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第56話 神誕生
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几帳とつぶやいた熊吉の声に白い玉も気付いた。
『ぬぅ。この私の力に抗って声を出せるとは。さすが熊吉だ』
白い玉は、倒れている熊吉の左腕へと転がり、すすり取ってしまった。
熊吉はうめくことも出来ない。
『きちょう──。几帳太夫かい。この力の礼だ心置きなく死ねるようにしてやろう。安心おし。文吉のあの怒りは嘘だったのさ。今は吉原に文吉や源蔵が几帳の身請けに行っているよ。お前を驚かせるんだとさァー。お前は仕事を終えて帰ってこれば、几帳が三つ指ついてお前を出迎えたとこう言うわけさ。だがお前は文吉の言い付けを守らなかった。吉原には出掛け、仕事も途中でほっぽり投げてきた。今、私に食われることを恨むんじゃない。自業自得さね』
白い玉の言葉に熊吉は涙をこぼす。
文吉は考えてくれていた。遊女おミツに騙されたが、自分の未来を案じてくれていた。自分は文吉に何ができただろう。困らせるだけだった。足を引っ張るだけだった。
熊吉は、一緒に紀州で育ち、蜜柑や鮭を運んだこと。病で看病されたこと。共に買い食いしたこと、芝居をみたこと。吉原で遊んだこと──。それらを思い出していた。
「がぁぁぁああああーーーッ!!」
『な、なに!?』
熊吉は白い玉の神通力を破り、仰向けから腹這いへと身を翻した。そして、右腕だけを使って、廊下へと這い出す。
『な、なんて力なの? まあ、右腕を食ってしまえばいいか──』
白い玉は熊吉の右側へと転がった。
◇
「な、なに? 今の声」
「く、九万の旦那の声だ」
「屋敷の奥から聞こえたよォ」
千代に小笹、小菊の三人は震えながら台所を出て、声がしたほうへと進む。神殿のほうから唸るような声が聞こえる。這いずるような音も。
「や、やだ。神殿のほうからだよ!」
「ちょっとアンタ、見ておいで」
「え。イヤですよォ!」
主人である文吉に固く禁じられていた神殿への道である。誰も恐れて近づくことなど出来なかった。
とにかく、男が帰ってきたら様子を見て貰おうと、そういう話になり、ほの暗い廊下の先を見つめるしか出来なかった。
◇
紀伊国屋屋敷の前に、駕籠が二つ。一つ目から降りてきたのは文吉である。文吉は二つ目の駕籠に近付いて、その御簾を上げると、美しい几帳太夫が微笑んで足を下ろした。
「几帳や。これが今日からお前さんの屋敷だよ」
「まぁ、なんて広い!」
「几帳──。これからはなんと呼べばいいんだ? 本名はなんという?」
「いえ。本名はとうに捨てました。この几帳という名は、九万の旦那から頂戴した名前です。これからも几帳とい名前で生きて、几帳という名で死ぬだけです」
「そりゃいい心掛けだね。九万も喜ぶよ。さぁ、屋敷に上がっておくれ。九万を驚かすんだからね」
几帳はポッと赤くなって、文吉の後に続いた。文吉は屋敷の奥に向かって叫ぶ。
「おおい。帰ったよ。誰か、几帳に着物を着替えさせてやっておくれ」
そういうと、ばたばたと屋敷の奥から女中が三人。
「どうしたい。三人もいらないよ。なにをそんなに慌てているんだい。ああそうか。顔が見たいのかい。そら。これが希代の傾城、几帳太夫だよ」
「あ、あの。几帳です。みなさん、今日からよろしく──」
温度差が違う。女中三人は首を振った。
「あ、あの、違うんで」
「なにが違うんだよ」
「声、声、声、あの」
「落ち着きなさい。みっともないよ」
「し、神殿から九万の旦那の声が──」
途端に文吉の顔が青くなる。夢中で屋敷に駆け上がり、神殿のほうへと駆け出した。
◇
その頃、熊吉は右腕を失っていたが、両肩を上下に動かして、神殿から這いずり出ていた。
「ぶんきち……。きちょう……」
『ふっふっふ。巨大な生命力。うれしいよ。しかし、お前の名前は永久に落ち葉の下だ。誰も歴史に名前を残させない。最初からいないものになる。もともと私の一部ということになるんだ。みんなから忘れ去られるても別にいいだろう? 神となって生きるのだから。──さて。もう時間がないようだね。最後は一口で食ってしまおう』
白い玉は、熊吉の背中に乗ると、ズルズル。ズルズル──。
生々しく赤い肉と背骨が現れる。熊吉は苦痛に顔を歪めながらも最後の力を振り絞って身をよじり前に進んだ。
「熊吉!!」
神殿の廊下に差し掛かって文吉は叫ぶ。そこには、板間に転がってこちらに向かって微笑む熊吉の姿。それは一瞬で白い玉に吸われて消える。
「こ、この化け物めェェエエエーー!!」
文吉は白い玉へと怒りをあらわにして掴みかかったが、白い玉はするりと避ける。
『ふふん。文吉。そなたがどうしようと無駄だ。貧弱な人間め。私は熊吉を得て神となった。もはや、ここにいることも無用。さらばだ!』
白い玉は浮き上がって天井を突き抜ける。それは今までできなかった技。熊吉の生命を食らい、さらなる力を得たのだ。
その白い玉は、空中で奈良屋の屋敷を察知し、速度を上げて飛んでいった。
屋敷の中では文吉が慟哭する。熊吉の体を捜すも、髻一つ落ちていない。
文吉はそこに倒れ込んでただ泣きしおることしか出来ない。何ごとかと、几帳がそこにやって来て、文吉の背中をさする。
「紀文の大旦那。いかがしました? 九万の旦那は?」
「九万が……、熊吉が……」
これでは、らちがあかない。しばらく几帳は文吉を慰めていたがわけがわからない。
その時であった。大きな地鳴りが聞こえる。その瞬間、激しい揺れで立つこともままならない。文吉は几帳に抱えられたまま、その激しい揺れが治まることを待った。
『ぬぅ。この私の力に抗って声を出せるとは。さすが熊吉だ』
白い玉は、倒れている熊吉の左腕へと転がり、すすり取ってしまった。
熊吉はうめくことも出来ない。
『きちょう──。几帳太夫かい。この力の礼だ心置きなく死ねるようにしてやろう。安心おし。文吉のあの怒りは嘘だったのさ。今は吉原に文吉や源蔵が几帳の身請けに行っているよ。お前を驚かせるんだとさァー。お前は仕事を終えて帰ってこれば、几帳が三つ指ついてお前を出迎えたとこう言うわけさ。だがお前は文吉の言い付けを守らなかった。吉原には出掛け、仕事も途中でほっぽり投げてきた。今、私に食われることを恨むんじゃない。自業自得さね』
白い玉の言葉に熊吉は涙をこぼす。
文吉は考えてくれていた。遊女おミツに騙されたが、自分の未来を案じてくれていた。自分は文吉に何ができただろう。困らせるだけだった。足を引っ張るだけだった。
熊吉は、一緒に紀州で育ち、蜜柑や鮭を運んだこと。病で看病されたこと。共に買い食いしたこと、芝居をみたこと。吉原で遊んだこと──。それらを思い出していた。
「がぁぁぁああああーーーッ!!」
『な、なに!?』
熊吉は白い玉の神通力を破り、仰向けから腹這いへと身を翻した。そして、右腕だけを使って、廊下へと這い出す。
『な、なんて力なの? まあ、右腕を食ってしまえばいいか──』
白い玉は熊吉の右側へと転がった。
◇
「な、なに? 今の声」
「く、九万の旦那の声だ」
「屋敷の奥から聞こえたよォ」
千代に小笹、小菊の三人は震えながら台所を出て、声がしたほうへと進む。神殿のほうから唸るような声が聞こえる。這いずるような音も。
「や、やだ。神殿のほうからだよ!」
「ちょっとアンタ、見ておいで」
「え。イヤですよォ!」
主人である文吉に固く禁じられていた神殿への道である。誰も恐れて近づくことなど出来なかった。
とにかく、男が帰ってきたら様子を見て貰おうと、そういう話になり、ほの暗い廊下の先を見つめるしか出来なかった。
◇
紀伊国屋屋敷の前に、駕籠が二つ。一つ目から降りてきたのは文吉である。文吉は二つ目の駕籠に近付いて、その御簾を上げると、美しい几帳太夫が微笑んで足を下ろした。
「几帳や。これが今日からお前さんの屋敷だよ」
「まぁ、なんて広い!」
「几帳──。これからはなんと呼べばいいんだ? 本名はなんという?」
「いえ。本名はとうに捨てました。この几帳という名は、九万の旦那から頂戴した名前です。これからも几帳とい名前で生きて、几帳という名で死ぬだけです」
「そりゃいい心掛けだね。九万も喜ぶよ。さぁ、屋敷に上がっておくれ。九万を驚かすんだからね」
几帳はポッと赤くなって、文吉の後に続いた。文吉は屋敷の奥に向かって叫ぶ。
「おおい。帰ったよ。誰か、几帳に着物を着替えさせてやっておくれ」
そういうと、ばたばたと屋敷の奥から女中が三人。
「どうしたい。三人もいらないよ。なにをそんなに慌てているんだい。ああそうか。顔が見たいのかい。そら。これが希代の傾城、几帳太夫だよ」
「あ、あの。几帳です。みなさん、今日からよろしく──」
温度差が違う。女中三人は首を振った。
「あ、あの、違うんで」
「なにが違うんだよ」
「声、声、声、あの」
「落ち着きなさい。みっともないよ」
「し、神殿から九万の旦那の声が──」
途端に文吉の顔が青くなる。夢中で屋敷に駆け上がり、神殿のほうへと駆け出した。
◇
その頃、熊吉は右腕を失っていたが、両肩を上下に動かして、神殿から這いずり出ていた。
「ぶんきち……。きちょう……」
『ふっふっふ。巨大な生命力。うれしいよ。しかし、お前の名前は永久に落ち葉の下だ。誰も歴史に名前を残させない。最初からいないものになる。もともと私の一部ということになるんだ。みんなから忘れ去られるても別にいいだろう? 神となって生きるのだから。──さて。もう時間がないようだね。最後は一口で食ってしまおう』
白い玉は、熊吉の背中に乗ると、ズルズル。ズルズル──。
生々しく赤い肉と背骨が現れる。熊吉は苦痛に顔を歪めながらも最後の力を振り絞って身をよじり前に進んだ。
「熊吉!!」
神殿の廊下に差し掛かって文吉は叫ぶ。そこには、板間に転がってこちらに向かって微笑む熊吉の姿。それは一瞬で白い玉に吸われて消える。
「こ、この化け物めェェエエエーー!!」
文吉は白い玉へと怒りをあらわにして掴みかかったが、白い玉はするりと避ける。
『ふふん。文吉。そなたがどうしようと無駄だ。貧弱な人間め。私は熊吉を得て神となった。もはや、ここにいることも無用。さらばだ!』
白い玉は浮き上がって天井を突き抜ける。それは今までできなかった技。熊吉の生命を食らい、さらなる力を得たのだ。
その白い玉は、空中で奈良屋の屋敷を察知し、速度を上げて飛んでいった。
屋敷の中では文吉が慟哭する。熊吉の体を捜すも、髻一つ落ちていない。
文吉はそこに倒れ込んでただ泣きしおることしか出来ない。何ごとかと、几帳がそこにやって来て、文吉の背中をさする。
「紀文の大旦那。いかがしました? 九万の旦那は?」
「九万が……、熊吉が……」
これでは、らちがあかない。しばらく几帳は文吉を慰めていたがわけがわからない。
その時であった。大きな地鳴りが聞こえる。その瞬間、激しい揺れで立つこともままならない。文吉は几帳に抱えられたまま、その激しい揺れが治まることを待った。
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