございました。今こうして命があるのは、若様のおかげです。本当にありがとうございます」
「……そういうのは、もういい。気にするな」
「でも……っ」
「何が言いたい」

 短く返され、声に詰まる。琥珀は元々口数が少ない。普段からこういう態度で、いつも通りであるはずなのだが、その胸の内には失望の色が蔓延はびこっているのではないかという不安ばかりが広がってしまって、たちまち背中が寒くなった。
 そもそも、縁がこの旅籠屋に置いてもらえることになったのは、琥珀が豪鬼丸に嘆願してくれたおかげだと聞いている。ゆえに、縁は彼に対して大きな恩義と信頼を感じていた。だが、そんな大きな恩がありながら、力のない縁では、何ひとつ彼らに恩返しすることができない。こんな弱い自分に呆れられ、落胆されてしまったのではないかと、縁は恐れていた。

「わ、私は……その……」

 訥々とつとつと口こぼすが、言葉の続きはつっかえたままだ。結局、自分は何を言いたいのだろうか。「失望しないで」? 「捨てないで」? 「嫌いにならないで」? どれも違うような気がして、それ以上の言葉が出てこない。
 言葉の選別に迷っているうちに、琥珀は目を細め、縁に背を向けた。

しまいか? 俺は明日も朝早い。特に用がないなら、そろそろ休むぞ」
「あ……ま、待ってください、若様!」
「……まだ何かあるのか」

 咄嗟に袖を掴めば、琥珀がそっと振り返る。辟易へきえきされているのではないかと不安を抱えつつ、縁は彼の着物をぎゅっと握り込んで声を紡いだ。

「……若様は、昔と少し変わられた気がします……」
「……」
「それって、私が弱いせいですか? 私が鬼じゃなくて妖狐だから、嫌いになってしまったのですか……? 確かに私は弱い狐です。羅刹の血を引く若様と対等になろうなどとは思いません。でも、妖狐とか鬼とか関係なく、私は、昔みたいに……」
「勘違いするなよ」

 ぴしゃり。言いさした縁の言葉を、琥珀は容赦なく遮る。
 怒らせただろうかと肩が震えるが、顔を上げた際に目が合った琥珀の顔は、どこか苦しそうに歪んでいて──強張っていた体から、ふっと力が抜けた。

「……若様……?」

 そっと呼びかける。普段であれば己の感情をうまく隠し、他者に容易く読み取らせることなどないはずの彼の表情は、まるで哀切を噛み潰して呑み込んだ子どものようなそれだ。
 しばし黙り込んでいた琥珀だが、やがてふいっと顔を逸らし、か細く告げた。


「……俺は、最初から、狐なんか好きじゃなかった」


 そして放たれる、残酷な一言。キン、耳鳴りを伴って鼓膜の奥に染み渡る。
 力の抜けた縁の手をそっと払い、琥珀は背を向け、その場から去っていった。ほんの一瞬の出来事だったはずなのに、まるで時が止まったみたいだと縁は感じていた。
 戻ってきた静寂。鳴いているはずの虫の音すら聞こえない。
 縁はしばらく呆然と放心していたが、ややあって緩やかに視線を下げ、縁側に座り込んで膝を抱える。その胸の奥に刺さったまま抜けてくれないのは、やはり、昼間に会った鬼の女たちから投げつけられた言葉の棘だ。
 ――そもそも腹に傷がある女なんて、どうせまた捨てられるわよ。
 もう痛みなど感じないはずの腹の火傷が、じくじく、焼け付くような痛みを放っている。



   第四話 塩味の口約束


 鬼の一家の朝は早い。早朝は魚がよく釣れるからだ。
 東の空に朝日が昇る前、朝まずめの時間帯に動き出し、夕まずめを終えて帰宅する――琥珀の一日は、ほとんどがそうして過ぎていく。燕屋の料理に使う魚は、豪鬼丸と琥珀がこうして朝から漁に出ることで仕入れているのだ。
 ゆえに、今日も今日とて釣り場へ赴こうと、こうして竿を手入れして準備を進めている……の、だが。
 不意に母から呼び止められたことで、忙しなく動いていた彼の手は止まった。

「琥珀。悪いんだけど、今日、縁を連れて宵ヶ原よいのがはらまで行ってきてくれない?」

 宵ヶ原――繊月盆地の山を越えた先にある、幽世で一番大きな都のことである。
 ありとあらゆる種族のあやかしが集う交流の場であり、商いの場。夜市が賑わうのはもちろん、遊郭や賭場まで大量に軒を連ねている。
 琥珀は露骨に顔をしかめた。喧騒を好まない彼にとって、多くのあやかしが集まる都など嫌悪しかない場所なのだ。

「こーら、あからさまに嫌な顔しないの。頼めるのがあんたしかいないのよ、お願いできない?」
「父上に頼めばよろしいのでは……」
「あの馬鹿は酒場と賭場に入り浸るからダメ。しかも、今回はそんな馬鹿が育てた鹿の回収が目的だから、ことさらダメ」

 うんざりした顔でのたまい、玖蘭は琥珀に一通のふみを手渡した。琥珀は無言で目を通し、やがてすべてを理解したのか、死んだ魚さながらの表情で母に視線を戻す。

「……なるほど。またですか」
「あたしが直接行ってぶん殴ってやってもいいんだけどねえ。宿をほったらかすわけにもいかないでしょ? 琥珀、悪いけど頼める?」
「はあ……分かりました。兄上のことは俺が責任持って殴りましょう」

 物騒な一言と共に代行を請け負い、琥珀は玖蘭に文を返した。
 羅刹の一家は、男ふたりの兄弟だ。琥珀は次男にあたり、上に奔放ほんぽうな兄がいる。
 先ほどの文には、その兄が賭博に敗けて一文無しになったため都から帰れなくなった――という趣旨の内容が記されていた。
 同じ羅刹の血を引いていながら、琥珀と真逆で自由奔放な兄。いわゆる〝うつけ者のちゃらんぽらん〟で、遊び呆けてばかりいるのである。
 そんな兄は母の怒号を恐れてほとんど実家に寄りつかないものの、時折こうして面倒な報せを送り込んでは家族を困らせるのだった。

「ところで、母上」

 琥珀は顔を上げ、玖蘭にひとつの疑問を呈する。

「兄上を迎えに行くのは構いませんが、なぜ縁まで連れていく必要があるのですか? 都に用などないでしょう。俺の足なら数刻で辿り着きますが、縁も連れていくとなると日が暮れてしまう……」
「んー? まあ、気分転換よ。森で餓鬼に襲われてから、あの子、心しか元気がないような気がしてね。何か心当たりある?」
「……いえ」

 琥珀は目を伏せてうそぶいた。おそらく自分が告げた一言によって傷付けてしまったのだろうという自覚はあったが、ここで母に事実を吐露すると話がややこしくなりそうで憚られる。
 シラを切り通す判断をした琥珀の一方、母の顔は訝しげだ。玖蘭は「ふーん」と何かを怪しんでいるようでありつつ、「まあいいわ」と先ほどの会話の続きを語る。

「何はともあれ、たまには里の外であの子を遊ばせてやってちょうだい。都で遊べば少しは元気が出るかもしれないし、あんたが一緒にいれば安心でしょ?」
「……俺は正直、アイツを都に近づけたくはありません。もしも妖狐の一族と鉢合わせでもすれば、アイツが……」

 視線を落とし、神妙な面持ちで琥珀は呟く。玖蘭はしばらく黙っていたが、ほどなくしてフッと短く笑った。

「あーん? なーにビビってんだぁ~? 妖狐が縁を取り返しに来るとでも思ってんの? あんたもまだまだケツの青いガキだねえ」
「違います。俺はただ……」
「安心しな、琥珀。何かあってもあんたが縁を守りゃいいだけなんだから。だいたいあのクソ狐共、どの面下げてあの子を取り返しに来るつもりよ。自分らの都合で縁を傷付けて捨てやがったくせに」

 ぴり、とその場に緊張感が満ち、怒気をはらむ声が静かに放たれる。「今さら返せとか言いやがったら、その時はあたしが金棒でぶん殴るわ」と続けた母。
 琥珀の表情は複雑に歪み、やはり浮かない様子だったが、ほどなくして小さく顎を引いた。

「……そうですね」
「というわけで、今すぐ縁のこと起こしてきて! まだ寝てやがんのよ、あの寝坊助ねぼすけ
「アイツは一度寝ると昼まで起きませんから」

 冷静に言い放ち、軽く会釈した琥珀は、母のそばを離れて縁の眠る寝間へと向かう。
 まだ暗い板張りの廊下。古びてきしむそれらを踏み鳴らし、しばらくして、琥珀は閉ざされているふすま越しに中へと声をかけた。

「……縁。入るぞ」

 呼びかけるが、返事はない。おそらくまだ眠っているのだろう。
 琥珀は息を吐き、襖を開ける。殺風景な室内。耳に届くのは規則的な呼吸の音だ。
 案の定、縁は敷布団の上で丸くなり、自身の尻尾を大事に抱えて眠っている。
 無防備に眠るあどけない寝顔を見下ろし、琥珀は音もなく近寄ってしゃがみ込むと、彼女を起こさぬよう綺麗な柔髪を撫でた。
 もう何度も見た、この寝顔。
 苦しんでいる時も、穏やかな時も、ずっと見てきた。

「……狐なんか嫌いだ」

 ぽつり、呟いた言葉が狭い寝間に溶けていく。琥珀の脳裏には先ほどの母の言葉がよみがえっていた。
 ――今さら返せとか言いやがったら、その時はあたしが金棒でぶん殴るわ。
 琥珀は黙り込み、白い髪を指できながら思案する。
 あやかしとは、総じて格式高く、お家柄を強く尊重する種族が多い。ゆえに、弱さの象徴である〝傷物〟が一族から追放される事例などありふれていることだった。
 体に火傷を負った縁を山に捨て置いた時点で、妖狐側が彼女に執着しているとは考えにくい。だが、琥珀には懸念があった。
 彼は目を伏せ、幼い頃の縁の顔を思い起こす。
 火傷の痛みと悪夢にうなされながら、うわごとのように繰り返していた、言葉たちも一緒に。


 ――痛い……怖い……。
 ――父上……母上……。
 ――……おうち、かえりたい……。


 彼女が幼い頃、本当の家に帰りたがっていたことを、誰よりも琥珀自身がよく知っている。

「……本当の家族の元に戻りたいと、お前の方から言われたら、俺は……」

 再び苦く呟いた――直後。ふと、縁の睫毛が微かに動いた。
 薄く開いたまぶたからは淡藤あわふじ色の双眸が覗き、ハッと我に返った琥珀は彼女の髪に触れていた手を素早く引っ込める。バツが悪そうに顔を逸らした頃、縁は呑気にあくびを漏らした。

「……んー……こはく……?」

 目を覚まし、やはり警戒心など微塵もない様子で起き上がる彼女。〝琥珀〟の名で呼びかけるその声を、随分と久方ぶりに聞いたような気がした。昔はそう呼ばれていたが、成長と共に距離が開き、いつしか〝若様〟とかしこまった呼び方に変わってしまったから。
 縁はまだ寝ぼけている。寝衣しんいは乱れ、大きくはだけた襟元。着崩れて白い肩があらわになってすらいる。
 無防備で無警戒。どうしてこうも油断できるのだろうと、琥珀は浅く苛立いらだった。

「どうしたの……? 今日、釣りはぁ……? 朝まずめ、終わっちゃうよ……」
「……うるさい、寝坊助。早く起きろ」
「んー……? うん……」

 寝ぼけた顔でうつらうつらと船を漕ぎ、縁は琥珀にのしかかる。想定外のことに琥珀の体が強張る中、「連れてって~……」とわがままを垂れる甘え声。
 着崩れたままの襟元から覗く肌にざわりとはらわたが震える感覚を覚えたが、琥珀は自身を律し、彼女の乱れた着物を直すとその体を突き放した。

「おい、縁、いい加減にしろ! 俺がお前を攫いに来た暴漢だったらどうする、もっと警戒したらどうなんだ」
「んえ…………」

 語気を強めると、縁はまばたきを数回繰り返した。そしてみるみる青ざめる。どうやら完全に意識が覚醒したらしく、琥珀に抱きつくような体勢で引っ付いている現状を理解すると、今度は顔を真っ赤に染めて彼の上から飛びのいた。

「わ、わっ、若様‼」

 声を裏返し、縁はすかさず正座して背筋を伸ばす。琥珀はやや乱れてしまった自身の襟元を正して嘆息した。

「……朝が弱いのは相変わらずか」
「た、たた大変失礼いたしました! すすすすみませ……!」
「いい。そんなことより出掛けるぞ、さっさと支度したくしろ」
「へ?」
「詳細は歩きながら説明する。俺は外で待つ。早く着替えてこい」

 淡々と言葉を紡ぎ、琥珀は寝間を出ていく。縁はその後ろ姿を見つめ、先ほど触れた一瞬のぬくもりを思い出しながら、切なげに視線を落とすのだった。


   ◇


「えっ、兄様あにさまが都の賭博で無一文に!?」
「大きな声で喚くな、一家の恥を晒すようなものだぞ」

 朝餉あさげを済ませ、家を出た琥珀は、現在の状況を縁に手短に説明した。それを聞いた縁は〝昼用に〟と玖蘭から持たされていた握り飯にさっそく手をつけながら一度は驚いたものの、「それって、いつものことでは?」とすぐさま平静を取り戻す。

「兄様が賭博に敗けてふんどし一丁になったという話は、年が明けてからもう三度は聞いたような……」
「ああ、そうだな。だが、いくら鬼であろうと仏の顔は三度まで。そろそろ母上が兄上の頭を金棒でかち割る」
「わあ、それは怖い……」

 縁は金棒を構えて待ち受ける玖蘭の姿を想像して身を震わせつつ、そんな鬼女将の握った塩むすびを頬張った。
 元より口数の少ない琥珀は、説明を終えると黙り込んでしまい、淡々と山道を歩いていく。和気あいあいとお喋りに付き合ってくれるような性格でないことなど知っているが、先日の一件をまだ引きずっている縁には空気が重苦しく感じられてしまう。
 できるだけ気まずさを和らげようと、縁は明るく声を張った。

「そ、そういえば、私、都に行くの初めてです! 大きい夜市があるんですよね、楽しみだなあ~」

 強引に笑う縁の隣で、琥珀は複雑そうに口元をまごつかせる。
 ちらり、縁の足を一瞥した琥珀。先日の怪我はすっかり治ったらしく、跛行はこうする様子はなかった。

「お前、足は治ったのか」

 唐突に足を止め、琥珀は問いかけた。縁は一瞬反応が遅れる。しかしすぐに背筋を伸ばし、「は、はい」と頷いた。

「……そうか」
「あの、私、もしかして歩くのが遅かったでしょうか……? 術が使えないので、自力で歩くしかなくて。その、ごめんなさい……」
「いや、治ったのならそれでいい。ただ──」
「ただ?」

 何かを言いさした琥珀を見つめ、縁は続きの言葉を待つ。だが、琥珀はそのまま言葉を呑み込んだ。胸中には言いようのない感情がしつこく粘りついている。
 きっと、もう、彼女はどこまででも歩いていける。
 都にだって、夜市の屋台にだって──本当の家族が棲まう、自分の故郷にだって。

「……何でもない」

 控えめに転がり落ちた言葉。縁はきょとんと目をしばたたき、再び歩き始めた琥珀を小走りで追いかけた。

「あ、あの、若様……っ、きゃ!」

 しかし、彼に追いつこうとした直前で、縁の足は木の根に引っかかって派手につまずく。そのままあわや転倒――というところだったが、彼女の体はすんでのところで琥珀の腕に抱きとめられた。
 ばくばくと心臓が騒ぐ中、ぎこちなく琥珀を見れば、彼はほうと息をつく。

「……気をつけろ」
「……あ、ありがとうございます……」
「ん」

 素っ気なく顔を逸らされ、体から手を離された。縁はまだ琥珀との間に気まずさを感じていたが、それでも触れる手つきには不器用な優しさが込められているように思えて、気恥ずかしさとむずがゆさが膨らんでいく。

(琥珀、いつのまにか手が大きくなってる……)

 その事実に、いささか複雑な気持ちが芽生えた。
 軽くもたげた自分の手のひら。特別大きいわけでも、尖った爪が生えているわけでもない。やはり、自分は狐なのだ。どう足掻いても、鬼にはなれない――。

「縁」

 ぼうっとしている最中に呼びかけられ、縁は露骨に驚いてピンと耳の毛を逆立てる。数歩先を行く琥珀は、振り向きもせず彼女に言い放った。

「……お前、勝手に俺から離れるな」
「え……」
「そばにいろ。分かったな。勝手にどこかへ消えたら、今度こそ怒るぞ」

 目すら合わせず告げられた言葉。
 よもや、都を勝手に徘徊して迷子になるとでも思われているのだろうか。
 いつまでも子ども扱いされているようで少しだけ不服に思いながらも、縁は彼の言葉に頷いた。

「そうご心配なさらずとも、もうひとりで遠くまでは行きません! 都なんて行ったことないですし、ずっと若様と一緒にいます」
「さあ、どうだか」
「信用ない……」
「そんなことよりお前、また口元に米がついてるぞ」
「え!」

 指摘しつつ縁の口元に残った米粒を掬い取り、伏し目がちに己の口内へ運んで、琥珀はほのかな塩味を嚥下えんげした。



   第五話 戯の沙羅双樹しゃらそうじゅ


 からん、ころん、下駄を奏でる足音小町。
 しゃなりと優雅な花魁おいらん道中、蛇目じゃのめの傘が咲いては閉じる。
 ここは蛍火ほたるび連なる夜市の中心。
 もののけ芸者が舞い踊り、笛と琵琶びわの音が絶えず大路を賑やかす、種族を問わないあやかしの街。
 宵ヶ原――人ならざる者の集う、幽世の都である。


「わあぁ~! すごいっ、あそこに綺麗な飴玉がありますよ、若様!」

 ぴょこ、ぴょこ。白い耳を嬉しげに上下させ、縁は興奮した様子で市場の屋台を指さした。
 少し後ろを歩く琥珀は嘆息し、今にも駆け出しそうな彼女のえりをつかまえる。

「あれは硝子ガラス細工のとんぼ玉だ。食い物じゃない」
「あちらにはとても小洒落こじゃれた焼き魚用の串が!」
「かんざしだ。魚に刺すものじゃない」
「あのおいしそうな黒砂糖は!?」
「火打ち石だ。……お前、少しは食い物から離れろ」

 目に映るものすべてが食べ物に見えている縁。さすがに呆れる琥珀だが、「どれもおいしそうです!」と無垢な笑みを向けられてしまってはぞんざいにあしらうこともできず、しばしの間を置いて「……そうだな」と頷くことにした。

「兄様はこの街にいるのですか? うらやましい、こんな場所で過ごしているだなんて! きっと毎日おいしいものを食べているのでしょうね!」
「……さあな。俺には金がなくてひもじい生活を強いられている兄上の姿が目に見える。下級のあやかしに土下座してでも金を借りて賭博に行きたがるような性格だしな」
「うーん、兄様、黙っていれば豪鬼丸様に似てかっこいいのに、本当に残念な性格――あっ、若様! あちらからおいしそうな匂いが!」
「あとで買ってやるから寄り道するな」

 食い気盛んな縁を捕まえて引きずり、琥珀は賑やかな大路を逸れる。
 その時ふと、彼は複数の視線を感じ取った。
 赤い番傘が開く甘味屋。三色団子をつまんでふたりを見遣るのは、沙羅双樹の白い花が咲く仮面で目元を隠した双子のあやかしだ。鳥のくちばしがごとく長い鼻尖びせんを尖らせた漆塗りの面は全体的に赤黒く、眼球などどこにも描かれていないというのに、まるでギラギラと目を光らせて獲物を吟味しているかのようにも見えた。
 チッ、と琥珀は舌を打つ。

「面倒なのがいる……」
「はい?」
天狗てんぐの双子だ。ろくなものじゃない。無視するぞ」
「天狗……ですか? 若様のお友達なのでは?」
「ふざけるな、あんなものはよく喋るただのゴミだ」
「ゴミ!?」

 辛辣しんらつに言い切って細道の奥へ足を速める琥珀。よほど嫌っている相手だったらしく、「そこまで言わなくても……」と縁は苦笑するが、琥珀は不服げに目を細める。

「お前はあの天狗共の蛮行を知らないからそう言えるんだ。餓鬼の方がまだ利口だぞ」
「え、ええ……」
「もし話しかけられても絶対に無視しろ。さもなくば――」
「ククッ、無視なんて酷いんじゃねえのかい、羅刹の若君」

 直後、琥珀の忠告を遮るように声が放たれ、視界の中を木の葉が舞う。
 同時に縁は強い力で引き寄せられ、背後から羽交い締めにされる形で天狗の片割れに抱き込まれていた。


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