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第2話
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私と騰真は、二人して年休を取り、病院に来ていた。費用は全て騰真持ち。日帰りの中絶手術。
私の右腕に静脈麻酔が注射される。その一時も見過ごさないように私は看護師の指の動きを見ていた。
今からピー子は掻き出される。細い器具を突っ込まれて、痛いとも言えずに銀のトレイの上に置かれていくのだろう。
騰真は言った。
まだこれは人間じゃないのだと。性別もまだ確定していないものなんだと。そのうちに手や足が出て来たらかわいそうになってしまうんだと。
生理の血がついたナプキンをゴミ箱に捨てるのに誰が感傷的になるだろうか?
男がマスターベーションの末に丸めて捨てたティッシュに誰が思いを巡らせるだろう。
そこには赤ちゃんの元があったのに。
それの結合体だ。僅かな二つの細胞。今なら小さな塊なだけだと。
それは違う。自分のお腹の中にいない、男の言い分だ。男なんて勝手だ。これは殺人。子殺しだ。
私は鼓動を感じた。ピー子の声を。はしゃぎ回る未来を。
まどろみの中に夢を見る。
私はピー子の待つアパートの一室に帰る。薄暗い部屋でピー子は私を待っていた。ママ、今日縦笛を褒められたよ。そうなの。ピー子はすごいね。ねぇ今日のご飯は? そうだなー焼そばにしよっか? やった! 焼そば大好き! 私たちは三袋で100円ぽっちの焼そばを二玉だけ。29円のもやしと炒めて喜んで食べる。
そんな──。
100円ほどの夕食の貧しい夢を──。
幸せな夢を──。
「目ぇ覚めたか──?」
そこは病院のベッドの上。あっという間だった。騰真はそこで待っていた。私は顔を覗き込む騰真に抱き付いて泣いてしまった。
ピー子はもういない──。
こんなヤツでも心のよりどころになってしまった。
病院を出て、私たちは無言でアパートまでの道のりを歩いた。
「奈々。すまない」
私は下を向いたまま首を横に振った。騰真はそれで終わりだろう。約束通り、200万の慰謝料を払って、数年を経て社長となって幸せな人生を歩むのだろう。
私は違う。もう私には何もない。騰真なんていらない。もうなにもいらない。ヒドく疲れた。さっさと家に帰りたかった。
「もうここでいいよ。大丈夫だから」
「ほ、ほんとか?」
私は黙って首を縦に振る。騰真はそこで立ち止まった。
「奈々さえよければ俺──」
私は騰真の言葉を無視して足を前へと進めた。前へ。前へと。
途中、薬局に立ち寄った。睡眠薬を一瓶。店主が注意をグダグダと言っていたが聞き流した。私は毒を買っただけだ。毒の注意などいらない。
ピー子と過ごした13週は私にとって人生の最良の日々だった。私はそれを捨てた。この世に生きている意味を見出せない。
「ゴメンね、ピー子。ママもうすぐそっちに行くから」
なにも中絶などしなければよかった。ピー子をお腹に入れたまま、一緒に死んであげたらよかったんだ。
私は自分の馬鹿さに腹が立った。涙をたくさん流した。
自分への怒り。どうにもならなかった悔しさ。ピー子との別れ。堰を切ったように涙が流れる。
私は泣きながら、睡眠薬の瓶の蓋に、力を込めて回した。
RRRRRR
RRRRRR
着信。母──。
他県に住む母からだった。
大型連休で帰って以来。私は自然にそれを手に取って、涙声を隠しながら通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
「あ~、奈々ちゃん聞いてよ~。お母さん今日、服買ったのよ。服。そしたらキツいの。Lはダメね。奈々ちゃん着れる?」
「なんで~。私、Mなんだけど。どんな服?」
「かわいいシャツなんだけどね。色も落ち着いてて、いいよ。気に入ると思う」
いつもの声が私をダメにした。
「そうかあ。ありがと」
「……アンタ泣いてんの?」
「ヒッ ヒッ ヒッ ヒッ……」
一気に溢れた涙。母はすぐに気付いた。
「今から新幹線で行くから!」
そういって切ってしまった。私は逆に拍子抜けして笑ってしまった。
母が駅からタクシーに乗って着いたのは夜の22時を少し過ぎてからだった。母は何も言わずに私をしばらく抱いていた。
私は子どものように泣いていたが、そのうちに落ち着いて、少し笑ってしまった。
「何があったの?」
母の質問に、私は今日あったことを洗いざらいぶちまけた。37歳にもなって泣きながら無様に母に甘えたのだ。
話を聞いた後、母は私の頬を張った。そして抱きしめる。
「馬鹿!」
「……そうだよ」
「何があっても死んじゃダメ! お母さん悲しいよ!」
そういって母は私を抱く力を強めた。
そうか。この人にとって、私はピー子だったんだ。それを悲しませようとしたんだ。ピー子を殺して、母の心を殺したんじゃ、私は天国に行けなかったよね。ピー子とも会えなかったかもしれない。だってピー子は天国だもん。なんにも悪いことしてないもんね。
ねぇピー子。ママ、どこまでいっても馬鹿だよね──。
しばらくそのまま。母は私の体を抱いたまま、いつものように陽気に話し掛ける。
「ねぇアンタ、会社なんて辞めて帰っておいでよ」
「はあ?」
「10何年勤めたんだもの退職金も出るでしょ。それから男から貰える200万もあるんでしょ? それでお母さんと喫茶店やらない? 駅近にいい居抜き物件あるのよ。それを二人で買ってさ。お母さんが厨房。アンタがウェイトレス」
母の提案は行き当たりばったりだ。いつもそうなんだ。でも母らしい。私は思わず心から笑った。
私の右腕に静脈麻酔が注射される。その一時も見過ごさないように私は看護師の指の動きを見ていた。
今からピー子は掻き出される。細い器具を突っ込まれて、痛いとも言えずに銀のトレイの上に置かれていくのだろう。
騰真は言った。
まだこれは人間じゃないのだと。性別もまだ確定していないものなんだと。そのうちに手や足が出て来たらかわいそうになってしまうんだと。
生理の血がついたナプキンをゴミ箱に捨てるのに誰が感傷的になるだろうか?
男がマスターベーションの末に丸めて捨てたティッシュに誰が思いを巡らせるだろう。
そこには赤ちゃんの元があったのに。
それの結合体だ。僅かな二つの細胞。今なら小さな塊なだけだと。
それは違う。自分のお腹の中にいない、男の言い分だ。男なんて勝手だ。これは殺人。子殺しだ。
私は鼓動を感じた。ピー子の声を。はしゃぎ回る未来を。
まどろみの中に夢を見る。
私はピー子の待つアパートの一室に帰る。薄暗い部屋でピー子は私を待っていた。ママ、今日縦笛を褒められたよ。そうなの。ピー子はすごいね。ねぇ今日のご飯は? そうだなー焼そばにしよっか? やった! 焼そば大好き! 私たちは三袋で100円ぽっちの焼そばを二玉だけ。29円のもやしと炒めて喜んで食べる。
そんな──。
100円ほどの夕食の貧しい夢を──。
幸せな夢を──。
「目ぇ覚めたか──?」
そこは病院のベッドの上。あっという間だった。騰真はそこで待っていた。私は顔を覗き込む騰真に抱き付いて泣いてしまった。
ピー子はもういない──。
こんなヤツでも心のよりどころになってしまった。
病院を出て、私たちは無言でアパートまでの道のりを歩いた。
「奈々。すまない」
私は下を向いたまま首を横に振った。騰真はそれで終わりだろう。約束通り、200万の慰謝料を払って、数年を経て社長となって幸せな人生を歩むのだろう。
私は違う。もう私には何もない。騰真なんていらない。もうなにもいらない。ヒドく疲れた。さっさと家に帰りたかった。
「もうここでいいよ。大丈夫だから」
「ほ、ほんとか?」
私は黙って首を縦に振る。騰真はそこで立ち止まった。
「奈々さえよければ俺──」
私は騰真の言葉を無視して足を前へと進めた。前へ。前へと。
途中、薬局に立ち寄った。睡眠薬を一瓶。店主が注意をグダグダと言っていたが聞き流した。私は毒を買っただけだ。毒の注意などいらない。
ピー子と過ごした13週は私にとって人生の最良の日々だった。私はそれを捨てた。この世に生きている意味を見出せない。
「ゴメンね、ピー子。ママもうすぐそっちに行くから」
なにも中絶などしなければよかった。ピー子をお腹に入れたまま、一緒に死んであげたらよかったんだ。
私は自分の馬鹿さに腹が立った。涙をたくさん流した。
自分への怒り。どうにもならなかった悔しさ。ピー子との別れ。堰を切ったように涙が流れる。
私は泣きながら、睡眠薬の瓶の蓋に、力を込めて回した。
RRRRRR
RRRRRR
着信。母──。
他県に住む母からだった。
大型連休で帰って以来。私は自然にそれを手に取って、涙声を隠しながら通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
「あ~、奈々ちゃん聞いてよ~。お母さん今日、服買ったのよ。服。そしたらキツいの。Lはダメね。奈々ちゃん着れる?」
「なんで~。私、Mなんだけど。どんな服?」
「かわいいシャツなんだけどね。色も落ち着いてて、いいよ。気に入ると思う」
いつもの声が私をダメにした。
「そうかあ。ありがと」
「……アンタ泣いてんの?」
「ヒッ ヒッ ヒッ ヒッ……」
一気に溢れた涙。母はすぐに気付いた。
「今から新幹線で行くから!」
そういって切ってしまった。私は逆に拍子抜けして笑ってしまった。
母が駅からタクシーに乗って着いたのは夜の22時を少し過ぎてからだった。母は何も言わずに私をしばらく抱いていた。
私は子どものように泣いていたが、そのうちに落ち着いて、少し笑ってしまった。
「何があったの?」
母の質問に、私は今日あったことを洗いざらいぶちまけた。37歳にもなって泣きながら無様に母に甘えたのだ。
話を聞いた後、母は私の頬を張った。そして抱きしめる。
「馬鹿!」
「……そうだよ」
「何があっても死んじゃダメ! お母さん悲しいよ!」
そういって母は私を抱く力を強めた。
そうか。この人にとって、私はピー子だったんだ。それを悲しませようとしたんだ。ピー子を殺して、母の心を殺したんじゃ、私は天国に行けなかったよね。ピー子とも会えなかったかもしれない。だってピー子は天国だもん。なんにも悪いことしてないもんね。
ねぇピー子。ママ、どこまでいっても馬鹿だよね──。
しばらくそのまま。母は私の体を抱いたまま、いつものように陽気に話し掛ける。
「ねぇアンタ、会社なんて辞めて帰っておいでよ」
「はあ?」
「10何年勤めたんだもの退職金も出るでしょ。それから男から貰える200万もあるんでしょ? それでお母さんと喫茶店やらない? 駅近にいい居抜き物件あるのよ。それを二人で買ってさ。お母さんが厨房。アンタがウェイトレス」
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