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1.情景を越えた先
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——赤、朱、紅
焼ける音がする。
焦げる匂いがする。
全てが燃えている。
森が、畑が、僕たちの家が燃える。
響く剣戟、轟く魔法。
彼女が戦っている。
彼女が一人で魔物の群れに相対している。
——なのに、僕は動けない。
足が竦む。
手が震える。
傷ついた腕が痛い。
腰が抜けて立ち上がることすらできない。
——動け、動け、動けよ!
僕の足は動かない。
ただ震えるだけで何の役にもたってくれない。
突然、背後からガサガサと音が聞こえてきた。
視界に映るのは巨軀。
振り向いた僕の耳に聴こえてくるゴウッ! という重低音。
呆然とした僕に迫りくる巨腕。
そして脳内に響く無機質な音。
『攻撃が来ます。避けてください』
「う——わぁああああああ!」
悲鳴を漏らしながらも、その指示に従うように無様に横へと転がる。
元いた場所を見ると、地面を貫く巨大な腕と陥没した大地。
腕を辿るとそこにいたのは僕なんかじゃ逆立ちをしても絶対に敵わないようなモンスターが立っている。
——人型モンスター【トロール】
巨大で醜悪な身体をもつそれは、鈍足と引き換えに圧倒的な腕力を持つモンスター。
固い城壁をも一撃で砕くと言われているその巨腕を僕なんかが食らえばひとたまりもない。
運が悪ければ一撃で——死ぬ。
死ななくとも、一撃喰らってしまえばもう再起は不能になる。
「ひっ——」
『攻撃が来ます。避けてください』
「う、わああああ!」
無様に、そこから離れることだけを考えて転がる。
直後、元いた場所に突き刺さる巨腕。
——もしも僕が避けられなかったら
そう考えただけで瞼が痙攣し、歯がカチカチと音を鳴らす。
僕が恐怖に震えてもトロールはその足を止めることはない。
再び僕にやってきた脅威、それを裏付けるかのように響く無機質な声。
まさに悪夢だ。
『攻撃が来ます。避けてください』
辛うじて避ける。
避ける。
避け続ける。
何度避けても転がることしかできない僕は、この脅威から逃げられない。
まるで僕とトロールの鼬ごっこだけど、それも唐突に終わりを迎える。
僕の圧倒的劣勢で。
避けた先、背中に当たった固い感触。いくら足を動かしても、その固い何かが邪魔をして僕を逃してくれない。
「————グルァアアアアアアアアアア!」
格下のはずの僕に、最弱のはずの僕に何度も攻撃を避けられたトロールは苛立ちの声を上げた。
そして再び繰り出された巨腕の薙ぎ払い。避けられない。
だけど無情にも、無機質な声は避けろと言う。
『攻撃が来ます。避けてください』
「ギッ————」
トロールの横薙ぎの一撃。
退路を断たれてしまった僕に為す術はない。
軋む身体。
真っ白い火花が散る視界。
息が吸えなくなる。
細身の僕の身体は、いとも簡単に吹き飛ばされてしまった。
壁を突き破り、地面を転がって森に生える木に激突してようやく止まる。
血を吐く。
息ができない。
身体が動かない。
僕はそんな状態なのに、トロールはその目に僕を映す。
胸が痛い。
身体が痛い。
全身が千切れそうなくらい痛い。
僕はそんな状態なのに、トロールはとどめを刺そうと僕の元へとどんどん近づいてきて……。
『攻撃が来ます。避けてください』
「ぁ——ぁぁ……」
トロールはその巨大な顔に醜悪な笑みを浮かべる。
『攻撃が来ます。避けてください』
「ぅ、ぁ……」
その巨腕をゆっくりと持ち上げ、僕に狙いを定めた。
——死ぬ
——何もできずに死ぬ
——最弱の僕はいとも簡単に殺される
「————ガアァァァァァアア!」
『攻撃が来ます。避けてください』
「たす……け……」
這うこともできずにその巨腕が振り下ろされる様を見つめることしかできない。
随分とゆっくりに見える振り下ろされた巨腕。
脳裏に霞む思い出。
きっとこれが走馬灯というものなのだろう。
ゆっくり、ゆっくりとその腕の高度が下がる。
そしてそのまま僕の頭を砕く——直前、僕の視界が白銀に染まった。
「————ガアァ……?」
「うーん……危ない危ない。リードくん、大丈夫……ではないね。辛うじて生きてるってところかな? まぁ、知ってたけどね」
血に塗れた戦場には些か場違いな、凛とした声が響く。
彼女だ。
右手に細いレイピア。
トロールの一撃を止めたとは思えないほどの細身の体躯。防具を一切つけない身軽な格好。
そして美しく靡く白銀の長髪。
僕の知る限りこの世界で最も強い彼女。
僕は、今にもバラバラになりそうな意識の中、その名前を口に出す。
「——ウェル……ト……さん……」
「うん? なんだ、リードくん。まだ意識があったの? まぁ、知ってたけどね。安心して。君と私はまだ死なない。その分岐点はもう少しだけ先だよ」
僕にとっての絶望を前に、そう言ってのける彼女は、最強なんだ。
——ウェルト・プロッシモ
それが彼女の名前だ。
怒ったところなど一度も見せたことがない優しい彼女は、幼い頃に捨てられた僕を拾ってくれた育ての親。
無数のモンスターですら片手で捻る最強の彼女は、最弱の僕を弟子とまで呼び家名を名乗ることすら許す。
返り血すら装飾にしてしまう美しい彼女は、僕が出会ったときから一切姿が変わらない。
彼女は虚空からぼんやりと光る瓶を取り出し、中身を僕に振りかける。
知っている。
何度味わっても慣れてくれない身体が再生する気持ち悪い感覚。
これは、彼女が作ったポーションだ。
トロールは疑問に思う。
どうして僕が潰れていないのかを、どうして彼女がここにいるのかを。
ゆっくりと辺りを見渡し、そして気がつく。
他にモンスターが居ないことに。
そう。
自分以外のモンスターが既に殺されているということに。
「来なよデカブツ。君で最後だ。私の可愛い弟子を傷つけた——その報いを受けてもらうよ?」
「ッッ!? ——グガァアアアアアア!」
トロールは怒りの咆哮をあげる。
ビリビリと僕の肌が震えるほどの声量。
回復したての意識が一瞬で飛ばされそうなほどの迫力。
僕は、ようやく動くようになった歯をガタガタと震わせる事しかできない。
そんな僕の頰に手を置いて彼女はただ一言、
——大丈夫だよ。
その声を聞いただけで僕の震えは不思議と治まった。
僕を撫でた。その代わりに彼女が背中を晒した。
そんな隙をトロールが見逃すはずもなく、その巨腕を無防備な背中に向かって放つ。
彼女は避けない。
彼女は避けられない。
僕がいるから。
僕がいるせいで。
でも、
彼女は避ける必要がなかった。
「そう来るって知ってたよ」
いとも簡単に巨腕を受け止め、それどころか彼女はトロールの腕を半ばから切り落とした。
トロールは痛みに声を漏らし一歩下がる。
——次は右足だね
その声を聞いたトロールは、既に右足で攻撃を繰り出す直前だった。
止まらぬ、蹴り。予言通り振るわれる彼女の剣。
すっぱりと右足を斬り飛ばされたトロールは、バランスを崩しそのまま後ろに倒れた。
彼女はなんでも知っている。
過去にあった事象も、これから起こる未来の出来事も何だって知っている。
勿論僕が捨てられた理由も知っている。
当然、今日ここにモンスターが攻めてくるということも知っていた。
そして、トロールが次に何をするのかも知っている。
——【未来視眼】
それが彼女の持つ第一の異能。その力はこれから起こると確定している事象を全て映し出す。
だから、トロールという鈍足なモンスターが彼女に攻撃を当てるのは不可能なのだ。
——これでおしまい
彼女は数瞬先の未来をそう予言し、予言通りにトロールは命を落としその身を灰色のローブに変えた。
最弱の僕が為す術もなく嬲られた脅威は、最強の彼女によっていとも簡単に葬られた。
僕は、彼女に守られた。
また、守られることしかできなかった。
物心ついた時から、いや、モンスターが跋扈するこの森に捨てられてた時から彼女に守られてきた。
剣もダメ、魔法もからっきし。僕にできるのは家事だけ。
唯一と言っていいほど持っているのは彼女を凌駕するほどの多大な魔力。
それだけ聞くと長所のように聞こえるけれど、魔法を使うことができない僕がどれだけ魔力を持っていたところで意味がない。
それどころか、僕の魔力は多すぎた。
モンスターは魔力を求める。
つまり、僕はモンスターにとって格好のエサだった。
僕を求めてモンスターが襲いかかってくる。その度に、彼女が守ってくれた。
誘魔香のような存在の僕は彼女に守られることしかできない。
彼女が居なければ、僕はもうとっくに、それこそ捨てられた直後にはモンスターの腹の中だっただろう。
トロールを処理し終えた彼女がゆっくりとこちらを振り返る。
「ウェルト……さん」
「お疲れ様。今日も、がんばったね」
満面の笑みで彼女が言う。
その日が終わるたび、彼女が僕に言ってくれる言葉。
彼女は僕の方に一歩踏み出して——そのまま倒れた。
「——ッ!? ウェルトさん!?」
焼ける音がする。
焦げる匂いがする。
全てが燃えている。
森が、畑が、僕たちの家が燃える。
響く剣戟、轟く魔法。
彼女が戦っている。
彼女が一人で魔物の群れに相対している。
——なのに、僕は動けない。
足が竦む。
手が震える。
傷ついた腕が痛い。
腰が抜けて立ち上がることすらできない。
——動け、動け、動けよ!
僕の足は動かない。
ただ震えるだけで何の役にもたってくれない。
突然、背後からガサガサと音が聞こえてきた。
視界に映るのは巨軀。
振り向いた僕の耳に聴こえてくるゴウッ! という重低音。
呆然とした僕に迫りくる巨腕。
そして脳内に響く無機質な音。
『攻撃が来ます。避けてください』
「う——わぁああああああ!」
悲鳴を漏らしながらも、その指示に従うように無様に横へと転がる。
元いた場所を見ると、地面を貫く巨大な腕と陥没した大地。
腕を辿るとそこにいたのは僕なんかじゃ逆立ちをしても絶対に敵わないようなモンスターが立っている。
——人型モンスター【トロール】
巨大で醜悪な身体をもつそれは、鈍足と引き換えに圧倒的な腕力を持つモンスター。
固い城壁をも一撃で砕くと言われているその巨腕を僕なんかが食らえばひとたまりもない。
運が悪ければ一撃で——死ぬ。
死ななくとも、一撃喰らってしまえばもう再起は不能になる。
「ひっ——」
『攻撃が来ます。避けてください』
「う、わああああ!」
無様に、そこから離れることだけを考えて転がる。
直後、元いた場所に突き刺さる巨腕。
——もしも僕が避けられなかったら
そう考えただけで瞼が痙攣し、歯がカチカチと音を鳴らす。
僕が恐怖に震えてもトロールはその足を止めることはない。
再び僕にやってきた脅威、それを裏付けるかのように響く無機質な声。
まさに悪夢だ。
『攻撃が来ます。避けてください』
辛うじて避ける。
避ける。
避け続ける。
何度避けても転がることしかできない僕は、この脅威から逃げられない。
まるで僕とトロールの鼬ごっこだけど、それも唐突に終わりを迎える。
僕の圧倒的劣勢で。
避けた先、背中に当たった固い感触。いくら足を動かしても、その固い何かが邪魔をして僕を逃してくれない。
「————グルァアアアアアアアアアア!」
格下のはずの僕に、最弱のはずの僕に何度も攻撃を避けられたトロールは苛立ちの声を上げた。
そして再び繰り出された巨腕の薙ぎ払い。避けられない。
だけど無情にも、無機質な声は避けろと言う。
『攻撃が来ます。避けてください』
「ギッ————」
トロールの横薙ぎの一撃。
退路を断たれてしまった僕に為す術はない。
軋む身体。
真っ白い火花が散る視界。
息が吸えなくなる。
細身の僕の身体は、いとも簡単に吹き飛ばされてしまった。
壁を突き破り、地面を転がって森に生える木に激突してようやく止まる。
血を吐く。
息ができない。
身体が動かない。
僕はそんな状態なのに、トロールはその目に僕を映す。
胸が痛い。
身体が痛い。
全身が千切れそうなくらい痛い。
僕はそんな状態なのに、トロールはとどめを刺そうと僕の元へとどんどん近づいてきて……。
『攻撃が来ます。避けてください』
「ぁ——ぁぁ……」
トロールはその巨大な顔に醜悪な笑みを浮かべる。
『攻撃が来ます。避けてください』
「ぅ、ぁ……」
その巨腕をゆっくりと持ち上げ、僕に狙いを定めた。
——死ぬ
——何もできずに死ぬ
——最弱の僕はいとも簡単に殺される
「————ガアァァァァァアア!」
『攻撃が来ます。避けてください』
「たす……け……」
這うこともできずにその巨腕が振り下ろされる様を見つめることしかできない。
随分とゆっくりに見える振り下ろされた巨腕。
脳裏に霞む思い出。
きっとこれが走馬灯というものなのだろう。
ゆっくり、ゆっくりとその腕の高度が下がる。
そしてそのまま僕の頭を砕く——直前、僕の視界が白銀に染まった。
「————ガアァ……?」
「うーん……危ない危ない。リードくん、大丈夫……ではないね。辛うじて生きてるってところかな? まぁ、知ってたけどね」
血に塗れた戦場には些か場違いな、凛とした声が響く。
彼女だ。
右手に細いレイピア。
トロールの一撃を止めたとは思えないほどの細身の体躯。防具を一切つけない身軽な格好。
そして美しく靡く白銀の長髪。
僕の知る限りこの世界で最も強い彼女。
僕は、今にもバラバラになりそうな意識の中、その名前を口に出す。
「——ウェル……ト……さん……」
「うん? なんだ、リードくん。まだ意識があったの? まぁ、知ってたけどね。安心して。君と私はまだ死なない。その分岐点はもう少しだけ先だよ」
僕にとっての絶望を前に、そう言ってのける彼女は、最強なんだ。
——ウェルト・プロッシモ
それが彼女の名前だ。
怒ったところなど一度も見せたことがない優しい彼女は、幼い頃に捨てられた僕を拾ってくれた育ての親。
無数のモンスターですら片手で捻る最強の彼女は、最弱の僕を弟子とまで呼び家名を名乗ることすら許す。
返り血すら装飾にしてしまう美しい彼女は、僕が出会ったときから一切姿が変わらない。
彼女は虚空からぼんやりと光る瓶を取り出し、中身を僕に振りかける。
知っている。
何度味わっても慣れてくれない身体が再生する気持ち悪い感覚。
これは、彼女が作ったポーションだ。
トロールは疑問に思う。
どうして僕が潰れていないのかを、どうして彼女がここにいるのかを。
ゆっくりと辺りを見渡し、そして気がつく。
他にモンスターが居ないことに。
そう。
自分以外のモンスターが既に殺されているということに。
「来なよデカブツ。君で最後だ。私の可愛い弟子を傷つけた——その報いを受けてもらうよ?」
「ッッ!? ——グガァアアアアアア!」
トロールは怒りの咆哮をあげる。
ビリビリと僕の肌が震えるほどの声量。
回復したての意識が一瞬で飛ばされそうなほどの迫力。
僕は、ようやく動くようになった歯をガタガタと震わせる事しかできない。
そんな僕の頰に手を置いて彼女はただ一言、
——大丈夫だよ。
その声を聞いただけで僕の震えは不思議と治まった。
僕を撫でた。その代わりに彼女が背中を晒した。
そんな隙をトロールが見逃すはずもなく、その巨腕を無防備な背中に向かって放つ。
彼女は避けない。
彼女は避けられない。
僕がいるから。
僕がいるせいで。
でも、
彼女は避ける必要がなかった。
「そう来るって知ってたよ」
いとも簡単に巨腕を受け止め、それどころか彼女はトロールの腕を半ばから切り落とした。
トロールは痛みに声を漏らし一歩下がる。
——次は右足だね
その声を聞いたトロールは、既に右足で攻撃を繰り出す直前だった。
止まらぬ、蹴り。予言通り振るわれる彼女の剣。
すっぱりと右足を斬り飛ばされたトロールは、バランスを崩しそのまま後ろに倒れた。
彼女はなんでも知っている。
過去にあった事象も、これから起こる未来の出来事も何だって知っている。
勿論僕が捨てられた理由も知っている。
当然、今日ここにモンスターが攻めてくるということも知っていた。
そして、トロールが次に何をするのかも知っている。
——【未来視眼】
それが彼女の持つ第一の異能。その力はこれから起こると確定している事象を全て映し出す。
だから、トロールという鈍足なモンスターが彼女に攻撃を当てるのは不可能なのだ。
——これでおしまい
彼女は数瞬先の未来をそう予言し、予言通りにトロールは命を落としその身を灰色のローブに変えた。
最弱の僕が為す術もなく嬲られた脅威は、最強の彼女によっていとも簡単に葬られた。
僕は、彼女に守られた。
また、守られることしかできなかった。
物心ついた時から、いや、モンスターが跋扈するこの森に捨てられてた時から彼女に守られてきた。
剣もダメ、魔法もからっきし。僕にできるのは家事だけ。
唯一と言っていいほど持っているのは彼女を凌駕するほどの多大な魔力。
それだけ聞くと長所のように聞こえるけれど、魔法を使うことができない僕がどれだけ魔力を持っていたところで意味がない。
それどころか、僕の魔力は多すぎた。
モンスターは魔力を求める。
つまり、僕はモンスターにとって格好のエサだった。
僕を求めてモンスターが襲いかかってくる。その度に、彼女が守ってくれた。
誘魔香のような存在の僕は彼女に守られることしかできない。
彼女が居なければ、僕はもうとっくに、それこそ捨てられた直後にはモンスターの腹の中だっただろう。
トロールを処理し終えた彼女がゆっくりとこちらを振り返る。
「ウェルト……さん」
「お疲れ様。今日も、がんばったね」
満面の笑みで彼女が言う。
その日が終わるたび、彼女が僕に言ってくれる言葉。
彼女は僕の方に一歩踏み出して——そのまま倒れた。
「——ッ!? ウェルトさん!?」
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