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第三章 トレヴダール
第六話 《聖なるトレヴダールの泉》
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揺らめく門の前で僕は、再度セルジン王の姿を見ようと振り返る。
だが、周りは薄く暗く揺らめき、その姿を確認する事は出来なかった。
《聖なる泉》の圏内に入ったという事だ。
先へ進もうとした時、門の端に人影があった。
誰もいないと思っていた僕は、その姿に思わず大声で呼びかける。
「マールさん!」
緩やかな金髪を揺らしながら、その男は琥珀色の瞳を無表情に僕に向けている。
顔の輪郭を簿かす髭は綺麗に剃り落とされ、鋭角的な顎のラインがそれまでのマールの優しい雰囲気を打ち消していた。
柔らかな色合いの服装を好んで着ていたマールと違い、今はセルジン王のように、まるで喪に服した服装だ。
金色の髪が黒服に映える。
「やあ、ブライデイン」
その呼び掛けに、僕はハッとした。
彼は古のエステラーン王、マルシオン・ティエム・ベイデル。
王の薬師マール・サイレスとして存在する事を辞めたのだ。
「マルシオン王……」
僕は怯えた。
強力な魔力を隠す事なく、彼は僕を威嚇し睨み付けてくる。
「ブライデイン、そなたに頼みがある」
「……頼み?」
頼む姿勢ではなく、完全な命令だと感じる。
古の王は長い時間を経ても、なお王として存在しているのだ。
「妻に、会いたい」
僕は目を見開き、マルシオン王を凝視する。
泉の精と取り引きして望みを叶えると同時に、《聖なる泉》を構成する一員となったロレアーヌ妃。
自由がなくなった存在に会う事が可能なのか、僕には判断がつかない。
「それは……、僕には判らない。〈門番〉に許可された者しか入れない」
「そなたも〈門番〉に許可されてない」
「あ……」
〈門番〉が暗黒に呑まれた時点で、《聖なる泉》の常識は崩れている。
「僕は構いません。でも、なぜ? そんな強力な魔力をお持ちなら、自分で入場出来るんじゃ……」
「ロレアーヌはそなたの前に現れた。私の前ではなく」
「……」
どうしても、会いたいんだ。
そう思うとマルシオン王に、少しだけ親近感が湧いた。
僕がセルジン王の側にいたい気持ちと、同じだと思ったからだ。
僕は暗黒に歪む門を見た。
彼はこの門の前で、どれだけロレアーヌ妃を待ち続けていたのだろう。
門の楔石を探す。
メイダールの《聖なる泉》で、楔石はマルシオン王を呼んでいた。
上部は歪みがひどく、楔石を確認する事は出来ない。
「ロレアーヌ妃が現れるか、判りませんよ」
「構わぬ」
彼は門の中を見ている。
そこから暗黒が噴き出し、渦巻いている。
「魔界域に踏み込めば、恐らく帰る事は叶わなくなる。そなたの護衛として、私は適任だろう?」
そう言って振り返った彼は、何かを決意しているように、僕に手を差し伸べる。
「覚悟を決めろ、ブライデイン」
この古の王を、信用して良いのか?
「……条件を出して良いですか?」
「条件、私にか? 生意気なブライデイン、場合によっては許さぬぞ!」
古の王は怒ったように、僕に迫る。
泉の精の魔力〈堅固の風〉が、マルシオン王の髪を激しくなぶる。
彼は僕の持つ魔力を、恐れる様子がない。
僕は恐怖に顔を強張らせながら叫んだ。
「マールさんに戻って下さい! それが条件です!」
マルシオン王は、その瞬間に姿を変えた。
「これで宜しいですか、オリアンナ姫?」
彼はマール・サイレスの優しい顔立ちに戻り、僕に微笑む。
僕はホッとして、地面に座り込んだ。
「あんまり怖がらせないで下さいよ、マールさん」
「外見とは案外、当てにはならないものですよ、姫君」
そう言って彼は、門の前を指差した。
僕は不承不承、立ち上がる。
「それでも、マールさんの方がいいです」
「分かりました。しばらくこの姿でいましょう」
外見は優しいマールに戻ったものの、マルシオン王の溢れる魔力は変わらず、僕の恐怖心は治まらない。
二人で、門へ向かった。
「魔界域に踏み込まないで、泉の精を呼びだすにはどうしたらいい?」
「あなたが一番ご存じでしょう?」
「僕が?」
メイダールの《聖なる泉》で、廃墟の荒涼とした幾重にも連なる景色の中、泉の精を呼んだ時を思い出す。
「……水?」
僕は腰に提げた水袋を手にした。
あの時、荒涼とした世界から出られない恐怖を味わって、必死に泉の精に呼びかけた。
今、横にマルシオン王がいる状況で、あの時の必死な精神状態になれるのか不安になる。
「出来ないのですか?」
マールは物腰柔らかく、僕に聞く。
微笑む優しい外見なのに、その中身はマルシオン王そのものだ。
逃げ出したい気分になる。
「……マールさん、もう少し魔力を出さないでもらえますか?」
「ふふ、こんな危険な状況で? それは無理だな」
僕はマルシオン王に、マールを望む事を諦めた。
そして、前から気になっていた事を口にする。
「《王族》は泉の精に嫌われている。どうして?」
彼は声を上げて笑った。
「私やセルジン王の事を、怖いと感じた事はないのか?」
「あなたの事は怖いと思います。でも陛下の事は……」
強力な魔力を操るセルジン王は、魔王にもなりうると存在だと思う時がある。
それでも、怖いとは感じなかった。
「《王族》は怖い存在だよ。天界人の能力を秘めているのだからな。そしていつの間にか入り込んだ、魔界域の住人の能力も……」
「え?」
彼は目の前に広がる魔界域から、溢れる黒い渦に顔を顰める。
「我等は水晶玉に捕らわれた、人間でない者。泉の精が好む訳がない」
「それじゃあ、なぜロレアーヌ妃は、取引に応じてもらえた?」
「解らぬか、制御の腕輪のせいだ!」
怒ったように僕を睨み付け、彼は腕輪のはまった位置を見た。
「外してきたのだな。あの男が取り上げたか? あれは泉の精の魔力を制御すると同時に、《王族》の魔力も制御した。ロレアーヌは天界人の罠にはまったのだ」
「あれは、天界の物? 泉の精はどうして腕輪に気付かない?」
「彼女の命の光となった〈ありえざる者〉が、天界の気配を消したせいだ」
「……」
状況は僕と似たようなものだろう、〈ありえざる者〉がそこまで干渉している事に恐怖を覚える。
「ロレアーヌを助け出す。《聖なる泉》が完全に魔界域に呑まれる前に、彼女を解放する。ここまで来て、嫌とは言わせぬぞ!」
「嫌じゃない。彼女が反応したのは、あの腕輪を所有している僕だからだ! それで解ったよ、あの警告の意味が……」
メイダールの《聖なる泉》で彼女が姿を現したのは、天界人に対する警告を伝えたかったからだ。
「マールさん、ロレアーヌ妃を解放するって、天界人の意思に反するんじゃ……?」
「私の半分は、天界人ではない!」
そう言いながらも、マルシオン王の背からは光輝く大きな翼が現れた。
その姿を見て、何かが心に引っかかる。
天界の罠?
ロレアーヌ妃が警告したのは、自分と同じ罠にはまるなという事だ。
天界人は僕を、どんな罠にはめるつもりだ?
彼の姿が〈ありえざる者〉オーリンの姿と重なった。
警戒心と緊張がいや増す。
オーリンと一心同体の状態では、逃げ出す事も出来ない。
「さあ、無駄話はここまでだ。泉の精を呼びだしてもらおうか!」
あきらめの気持ちを抱えながら、僕は腰に下げた水袋を取り出し、栓を外した。
「トレヴダールの聖なる泉の精! 導を受け取りに来た、出て来てくれ!」
そう言って門柱の地面の両側に水を垂らす。
すると門柱が輝き始め、水が光輝き一ヶ所に集まり人形を取る。
小柄なその人形は長く濃い金色の髪をなびかせて、細い腕には銀色に輝く制御の腕輪がはまっている。
「ロレアーヌ!」
マルシオン王が彼女に近寄ろうとした時、声が聞こえた。
『彼女を返して欲しければ、近寄ってはなりません!』
ロレアーヌ妃の背後の暗闇が蠢く。
『魔界域に入り込みたくなければ、〈管理者〉よ』
マルシオン王は、寸でのところで踏み留まる。
『時間が限られています。オリアンナ姫、父上の伝言は、自身の魔力に溺れるなと伝えています。あなたを心配しての言葉です』
僕は頷いた。
《聖なる泉》に父の姿を映すだけの余力がない事が見て取れる。
『導を受け取りなさい。トレヴダールの《聖なる泉》の導、〈祥華の炎〉』
ロレアーヌ妃の光輝く身体から、清らかな炎が現れた。
それは真っ直ぐ僕に向かい、包み込む。
導は熱のない状態で、僕の左手に凝縮し……、やがて消えた。
僕はもはや、導に違和感を覚える事もない。
『〈祥華の炎〉はあなたを助け、ブライデインへ導く』
炎が僕の中に消えたと同時に、ロレアーヌ妃の姿は空中に浮かぶ光の玉となる。
「ロレアーヌ!」
「待って! どうかロレアーヌさんを返してあげて!」
僕は消えゆく泉の精に願い、必死に叫んだ!
『あなたの中に、既に彼女はいるでしょう?』
マルシオン王はハッとして、自分の胸元を見る。
そこには、彼の中に入り込もうとする小さな球体があった。
「ロレアーヌ……」
彼の顔に歓喜の表情が浮かび上がる。
球体は彼の胸の中に消えかけた。
『〈管理者〉よ。あなたのこれ以上の干渉を、我等は拒否する!』
泉の精は、そう言い残し消えた。
その瞬間、《聖なる泉》の門が崩壊した。
門を支える楔石だったロレアーヌ妃が消えたせいだ。
石が僕に向けて落ちてくる。
マルシオン王が咄嗟に僕を庇おうとした時、その手は弾かれた。
「何?」
僕の身体を、美しく煌めく炎が包み込む。
降り注ぐ石は炎に焼かれ、僕に当たる前に焼失した。
「なるほど、新たな魔力に守られているという事か」
その魔力を忌み嫌うように、彼は顔を顰めた。
「マールさん、暗黒が!」
門が崩壊したと同時に、魔界域の黒い渦が二人に押し寄せた。
黒い渦は触手を伸ばし二人を絡めとり、魔界域へ引き摺り込もうとする。
触手は僕に触れそうになった途端、激しく燃え上がりあっという間に焼失した。
マルシオン王は光を纏い、暗黒をはね除ける。
「オリアンナ姫! ここに長居は無用だ」
「マールさん、暗黒が外に出る!」
二人の間をすり抜け黒い渦が、《聖なる泉》の〈門番〉目掛けて押し寄せた。
「……!」
マルシオン王の胸元から、光輝く人物が現れる。
「ロレアーヌ!」
『私は門を構成する楔石。この世が暗黒に呑まれる事はありません』
「私は望んでないぞ! そなたは、いつも……、私を置いていく」
『マルシオン……』
ロレアーヌ妃は優しく微笑み、やがて光の球体となり、門の頂上部分があった場所へ飛び立った。
彼女が所定の位置に戻った途端、壊れた門石が元の場所へ戻り、《聖なる泉》の門は再構築された。
暗黒は門内に閉じ込められ、流出は止まる。
彼女は《聖なる泉》を構成する一員に戻る事で、最悪の事態を防いだのだ。
『あなたと……、共……に……』
ロレアーヌ妃の声が聞こえた。
永遠に生きる彼に彼女だけが寄り添う、たとえ会う事が叶わなくとも。
マルシオン王は暫く門を睨んでいた。
花のような、獣のような、人の顔のような楔石は、ただ無機質な門の飾りと化し、彼の怒りをはね除けている。
「帰るぞ、オリアンナ姫。流れ出た暗黒を排除しよう」
彼は何事も無かったように、踵を返し《聖なる泉》の〈門番〉の元へ向かった。
僕は何度も楔石を振り返り、引き裂かれるマルシオン王とロレアーヌ妃の悲しみに、涙が出そうになるのを必死に堪えていた。
だが、周りは薄く暗く揺らめき、その姿を確認する事は出来なかった。
《聖なる泉》の圏内に入ったという事だ。
先へ進もうとした時、門の端に人影があった。
誰もいないと思っていた僕は、その姿に思わず大声で呼びかける。
「マールさん!」
緩やかな金髪を揺らしながら、その男は琥珀色の瞳を無表情に僕に向けている。
顔の輪郭を簿かす髭は綺麗に剃り落とされ、鋭角的な顎のラインがそれまでのマールの優しい雰囲気を打ち消していた。
柔らかな色合いの服装を好んで着ていたマールと違い、今はセルジン王のように、まるで喪に服した服装だ。
金色の髪が黒服に映える。
「やあ、ブライデイン」
その呼び掛けに、僕はハッとした。
彼は古のエステラーン王、マルシオン・ティエム・ベイデル。
王の薬師マール・サイレスとして存在する事を辞めたのだ。
「マルシオン王……」
僕は怯えた。
強力な魔力を隠す事なく、彼は僕を威嚇し睨み付けてくる。
「ブライデイン、そなたに頼みがある」
「……頼み?」
頼む姿勢ではなく、完全な命令だと感じる。
古の王は長い時間を経ても、なお王として存在しているのだ。
「妻に、会いたい」
僕は目を見開き、マルシオン王を凝視する。
泉の精と取り引きして望みを叶えると同時に、《聖なる泉》を構成する一員となったロレアーヌ妃。
自由がなくなった存在に会う事が可能なのか、僕には判断がつかない。
「それは……、僕には判らない。〈門番〉に許可された者しか入れない」
「そなたも〈門番〉に許可されてない」
「あ……」
〈門番〉が暗黒に呑まれた時点で、《聖なる泉》の常識は崩れている。
「僕は構いません。でも、なぜ? そんな強力な魔力をお持ちなら、自分で入場出来るんじゃ……」
「ロレアーヌはそなたの前に現れた。私の前ではなく」
「……」
どうしても、会いたいんだ。
そう思うとマルシオン王に、少しだけ親近感が湧いた。
僕がセルジン王の側にいたい気持ちと、同じだと思ったからだ。
僕は暗黒に歪む門を見た。
彼はこの門の前で、どれだけロレアーヌ妃を待ち続けていたのだろう。
門の楔石を探す。
メイダールの《聖なる泉》で、楔石はマルシオン王を呼んでいた。
上部は歪みがひどく、楔石を確認する事は出来ない。
「ロレアーヌ妃が現れるか、判りませんよ」
「構わぬ」
彼は門の中を見ている。
そこから暗黒が噴き出し、渦巻いている。
「魔界域に踏み込めば、恐らく帰る事は叶わなくなる。そなたの護衛として、私は適任だろう?」
そう言って振り返った彼は、何かを決意しているように、僕に手を差し伸べる。
「覚悟を決めろ、ブライデイン」
この古の王を、信用して良いのか?
「……条件を出して良いですか?」
「条件、私にか? 生意気なブライデイン、場合によっては許さぬぞ!」
古の王は怒ったように、僕に迫る。
泉の精の魔力〈堅固の風〉が、マルシオン王の髪を激しくなぶる。
彼は僕の持つ魔力を、恐れる様子がない。
僕は恐怖に顔を強張らせながら叫んだ。
「マールさんに戻って下さい! それが条件です!」
マルシオン王は、その瞬間に姿を変えた。
「これで宜しいですか、オリアンナ姫?」
彼はマール・サイレスの優しい顔立ちに戻り、僕に微笑む。
僕はホッとして、地面に座り込んだ。
「あんまり怖がらせないで下さいよ、マールさん」
「外見とは案外、当てにはならないものですよ、姫君」
そう言って彼は、門の前を指差した。
僕は不承不承、立ち上がる。
「それでも、マールさんの方がいいです」
「分かりました。しばらくこの姿でいましょう」
外見は優しいマールに戻ったものの、マルシオン王の溢れる魔力は変わらず、僕の恐怖心は治まらない。
二人で、門へ向かった。
「魔界域に踏み込まないで、泉の精を呼びだすにはどうしたらいい?」
「あなたが一番ご存じでしょう?」
「僕が?」
メイダールの《聖なる泉》で、廃墟の荒涼とした幾重にも連なる景色の中、泉の精を呼んだ時を思い出す。
「……水?」
僕は腰に提げた水袋を手にした。
あの時、荒涼とした世界から出られない恐怖を味わって、必死に泉の精に呼びかけた。
今、横にマルシオン王がいる状況で、あの時の必死な精神状態になれるのか不安になる。
「出来ないのですか?」
マールは物腰柔らかく、僕に聞く。
微笑む優しい外見なのに、その中身はマルシオン王そのものだ。
逃げ出したい気分になる。
「……マールさん、もう少し魔力を出さないでもらえますか?」
「ふふ、こんな危険な状況で? それは無理だな」
僕はマルシオン王に、マールを望む事を諦めた。
そして、前から気になっていた事を口にする。
「《王族》は泉の精に嫌われている。どうして?」
彼は声を上げて笑った。
「私やセルジン王の事を、怖いと感じた事はないのか?」
「あなたの事は怖いと思います。でも陛下の事は……」
強力な魔力を操るセルジン王は、魔王にもなりうると存在だと思う時がある。
それでも、怖いとは感じなかった。
「《王族》は怖い存在だよ。天界人の能力を秘めているのだからな。そしていつの間にか入り込んだ、魔界域の住人の能力も……」
「え?」
彼は目の前に広がる魔界域から、溢れる黒い渦に顔を顰める。
「我等は水晶玉に捕らわれた、人間でない者。泉の精が好む訳がない」
「それじゃあ、なぜロレアーヌ妃は、取引に応じてもらえた?」
「解らぬか、制御の腕輪のせいだ!」
怒ったように僕を睨み付け、彼は腕輪のはまった位置を見た。
「外してきたのだな。あの男が取り上げたか? あれは泉の精の魔力を制御すると同時に、《王族》の魔力も制御した。ロレアーヌは天界人の罠にはまったのだ」
「あれは、天界の物? 泉の精はどうして腕輪に気付かない?」
「彼女の命の光となった〈ありえざる者〉が、天界の気配を消したせいだ」
「……」
状況は僕と似たようなものだろう、〈ありえざる者〉がそこまで干渉している事に恐怖を覚える。
「ロレアーヌを助け出す。《聖なる泉》が完全に魔界域に呑まれる前に、彼女を解放する。ここまで来て、嫌とは言わせぬぞ!」
「嫌じゃない。彼女が反応したのは、あの腕輪を所有している僕だからだ! それで解ったよ、あの警告の意味が……」
メイダールの《聖なる泉》で彼女が姿を現したのは、天界人に対する警告を伝えたかったからだ。
「マールさん、ロレアーヌ妃を解放するって、天界人の意思に反するんじゃ……?」
「私の半分は、天界人ではない!」
そう言いながらも、マルシオン王の背からは光輝く大きな翼が現れた。
その姿を見て、何かが心に引っかかる。
天界の罠?
ロレアーヌ妃が警告したのは、自分と同じ罠にはまるなという事だ。
天界人は僕を、どんな罠にはめるつもりだ?
彼の姿が〈ありえざる者〉オーリンの姿と重なった。
警戒心と緊張がいや増す。
オーリンと一心同体の状態では、逃げ出す事も出来ない。
「さあ、無駄話はここまでだ。泉の精を呼びだしてもらおうか!」
あきらめの気持ちを抱えながら、僕は腰に下げた水袋を取り出し、栓を外した。
「トレヴダールの聖なる泉の精! 導を受け取りに来た、出て来てくれ!」
そう言って門柱の地面の両側に水を垂らす。
すると門柱が輝き始め、水が光輝き一ヶ所に集まり人形を取る。
小柄なその人形は長く濃い金色の髪をなびかせて、細い腕には銀色に輝く制御の腕輪がはまっている。
「ロレアーヌ!」
マルシオン王が彼女に近寄ろうとした時、声が聞こえた。
『彼女を返して欲しければ、近寄ってはなりません!』
ロレアーヌ妃の背後の暗闇が蠢く。
『魔界域に入り込みたくなければ、〈管理者〉よ』
マルシオン王は、寸でのところで踏み留まる。
『時間が限られています。オリアンナ姫、父上の伝言は、自身の魔力に溺れるなと伝えています。あなたを心配しての言葉です』
僕は頷いた。
《聖なる泉》に父の姿を映すだけの余力がない事が見て取れる。
『導を受け取りなさい。トレヴダールの《聖なる泉》の導、〈祥華の炎〉』
ロレアーヌ妃の光輝く身体から、清らかな炎が現れた。
それは真っ直ぐ僕に向かい、包み込む。
導は熱のない状態で、僕の左手に凝縮し……、やがて消えた。
僕はもはや、導に違和感を覚える事もない。
『〈祥華の炎〉はあなたを助け、ブライデインへ導く』
炎が僕の中に消えたと同時に、ロレアーヌ妃の姿は空中に浮かぶ光の玉となる。
「ロレアーヌ!」
「待って! どうかロレアーヌさんを返してあげて!」
僕は消えゆく泉の精に願い、必死に叫んだ!
『あなたの中に、既に彼女はいるでしょう?』
マルシオン王はハッとして、自分の胸元を見る。
そこには、彼の中に入り込もうとする小さな球体があった。
「ロレアーヌ……」
彼の顔に歓喜の表情が浮かび上がる。
球体は彼の胸の中に消えかけた。
『〈管理者〉よ。あなたのこれ以上の干渉を、我等は拒否する!』
泉の精は、そう言い残し消えた。
その瞬間、《聖なる泉》の門が崩壊した。
門を支える楔石だったロレアーヌ妃が消えたせいだ。
石が僕に向けて落ちてくる。
マルシオン王が咄嗟に僕を庇おうとした時、その手は弾かれた。
「何?」
僕の身体を、美しく煌めく炎が包み込む。
降り注ぐ石は炎に焼かれ、僕に当たる前に焼失した。
「なるほど、新たな魔力に守られているという事か」
その魔力を忌み嫌うように、彼は顔を顰めた。
「マールさん、暗黒が!」
門が崩壊したと同時に、魔界域の黒い渦が二人に押し寄せた。
黒い渦は触手を伸ばし二人を絡めとり、魔界域へ引き摺り込もうとする。
触手は僕に触れそうになった途端、激しく燃え上がりあっという間に焼失した。
マルシオン王は光を纏い、暗黒をはね除ける。
「オリアンナ姫! ここに長居は無用だ」
「マールさん、暗黒が外に出る!」
二人の間をすり抜け黒い渦が、《聖なる泉》の〈門番〉目掛けて押し寄せた。
「……!」
マルシオン王の胸元から、光輝く人物が現れる。
「ロレアーヌ!」
『私は門を構成する楔石。この世が暗黒に呑まれる事はありません』
「私は望んでないぞ! そなたは、いつも……、私を置いていく」
『マルシオン……』
ロレアーヌ妃は優しく微笑み、やがて光の球体となり、門の頂上部分があった場所へ飛び立った。
彼女が所定の位置に戻った途端、壊れた門石が元の場所へ戻り、《聖なる泉》の門は再構築された。
暗黒は門内に閉じ込められ、流出は止まる。
彼女は《聖なる泉》を構成する一員に戻る事で、最悪の事態を防いだのだ。
『あなたと……、共……に……』
ロレアーヌ妃の声が聞こえた。
永遠に生きる彼に彼女だけが寄り添う、たとえ会う事が叶わなくとも。
マルシオン王は暫く門を睨んでいた。
花のような、獣のような、人の顔のような楔石は、ただ無機質な門の飾りと化し、彼の怒りをはね除けている。
「帰るぞ、オリアンナ姫。流れ出た暗黒を排除しよう」
彼は何事も無かったように、踵を返し《聖なる泉》の〈門番〉の元へ向かった。
僕は何度も楔石を振り返り、引き裂かれるマルシオン王とロレアーヌ妃の悲しみに、涙が出そうになるのを必死に堪えていた。
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