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第5話
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騰真は、スマホをこちらに向けていたが、少しだけ手を下げてごまかそうとしていた。
それは私の後ろに人が迫っていたから。徐々にその足音は私の背中に迫ってきていた。
「どうしました。菅山さん──」
角田さんの声。その声に騰真はそちらに目を向ける。
好機。私は騰真の腕を思い切り叩いてスマホを落とし、足でスマホを蹴った。方向は公園の大堀。スマホはガードレールの下をくぐって水の中へ。音を立てて落ちた。
「ああ!」
騰真の間抜けな声を上げてガードレールにしがみついているその隙に、速攻でサイフを取り出し三万円を掴んで、騰真に投げつけながら叫んだ。
「ホラよ。スマホ代。もう私とピー子に関わるな!」
そう言って、角田さんの腕を掴んで駆け出した。騰真から離れて大きな通りに出ると、角田さんは足を踏ん張って立ち止まったので、私も合わせて足を止める。
「菅山さん。ピー子って俺のことですか?」
私は目を丸くしたが、笑ってしまった。
「それに、あの人のスマホ落として大丈夫だったんですか? たしかにただならぬ雰囲気ではありましたけど……」
「大丈夫ですよ。ごめんなさいね。変なことに巻き込んじゃって」
「いやいいんですけど……。じゃ帰りますね」
帰ろうとする角田さんの服を掴んで止めてしまった。今までは興奮していたから平気だったけど、急に怖くなってしまい、足が震えだしたのだ。
「す、すいません。急に怖くなってしまって」
そんな私に、角田さんは笑いかけてくれた。
「ああ、大丈夫です。どこかのバーにでも入りましょうか?」
角田さんは、そういって近くのバーの看板を指差した。私はその言葉に甘えることにしたのだ。
清潔感のある雰囲気のバーで、軽く一杯──。角田さんは私が落ち着くのを待っていてくれた。お酒を飲んだ私のお腹の中が少し熱くなる。ようやくため息が一つ。
「落ち着きました?」
「……ええ、ごめんなさい。変なところ見られちゃって」
「こんなこと聞いたらアレですけど──」
「いえ。角田さんには迷惑かけたので……どうぞ」
角田さんは自分の頬をかきながら、視線をそらして聞いてきた。
「──彼氏さんですか?」
「いえ。元です。元。とっくに切れてるのにお金の無心ですよ。サイテーですよね」
「ピー子って?」
そう。ピー子の話をしなくてはならない。私にとっては何も恥ずかしいことではない。
ただ、堕胎の話は哀しく辛い。そして聞いた方も引いてしまうだろう。今まで親以外には言えなかったけど、何となくこの夜に話してみたくなった。
私は話した。ピー子が宿った話を。過ごした楽しい時間を。その別れを──。
哀しみを忘れるために始めた喫茶店。角田さんが来てくれて繁盛したことまで。
「ヒドい話でしょ? 我が子を殺した親同士がまだ争ってるなんて──」
自分で言った言葉に涙が流れる。お酒のせいか。騰真のことで興奮が覚めやらぬからか。それとも角田さんが大人しく聞いていてくれているからか。
私は顔を下に向けて涙を見られないようにした。
「──菅山さんは何も悪くないですよ」
そんな言葉。許されない罪を犯した私への温かい慈悲のある言葉。
私は顔を上げた。おそらく、相当不細工だったに違いない。しかし角田さんは笑っていたのだ。
「誤解してました。いえ、菅山さんだけに限らず、全ての女性を──」
角田さんは自分のウイスキーをゆっくりと飲みながら話し始めた。
◇
私はここに来る前に、付き合っていた女性がいました。ええ。“いた”です。過去形ですね。
結婚も考えていたのです。私の中ではカウントダウンが始まっていたのですよ。
その日は彼女の誕生日でした。その日にプロポーズしようと思って、花束を買って彼女の部屋に行きました。ポケットには指輪も入れていたのです。
私は料理人ですから、誕生日のディナーを作ると言ってキッチンに立ちました。
チョコレートケーキ、ポークソテー、ピラフなんかを作ろうとしたことを覚えています。
ふと、キッチンに置いてあるゴミ袋の底の方にあまり見たことのない箱を見つけました。体温計みたいな。しかし思い出しました。それは妊娠検査薬です。
彼女が妊娠を確かめた?
とても気になりました。彼女はドアの向こうのリビングにいます。私は音を殺してゴミ袋に手を突っ込んでその箱を引き出しました。なかには使用済みの妊娠検査薬があったのです。
妊娠は──陽性でした。
私は嬉しくなりました。自分の子どもが彼女のお腹の中にいる。そして私はプロポーズしようとしている。喜びが何重にもなって、私の気持ちを膨らませました。私は妊娠検査薬を持ちながらドアを開けて彼女の元に行き抱き付いたのです。
しかし彼女の態度はおかしなものでした。“ヤバい見つかった”といったような。私は彼女に尋ねました。妊娠しているのだろうと。
ですが彼女は首を横に振り詫びてきました。“もう妊娠していない”と。
私は力無く床にへたり込みました。
彼女は私以上に好きな人ができたのだと。もう私とは別れたいが、腹の中の子は明らかに私の子どもだから、新しい彼氏についていってもらって堕ろしたのだと。
世界が真っ暗になりました。全てが音を立てて崩れるとはこのことですね。私の喜びは一気に哀しみの奈落に突き落とされたのです。
◇
角田さんの話は終わった。彼自身もこの話は誰にもしていないと締めくくって。
「なんか──」
「似てますね」
笑える話ではない。しかし二人とも久しぶりに吐き出して心から笑顔になれた気がした。
それは私の後ろに人が迫っていたから。徐々にその足音は私の背中に迫ってきていた。
「どうしました。菅山さん──」
角田さんの声。その声に騰真はそちらに目を向ける。
好機。私は騰真の腕を思い切り叩いてスマホを落とし、足でスマホを蹴った。方向は公園の大堀。スマホはガードレールの下をくぐって水の中へ。音を立てて落ちた。
「ああ!」
騰真の間抜けな声を上げてガードレールにしがみついているその隙に、速攻でサイフを取り出し三万円を掴んで、騰真に投げつけながら叫んだ。
「ホラよ。スマホ代。もう私とピー子に関わるな!」
そう言って、角田さんの腕を掴んで駆け出した。騰真から離れて大きな通りに出ると、角田さんは足を踏ん張って立ち止まったので、私も合わせて足を止める。
「菅山さん。ピー子って俺のことですか?」
私は目を丸くしたが、笑ってしまった。
「それに、あの人のスマホ落として大丈夫だったんですか? たしかにただならぬ雰囲気ではありましたけど……」
「大丈夫ですよ。ごめんなさいね。変なことに巻き込んじゃって」
「いやいいんですけど……。じゃ帰りますね」
帰ろうとする角田さんの服を掴んで止めてしまった。今までは興奮していたから平気だったけど、急に怖くなってしまい、足が震えだしたのだ。
「す、すいません。急に怖くなってしまって」
そんな私に、角田さんは笑いかけてくれた。
「ああ、大丈夫です。どこかのバーにでも入りましょうか?」
角田さんは、そういって近くのバーの看板を指差した。私はその言葉に甘えることにしたのだ。
清潔感のある雰囲気のバーで、軽く一杯──。角田さんは私が落ち着くのを待っていてくれた。お酒を飲んだ私のお腹の中が少し熱くなる。ようやくため息が一つ。
「落ち着きました?」
「……ええ、ごめんなさい。変なところ見られちゃって」
「こんなこと聞いたらアレですけど──」
「いえ。角田さんには迷惑かけたので……どうぞ」
角田さんは自分の頬をかきながら、視線をそらして聞いてきた。
「──彼氏さんですか?」
「いえ。元です。元。とっくに切れてるのにお金の無心ですよ。サイテーですよね」
「ピー子って?」
そう。ピー子の話をしなくてはならない。私にとっては何も恥ずかしいことではない。
ただ、堕胎の話は哀しく辛い。そして聞いた方も引いてしまうだろう。今まで親以外には言えなかったけど、何となくこの夜に話してみたくなった。
私は話した。ピー子が宿った話を。過ごした楽しい時間を。その別れを──。
哀しみを忘れるために始めた喫茶店。角田さんが来てくれて繁盛したことまで。
「ヒドい話でしょ? 我が子を殺した親同士がまだ争ってるなんて──」
自分で言った言葉に涙が流れる。お酒のせいか。騰真のことで興奮が覚めやらぬからか。それとも角田さんが大人しく聞いていてくれているからか。
私は顔を下に向けて涙を見られないようにした。
「──菅山さんは何も悪くないですよ」
そんな言葉。許されない罪を犯した私への温かい慈悲のある言葉。
私は顔を上げた。おそらく、相当不細工だったに違いない。しかし角田さんは笑っていたのだ。
「誤解してました。いえ、菅山さんだけに限らず、全ての女性を──」
角田さんは自分のウイスキーをゆっくりと飲みながら話し始めた。
◇
私はここに来る前に、付き合っていた女性がいました。ええ。“いた”です。過去形ですね。
結婚も考えていたのです。私の中ではカウントダウンが始まっていたのですよ。
その日は彼女の誕生日でした。その日にプロポーズしようと思って、花束を買って彼女の部屋に行きました。ポケットには指輪も入れていたのです。
私は料理人ですから、誕生日のディナーを作ると言ってキッチンに立ちました。
チョコレートケーキ、ポークソテー、ピラフなんかを作ろうとしたことを覚えています。
ふと、キッチンに置いてあるゴミ袋の底の方にあまり見たことのない箱を見つけました。体温計みたいな。しかし思い出しました。それは妊娠検査薬です。
彼女が妊娠を確かめた?
とても気になりました。彼女はドアの向こうのリビングにいます。私は音を殺してゴミ袋に手を突っ込んでその箱を引き出しました。なかには使用済みの妊娠検査薬があったのです。
妊娠は──陽性でした。
私は嬉しくなりました。自分の子どもが彼女のお腹の中にいる。そして私はプロポーズしようとしている。喜びが何重にもなって、私の気持ちを膨らませました。私は妊娠検査薬を持ちながらドアを開けて彼女の元に行き抱き付いたのです。
しかし彼女の態度はおかしなものでした。“ヤバい見つかった”といったような。私は彼女に尋ねました。妊娠しているのだろうと。
ですが彼女は首を横に振り詫びてきました。“もう妊娠していない”と。
私は力無く床にへたり込みました。
彼女は私以上に好きな人ができたのだと。もう私とは別れたいが、腹の中の子は明らかに私の子どもだから、新しい彼氏についていってもらって堕ろしたのだと。
世界が真っ暗になりました。全てが音を立てて崩れるとはこのことですね。私の喜びは一気に哀しみの奈落に突き落とされたのです。
◇
角田さんの話は終わった。彼自身もこの話は誰にもしていないと締めくくって。
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