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第58話 引退
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宝永元年、春。先の元禄地震があって、朝廷は縁起の悪い元禄という元号を宝永と改元する。
ほぼ壊滅に追いやられた江戸の町も徐々にではあるが復興の兆しを見せていた。幕府のほうでも多額の金を出し、日本人の気質もあろう。少しずつではあったが、前に向き始めたのである。
建物が倒れた、焼けた。
その中で、材木商である紀伊国屋は、その商売の特性上、さらに財を築くことに成功したのである。だが熊吉を失った文吉の心は晴れることはなかった。
その文吉は、屋敷の前に立っていた。横には千代。前には尼僧である。
「──いくのかい?」
「寂しくなるわ。几帳さん」
尼僧姿の几帳は深々と二人に頭を下げ、涙を拭きながら顔を上げた。そこにはツルツル頭ではあるものの、希代の傾城の顔があった。
「紀文の大旦那に買われた身であるのに、大恩ある大旦那にこんな我が儘まで叶えて頂いて感謝のしようがありません」
几帳は、熊吉を失ってその菩提を弔うために、頭を丸めて僧侶になりたいと文吉に願い出た。
同じく熊吉を失った文吉であったが、几帳の健気な思いに涙し、それを許した。
「お前さんと熊吉の楽しそうな夫婦の姿を見たかったなァ。几帳。お前さんは早くに夫婦にしてやれなかったワシを恨んでいるかい?」
几帳は首を振って大きく礼をした。
「九万兵衛さまが慕われた大旦那さま。九万兵衛さまにとって義兄ならば、私にとっても義兄です。それは生涯変わりません」
「そうかね──」
几帳は、僅かな荷物を手に尼寺へと向かってゆく。文吉と千代はその姿が見えなくなるまで手を振った。
こうして絶世の美女、几帳太夫は熊吉の位牌を抱いて尼寺に入り、来世を信じて一生を熊吉のために捧げたのである。
それから数ヵ月経ってからである。文吉は源蔵を部屋へと呼んだ。実質、紀伊国屋を経営していたのはこの源蔵である。忙しい最中ではあったが、主人に呼ばれて、急いでやって来た。
「へい。旦那。お呼びで?」
「ああ、他でもない。そこに座んなさい」
命じられて源蔵はその前に座る。文吉は、そんな源蔵に微笑みかけた。
「長い間、この店に忠義を尽くしてくれたな。礼を言わせてくれ」
「はあ……。いえいえ、滅相もございませんが……」
そんなことを言うために呼び出したのだろうかと源蔵は首を傾げる。そこに千代が茶を持ってきて二人に差し出した。文吉は千代もそこに座るように命じながら続けた。
「実はワシは引退しようと思う。熊吉を失い、ワシにはもう金を稼ぐ意義など見出せなくなってしまった。熊吉を慕い、尼寺に入った几帳の粋なやり方に共感したのかもしれない。几帳はどこまでも几帳である。ワシも、紀文いさぎよしと言われたくなったのだ」
「は、はあ?」
それは二人からの声であった。この忙しい中、ブレーンがいなくなって貰っては困る。しかし、文吉の意志は固かった。
「源蔵よ。お前さんは紀伊国屋の屋号を引き継ぎ、二代目文左衛門として、これからも紀伊国屋をもり立てていって欲しい」
突然の申し出であった。巨万の富を譲るというのだ。文吉の意志は固い。これで廃業などといわれたら江戸の町はどうなる。紀伊国屋は、すでに江戸にはなくてはならない存在なのだ。
「まったく。いたずらが過ぎるはいえ、今日ほど度の過ぎたいたずらはございません」
「まあ、そう言うな」
源蔵はその場で三度断りを入れたが、文吉は一向に考えを改めようとしない。源蔵は仕方なしに、この申し出を受けたのだ。
それから幾日経ったであろう。文吉は屋敷の前に立っていた。もう黒紋付ではない。落ち着いた色の着物は、老人が好むような色合いであった。
たくさんの従業員たちに手を上げる。
「それじゃみんな達者でな。新しい紀文の親方の命令をよく聞いて、商売に励んでおくれ」
それぞれがみな、旦那、旦那と呼ぶ声を背に受けて、風呂敷包み一つ提げ、木箱を背中に一つ担いで、屋敷から離れていった。
家族はいなくなった。ミツを殺し、定吉を殺され、熊吉を目の前で失った。そして几帳は尼寺に入ってしまった。
この江戸にもはや未練など何もなくなった。
しかし、そこで足を止めて振り返る。
「お千代──」
振り返るとそこには当たり前のような顔をした千代が立っていた。同じく木箱を背中に背負い、風呂敷包みを一つ持った旅姿だった。
「どうした。どこにいく?」
それに千代は涙を浮かべる。
「──それは旦那のところですよ。店には暇を貰いました。私の行くところは旦那のところ。私の家は旦那がいるところなんです」
「それは──」
文吉は思い出す。千代に好きなものがいるという言葉を。
「……ワシにはもう金も屋敷もないんだぞ?」
「存じております」
「若くもないし、貧乏するぞ?」
「覚悟の上です」
「まったく。なにを好き好んでワシなんかに」
「旦那譲りですよ。好き好んで私なんかを拾って……。育てて──。たくさんたくさん、目をかけて下さいました」
文吉の顔がほころぶ。金を持っていれば自然と人が寄ってくる。しかし、今はそれを捨てた。世捨て人だ。それに千代はついてくるというのだ。
「父として、兄として、男として、大旦那を愛しています。生半可な気持ちじゃない。一生を添い遂げようと思っています」
文吉は、それを聞いて大空に向かって大笑した。千代の真剣な眼差しはそれでも変わらなかった。
「旦那」
「なんだ」
「これからどうするんです?」
「さてな。とりあえず紀州に帰って農業でもするさ。蜜柑や梅の栽培でもしようかな?」
「うふ。お供します」
「勝手にするといいさ」
二人の足は南に向いた。確かな足取りで進んでゆく──。
◇
その後──。
千代は屋敷にいた間にせっせせっせと貯めた金で大きな農地を買い二人で耕した。そして文吉の子どもを二人産んだのだ。それは男児と女児であった。小作人を使って農地を耕し、72歳まで生きた。
几帳は、尼寺に入って熊吉の弔いだけに生涯を費やした。慈悲の心をもって、困っている人を助け、最後は住職となり80歳まで生きた。
源蔵は、二代目紀文として事業を続けたが、幕府の体勢が変わった後、材木商を廃業。残りの人生を俳人として風流に生きた。
吉兵衛は、歌舞伎役者中村吉兵衛として活躍したが、息子の死をきっかけに幇間に戻り、吉原を盛り上げた。
文吉は、千代とともに紀州に住まい、小作人を雇って農業をした。仲睦まじくくらした。宝永四年に起きた宝永地震にあったが家族ともども生き延びたものの、46歳で死亡した。
家族に見守られて亡くなるその顔は穏やかなものであった。
◇
白い玉は、奥多摩山中に飲まれていた。熊吉を飲み込み、神の力を得たが、食あたりにあったようなものだと、地中で身を休めたのだ。
もう一度、一からやり直し。白い玉が熊吉の力を消し地上に這い上がるのに、それから三百年の月日を要することとなった。
「私は天使よ。ひとを幸せにするために生き延びなくてはならない。そしてひとのためにならない、あの寄生虫に天誅をくわえなくては……」
白い玉は土中の中でその時を待ち続ける──。
ほぼ壊滅に追いやられた江戸の町も徐々にではあるが復興の兆しを見せていた。幕府のほうでも多額の金を出し、日本人の気質もあろう。少しずつではあったが、前に向き始めたのである。
建物が倒れた、焼けた。
その中で、材木商である紀伊国屋は、その商売の特性上、さらに財を築くことに成功したのである。だが熊吉を失った文吉の心は晴れることはなかった。
その文吉は、屋敷の前に立っていた。横には千代。前には尼僧である。
「──いくのかい?」
「寂しくなるわ。几帳さん」
尼僧姿の几帳は深々と二人に頭を下げ、涙を拭きながら顔を上げた。そこにはツルツル頭ではあるものの、希代の傾城の顔があった。
「紀文の大旦那に買われた身であるのに、大恩ある大旦那にこんな我が儘まで叶えて頂いて感謝のしようがありません」
几帳は、熊吉を失ってその菩提を弔うために、頭を丸めて僧侶になりたいと文吉に願い出た。
同じく熊吉を失った文吉であったが、几帳の健気な思いに涙し、それを許した。
「お前さんと熊吉の楽しそうな夫婦の姿を見たかったなァ。几帳。お前さんは早くに夫婦にしてやれなかったワシを恨んでいるかい?」
几帳は首を振って大きく礼をした。
「九万兵衛さまが慕われた大旦那さま。九万兵衛さまにとって義兄ならば、私にとっても義兄です。それは生涯変わりません」
「そうかね──」
几帳は、僅かな荷物を手に尼寺へと向かってゆく。文吉と千代はその姿が見えなくなるまで手を振った。
こうして絶世の美女、几帳太夫は熊吉の位牌を抱いて尼寺に入り、来世を信じて一生を熊吉のために捧げたのである。
それから数ヵ月経ってからである。文吉は源蔵を部屋へと呼んだ。実質、紀伊国屋を経営していたのはこの源蔵である。忙しい最中ではあったが、主人に呼ばれて、急いでやって来た。
「へい。旦那。お呼びで?」
「ああ、他でもない。そこに座んなさい」
命じられて源蔵はその前に座る。文吉は、そんな源蔵に微笑みかけた。
「長い間、この店に忠義を尽くしてくれたな。礼を言わせてくれ」
「はあ……。いえいえ、滅相もございませんが……」
そんなことを言うために呼び出したのだろうかと源蔵は首を傾げる。そこに千代が茶を持ってきて二人に差し出した。文吉は千代もそこに座るように命じながら続けた。
「実はワシは引退しようと思う。熊吉を失い、ワシにはもう金を稼ぐ意義など見出せなくなってしまった。熊吉を慕い、尼寺に入った几帳の粋なやり方に共感したのかもしれない。几帳はどこまでも几帳である。ワシも、紀文いさぎよしと言われたくなったのだ」
「は、はあ?」
それは二人からの声であった。この忙しい中、ブレーンがいなくなって貰っては困る。しかし、文吉の意志は固かった。
「源蔵よ。お前さんは紀伊国屋の屋号を引き継ぎ、二代目文左衛門として、これからも紀伊国屋をもり立てていって欲しい」
突然の申し出であった。巨万の富を譲るというのだ。文吉の意志は固い。これで廃業などといわれたら江戸の町はどうなる。紀伊国屋は、すでに江戸にはなくてはならない存在なのだ。
「まったく。いたずらが過ぎるはいえ、今日ほど度の過ぎたいたずらはございません」
「まあ、そう言うな」
源蔵はその場で三度断りを入れたが、文吉は一向に考えを改めようとしない。源蔵は仕方なしに、この申し出を受けたのだ。
それから幾日経ったであろう。文吉は屋敷の前に立っていた。もう黒紋付ではない。落ち着いた色の着物は、老人が好むような色合いであった。
たくさんの従業員たちに手を上げる。
「それじゃみんな達者でな。新しい紀文の親方の命令をよく聞いて、商売に励んでおくれ」
それぞれがみな、旦那、旦那と呼ぶ声を背に受けて、風呂敷包み一つ提げ、木箱を背中に一つ担いで、屋敷から離れていった。
家族はいなくなった。ミツを殺し、定吉を殺され、熊吉を目の前で失った。そして几帳は尼寺に入ってしまった。
この江戸にもはや未練など何もなくなった。
しかし、そこで足を止めて振り返る。
「お千代──」
振り返るとそこには当たり前のような顔をした千代が立っていた。同じく木箱を背中に背負い、風呂敷包みを一つ持った旅姿だった。
「どうした。どこにいく?」
それに千代は涙を浮かべる。
「──それは旦那のところですよ。店には暇を貰いました。私の行くところは旦那のところ。私の家は旦那がいるところなんです」
「それは──」
文吉は思い出す。千代に好きなものがいるという言葉を。
「……ワシにはもう金も屋敷もないんだぞ?」
「存じております」
「若くもないし、貧乏するぞ?」
「覚悟の上です」
「まったく。なにを好き好んでワシなんかに」
「旦那譲りですよ。好き好んで私なんかを拾って……。育てて──。たくさんたくさん、目をかけて下さいました」
文吉の顔がほころぶ。金を持っていれば自然と人が寄ってくる。しかし、今はそれを捨てた。世捨て人だ。それに千代はついてくるというのだ。
「父として、兄として、男として、大旦那を愛しています。生半可な気持ちじゃない。一生を添い遂げようと思っています」
文吉は、それを聞いて大空に向かって大笑した。千代の真剣な眼差しはそれでも変わらなかった。
「旦那」
「なんだ」
「これからどうするんです?」
「さてな。とりあえず紀州に帰って農業でもするさ。蜜柑や梅の栽培でもしようかな?」
「うふ。お供します」
「勝手にするといいさ」
二人の足は南に向いた。確かな足取りで進んでゆく──。
◇
その後──。
千代は屋敷にいた間にせっせせっせと貯めた金で大きな農地を買い二人で耕した。そして文吉の子どもを二人産んだのだ。それは男児と女児であった。小作人を使って農地を耕し、72歳まで生きた。
几帳は、尼寺に入って熊吉の弔いだけに生涯を費やした。慈悲の心をもって、困っている人を助け、最後は住職となり80歳まで生きた。
源蔵は、二代目紀文として事業を続けたが、幕府の体勢が変わった後、材木商を廃業。残りの人生を俳人として風流に生きた。
吉兵衛は、歌舞伎役者中村吉兵衛として活躍したが、息子の死をきっかけに幇間に戻り、吉原を盛り上げた。
文吉は、千代とともに紀州に住まい、小作人を雇って農業をした。仲睦まじくくらした。宝永四年に起きた宝永地震にあったが家族ともども生き延びたものの、46歳で死亡した。
家族に見守られて亡くなるその顔は穏やかなものであった。
◇
白い玉は、奥多摩山中に飲まれていた。熊吉を飲み込み、神の力を得たが、食あたりにあったようなものだと、地中で身を休めたのだ。
もう一度、一からやり直し。白い玉が熊吉の力を消し地上に這い上がるのに、それから三百年の月日を要することとなった。
「私は天使よ。ひとを幸せにするために生き延びなくてはならない。そしてひとのためにならない、あの寄生虫に天誅をくわえなくては……」
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