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第1話
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8年付き合って初めての彼の失敗──。37歳で初めての妊娠。未婚だが、妊娠検査薬のピンクのラインに笑う私がいた。
彼は──。騰真は喜んでくれるだろうか。いやその可能性は低い。同期入社の彼。29歳のとき、打ち上げの流れで一夜を共にしてそれからずっと。顔が好きだったし、仕事でもやり手だった。正直三年もすればプロポーズしてくるのかと思ってた。それが今まで。
浮気の噂もあった。だけど結局私の元に戻ってきたと思っていたのに。最近では惰性で付き合ってる感じが否めないもの。妊娠のことを言っておじけづくようならさっさと別れてしまおう。
一人でも産む。もう子どもを産めるチャンスはないもんね。
「ピー子。ママが守ってあげるからね」
私は出来たばかりの生命がいるであろう。お腹をさすった。
ピー子。突然出て来た名前に微笑んだ。ピッタリだ。産まれてきたらちゃんとした名前をつけてあげるけど、お腹の中にいる間はピー子でいい。呼びやすいし愛らしい。
病院で改めて調べると妊娠8週目。ちゃんとそこにいるんだ。超音波で小さな点みたいなのがピー子だ。いっちょ前に心音鳴らしてる。かわいい。
保健所で母子手帳を貰った。表紙のイラストが好き。ピー子もきっとこんな感じだよね。こんな愛らしい赤ちゃんが今お腹の中にいるなんて──。
私の喜びとは逆に、彼にあっさり別れを告げられた。妊娠報告もしていないにも関わらず。
「社長の娘さんに気に入られちゃって……。分かるだろ? お前のことは好きだけど、立場上社長の話を断るわけにはいかない。弱い俺を許してくれよ」
「つまり、別れるってこと?」
「……うん。お前さえよければ内緒で裏で付き合うことは出来るけど──」
それってただの都合のいい女ってことじゃん。37歳まで待たせといて本当に最低。ま、きっちり別れられてよかった、よかった。
「いや。いい。今までありがとう」
「ん? そうか? 悪いな」
たったそれだけだった。顔だけの男と付き合うもんじゃない。ってもう遅いか。まあいいや。母は強し。働かなくちゃね。
私は両腕を上げて背伸びをして気合いを入れた。
彼と別れてひと月。ピー子は順調。ともに鼓動を合わせながら生きる日々。
「ピー子。ママお昼にフィッシュサンド食べたんだけどね、あれすごく美味しかったよ。ピー子もお腹から出て来たら食べさせてあげる」
ひたすら──。
「ピー子。ここの公園こんなに広かったんだね。産まれてきたらお弁当持って遊びに来ようね」
ただひたすら──。
「ピー子。みてみなよ。キレイな花。ピー子には花を愛する子になって欲しいな」
ピー子を愛した。
たくさんたくさん、話し掛けた。まだ胎動など感じないのに、話し掛けると嬉しそうなのが分かった。そこに生きているんだと。
大きな伸び。
寝返り。
はしゃぎまわり。
そんなはず無いのに、感じた。ピー子の元気な姿。その様子。その笑顔。私たちは共に生きた。
その日は突然。アパートの部屋のノック。それと同時にドアが開いた。
騰真だった。合い鍵を持っていた彼はいつものように遠慮なく、ずかずかと脚を鳴らして入ってきたのだ。
「なによ。別れたのに失礼じゃない」
「いやあ奈々が寂しがってるんじゃないかと思って。それと合い鍵返しに来た」
「寂しくなんかない。そこに鍵置いて出てって」
「つれないなぁ。素直になれよ」
なんて勝手。心底ムカついた。彼はどんどん部屋の中に入って来た。私は嫌悪感が勝って立ち上がり怒鳴った。
「いい加減にしてよ! 警察呼ぶよ!」
「はあ? なんで? それに俺、なんか忘れもんしてないかなぁ?」
「知らないよ。出て来たら捨てとくから心配しないで」
「まあまあそう言わないで」
のれんに腕押し、ぬかに釘。彼は自分の家のように辺りを見回し、クローゼットを開けた。私は彼の肩を掴んで振り向かせ、腕を振り上げて頬を張った。
「いい加減にして。でてけ」
「ほー。いて。ひょっとして怒ってる?」
「怒ってるよ!」
「ウソつけよ。もう体の方は俺を求めて──」
彼の言葉が止まる。視線はテレビ台の隅。彼は無言でそこに進む。
「母子手帳──」
彼はそれを手に取ってしばらく眺めていた。そして静かに口を開く。
「産むの?」
この8年間で幾度か味わった騰真の怒ったときの声だ。最初は低めのトーンで切り出してだんだん声が大きくなっていく。
「騰真に関係ないよね?」
「関係あるだろ。俺の子だろ?」
「だったら何だって言うの?」
彼は私の両肩を掴み、目を見開いて凄んだのだ。
「一人の問題じゃない。二人の問題だろ。勝手なことすんなよな!」
二人──。それはピー子と私。アンタはイナイ。アンタはただ一時的に私の上を通り過ぎただけ。いい思いだけして苦しまない。私たち母子をそっとしておいて。なんの権限があって──。
「社長だぞ? 次期社長。それが外に子どもがいたら困るんだよ。なあ頼む。考え直してくれ」
勝手な理由。
「今はまだ堕ろせる時期だろ。金なら払う。慰謝料だって払う。やっと回ってきた人生のチャンスなんだよ。まだ少しでも愛してるなら──」
ぜんぜん愛してない。
「正直言うと、俺はまだ愛してる。奈々と結婚したいと思ってる。だけど今は困る」
なんだそりゃ。
「それに母子家庭なんて苦しいぞ。親子ともども苦しむ。欲しいものも満足に買ってやれない。好きな高校にも行かせてやれない」
……覚悟の上だ。
「自分の勝手な理由で子どもを不幸にするなよ。俺が結婚して出来た子はちゃんとした教育を受けられるのに、その子は着古したシャツを着て、将来に夢を持てない。そんなふうにするのが母親か? 子どもはペットじゃない!」
そ、それは……。
「な。病院には俺もついていくから。今回は諦めよう。いいだろう? 奈々──」
ピー子──。
ピー子は産まれてきたら不幸になるのだろうか?
ただ私のわがままなのだろうか?
ピー子は何も言えない。自分の言葉を話せない。生まれて出て来たら父親がいないピー子。
それは──かわいそうだった。
彼は──。騰真は喜んでくれるだろうか。いやその可能性は低い。同期入社の彼。29歳のとき、打ち上げの流れで一夜を共にしてそれからずっと。顔が好きだったし、仕事でもやり手だった。正直三年もすればプロポーズしてくるのかと思ってた。それが今まで。
浮気の噂もあった。だけど結局私の元に戻ってきたと思っていたのに。最近では惰性で付き合ってる感じが否めないもの。妊娠のことを言っておじけづくようならさっさと別れてしまおう。
一人でも産む。もう子どもを産めるチャンスはないもんね。
「ピー子。ママが守ってあげるからね」
私は出来たばかりの生命がいるであろう。お腹をさすった。
ピー子。突然出て来た名前に微笑んだ。ピッタリだ。産まれてきたらちゃんとした名前をつけてあげるけど、お腹の中にいる間はピー子でいい。呼びやすいし愛らしい。
病院で改めて調べると妊娠8週目。ちゃんとそこにいるんだ。超音波で小さな点みたいなのがピー子だ。いっちょ前に心音鳴らしてる。かわいい。
保健所で母子手帳を貰った。表紙のイラストが好き。ピー子もきっとこんな感じだよね。こんな愛らしい赤ちゃんが今お腹の中にいるなんて──。
私の喜びとは逆に、彼にあっさり別れを告げられた。妊娠報告もしていないにも関わらず。
「社長の娘さんに気に入られちゃって……。分かるだろ? お前のことは好きだけど、立場上社長の話を断るわけにはいかない。弱い俺を許してくれよ」
「つまり、別れるってこと?」
「……うん。お前さえよければ内緒で裏で付き合うことは出来るけど──」
それってただの都合のいい女ってことじゃん。37歳まで待たせといて本当に最低。ま、きっちり別れられてよかった、よかった。
「いや。いい。今までありがとう」
「ん? そうか? 悪いな」
たったそれだけだった。顔だけの男と付き合うもんじゃない。ってもう遅いか。まあいいや。母は強し。働かなくちゃね。
私は両腕を上げて背伸びをして気合いを入れた。
彼と別れてひと月。ピー子は順調。ともに鼓動を合わせながら生きる日々。
「ピー子。ママお昼にフィッシュサンド食べたんだけどね、あれすごく美味しかったよ。ピー子もお腹から出て来たら食べさせてあげる」
ひたすら──。
「ピー子。ここの公園こんなに広かったんだね。産まれてきたらお弁当持って遊びに来ようね」
ただひたすら──。
「ピー子。みてみなよ。キレイな花。ピー子には花を愛する子になって欲しいな」
ピー子を愛した。
たくさんたくさん、話し掛けた。まだ胎動など感じないのに、話し掛けると嬉しそうなのが分かった。そこに生きているんだと。
大きな伸び。
寝返り。
はしゃぎまわり。
そんなはず無いのに、感じた。ピー子の元気な姿。その様子。その笑顔。私たちは共に生きた。
その日は突然。アパートの部屋のノック。それと同時にドアが開いた。
騰真だった。合い鍵を持っていた彼はいつものように遠慮なく、ずかずかと脚を鳴らして入ってきたのだ。
「なによ。別れたのに失礼じゃない」
「いやあ奈々が寂しがってるんじゃないかと思って。それと合い鍵返しに来た」
「寂しくなんかない。そこに鍵置いて出てって」
「つれないなぁ。素直になれよ」
なんて勝手。心底ムカついた。彼はどんどん部屋の中に入って来た。私は嫌悪感が勝って立ち上がり怒鳴った。
「いい加減にしてよ! 警察呼ぶよ!」
「はあ? なんで? それに俺、なんか忘れもんしてないかなぁ?」
「知らないよ。出て来たら捨てとくから心配しないで」
「まあまあそう言わないで」
のれんに腕押し、ぬかに釘。彼は自分の家のように辺りを見回し、クローゼットを開けた。私は彼の肩を掴んで振り向かせ、腕を振り上げて頬を張った。
「いい加減にして。でてけ」
「ほー。いて。ひょっとして怒ってる?」
「怒ってるよ!」
「ウソつけよ。もう体の方は俺を求めて──」
彼の言葉が止まる。視線はテレビ台の隅。彼は無言でそこに進む。
「母子手帳──」
彼はそれを手に取ってしばらく眺めていた。そして静かに口を開く。
「産むの?」
この8年間で幾度か味わった騰真の怒ったときの声だ。最初は低めのトーンで切り出してだんだん声が大きくなっていく。
「騰真に関係ないよね?」
「関係あるだろ。俺の子だろ?」
「だったら何だって言うの?」
彼は私の両肩を掴み、目を見開いて凄んだのだ。
「一人の問題じゃない。二人の問題だろ。勝手なことすんなよな!」
二人──。それはピー子と私。アンタはイナイ。アンタはただ一時的に私の上を通り過ぎただけ。いい思いだけして苦しまない。私たち母子をそっとしておいて。なんの権限があって──。
「社長だぞ? 次期社長。それが外に子どもがいたら困るんだよ。なあ頼む。考え直してくれ」
勝手な理由。
「今はまだ堕ろせる時期だろ。金なら払う。慰謝料だって払う。やっと回ってきた人生のチャンスなんだよ。まだ少しでも愛してるなら──」
ぜんぜん愛してない。
「正直言うと、俺はまだ愛してる。奈々と結婚したいと思ってる。だけど今は困る」
なんだそりゃ。
「それに母子家庭なんて苦しいぞ。親子ともども苦しむ。欲しいものも満足に買ってやれない。好きな高校にも行かせてやれない」
……覚悟の上だ。
「自分の勝手な理由で子どもを不幸にするなよ。俺が結婚して出来た子はちゃんとした教育を受けられるのに、その子は着古したシャツを着て、将来に夢を持てない。そんなふうにするのが母親か? 子どもはペットじゃない!」
そ、それは……。
「な。病院には俺もついていくから。今回は諦めよう。いいだろう? 奈々──」
ピー子──。
ピー子は産まれてきたら不幸になるのだろうか?
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それは──かわいそうだった。
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