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第55話 神殿
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文吉と源蔵が吉原に行った後、女中や下男、使用人たちは大忙しであった。買い出しや、本日の仕事は終わりだという業務連絡など、使いに出されたものが一人、また一人と屋敷を出て行く。
九万の旦那のお祝いごとということで、それぞれが意気揚々と出ていったのだ。
始めの頃は、それなりに人もいたし、留守居を預かる権介は、入り口を警護してた。
女中のお時は手代を二人従えて寝具の買い付けである。お清も丁稚を五人ほど連れて食材を買いにいった。千代や小笹、小菊などの女中は湯を沸かして料理の準備をしたが、急なことでネギがない、豆腐がない。少しの間ならと春菊がないと屋敷を開けてしまった。
中はガランとした屋敷であったが、外を守る権介は、辺りを警戒していた。
そんな時ほど、自分の嫌いなものが見えるものである。
権介は犬が嫌いだった。しかも生類憐れみの令の中である。そこら中に野犬が溢れている。食べ物屋などの店の前に来たりはする。紀伊国屋は材木商なので、野犬などは来たりはしないのだが、それでも気まぐれに辻を曲がる野犬がいた。
不思議なもので、恐れ逃げるものは却って追いかけられるものである。
権介は、野犬を恐れて蔵のほうに逃げた。野犬はしばらく追いかけたが、さっさと戻ってしまったのに気付かず、権介は、蔵の横で震えたままだった。
その頃、熊吉は寛永寺根本中堂に視察に来ていた。護衛の浪人に、少しでも道をずらせば帯を握られ、道に戻された。
「バカ! 少しだけ足が外れただけでィ!」
「左様ですかな? しっかり見張れと命じられております。これも我らの仕事です故」
「ああそうかい!」
そう言いながら熊吉は歯噛みした。隙を見計らって文吉の元に帰り、勘当されてでも几帳と一緒になりたいと言いたかったのだ。
熊吉は寺の石畳の上から足をずらす。途端に護衛に帯を掴まれる。
「バカ! 雪隠だ!」
「ではお供致します」
「子どもじゃねェやな!」
「目を離したら、またどこかに消えるかもしれません。これも役目。許されよ」
「ああ、そうかい!」
文吉は横目で護衛の浪人たちを睨む。目に浮かぶのは几帳の顔。耳に聞こえるのは几帳の声。こうしてはいれなかった。
熊吉は、そっと狭い通路に入る。人、一人しか入れないようなところである。護衛たちは前に回ろうとも熊吉の大きな体が邪魔をしている。
充分に引きつけたところで、熊吉は振り返って先頭のものを押し倒すと、後ろを追う二人目と三人目も巻き込まれて倒れる。かろうじて四人目が三人目を受け止めて足を踏ん張ったが、熊吉は向きを変えて走り出した。
「な、なにをやってる! 旦那を追え!」
「く、くそ! 手を貸してくれ!」
「ほれ、しっかりしろ!」
護衛たちは、起き上がって走って追うものの、熊吉はどこかに身を隠してしまったようで姿を失ってしまった。
護衛たちは、辺りを捜したが見つからない。
「きっと吉原に逃げたに違いない」
「店の中に隠れられては見つからなくなってしまう」
「早々に追え!」
と、吉原を指して駆けていった。それを認めると、立てかけてあった材木の影から熊吉が現れた。
「吉原に行ったか。じゃぁこちらは文吉だ。屋敷に戻ってもう一度説得しなければなるめェ」
熊吉は近道をして、紀伊国屋屋敷へと急いだ。
熊吉が屋敷へ着くと、いつも賑やかな店先が閉じられている上に誰もいない。明かりはあるものの、人の姿も人の声もなかった。
それもそのはず。主なものは几帳の身請け。権介は蔵の横。女中たちは細かい買い出し。小僧たちは使いや買い食い。それはほんのわずかな時間であったが、この広い紀伊国屋屋敷は無人となっていた。
「おい。誰もいねェのか!? お時! お清!」
叫んでも返事はない。
しかし、熊吉の耳にだけ届く声があった。
『熊吉か。こっちだ』
「なんだ。義兄か。誰もいないのはどういうわけだ」
『お前と二人で話がしたいと思ってな。みんな使いに出したのよ』
「そうか」
熊吉は屋敷へと上がる。そして文吉の声のする方へ。
ほの暗い屋敷の中を熊吉は歩いて行く。文吉の声は熊吉を誘った。熊吉は普段来ない神殿への廊下を曲がった。
「なんだ、神殿か?」
『そうだ。ここなら二人きりで話せるからな』
「いつも入るなと言っているのに、珍しいな」
『なあに。たった一人の兄弟に見せてやりたくなったのよ』
先程まで憤慨して声を荒げていた文吉。それが優しい口調で自分を誘うのだ。熊吉はいつもの兄弟に戻れたと嬉しくなった。
しかし、冷静な判断ではなかった。廊下に三枚の衝立があり、侵入者を拒んでいる。そして廊下にはうっすら埃が積もっており、熊吉の足跡しかなかった。
熊吉はそれに気付かなかったのだ。
その頃、店先にたどり着いた千代は足を止めた。権介が店の前に立っていない。
「権介さァーん?」
「へ、へい。ここでさァ」
蔵のほうから声がするので行ってみると、蔵の脇に権介が隠れている。権介は震えながらたずねた。
「い、犬は?」
「犬? 犬なんて、どこにもいないねェ」
「いない? はァー。助かった。一時はどうなることかと」
「なんだい。犬に追われたのかい。ダメだよ。店に誰もいないじゃないかァ」
丁度その時、小笹も小菊も桶に豆腐、脇に春菊を抱えて戻ってきた。
「あんたたち、なにを遊んでるの。ホラ、早速仕事に戻りな」
「あ、はーい」
そういって、店の中に戻ったのである。
熊吉は神殿への廊下を進んで、襖に手をかけた。
「義兄。入るぞ」
『ああ。待っていたぞ』
熊吉は襖を開けて、神殿に足を一歩踏み入れる。
「ん? 誰もいない──」
荘厳な神棚が飾られて、畳の上にはなにもない。しかし、神棚の上に僅かに光る白い玉。
『待っていたよ。熊吉』
「は! 義兄の声! あやかしか!」
熊吉はきびすを返して走ろうとするが、足が動かない。声も出ない。白い玉の十年間溜め込んだ神通力である。熊吉はその場で固まったままだった。
『ふふふふ。動けまい。ここまでどれほどの年月を我慢したか。ようやく貴様を喰える時が来た』
熊吉は必死に抗おうとするものの、僅かに指先が動くだけだ。白い玉は、熊吉の元に舞い降りると、その左足に寄る。
ズ。ズズズ。ズルズル。
ソバをすするような音──。熊吉の左足はなくなって、バランスを失って倒れたが、白い玉の神通力で音もたたない。
熊吉は仰向けに倒れて、抵抗も出来なかった。
『ふふふふ。動けまい。声も出まい。お前は今から私になるのだよ。お前の有り余る生命の力は私を神とするだろう。今まで邪魔をしてくれた礼も兼ねて、足からゆっくり食ってやろう。激痛に苦しみながら死にな!』
熊吉には足を失った激痛があったが、声を上げることも許されなかった。
続いて右足である。
ズ。ズズズ。ズルズル。
右足をすすられる度に熊吉には激痛が走る。だが血も出ない。ゆっくりとゆっくりと殺される。
『おお! なんという力! これだけで征服者になったようだ!』
白い玉は、歓喜の声を上げる。熊吉は苦痛にこらえて天井を見上げていた。
「きちょう……」
熊吉から僅かに漏れる声。それは愛するものを呼ぶ声であった。
九万の旦那のお祝いごとということで、それぞれが意気揚々と出ていったのだ。
始めの頃は、それなりに人もいたし、留守居を預かる権介は、入り口を警護してた。
女中のお時は手代を二人従えて寝具の買い付けである。お清も丁稚を五人ほど連れて食材を買いにいった。千代や小笹、小菊などの女中は湯を沸かして料理の準備をしたが、急なことでネギがない、豆腐がない。少しの間ならと春菊がないと屋敷を開けてしまった。
中はガランとした屋敷であったが、外を守る権介は、辺りを警戒していた。
そんな時ほど、自分の嫌いなものが見えるものである。
権介は犬が嫌いだった。しかも生類憐れみの令の中である。そこら中に野犬が溢れている。食べ物屋などの店の前に来たりはする。紀伊国屋は材木商なので、野犬などは来たりはしないのだが、それでも気まぐれに辻を曲がる野犬がいた。
不思議なもので、恐れ逃げるものは却って追いかけられるものである。
権介は、野犬を恐れて蔵のほうに逃げた。野犬はしばらく追いかけたが、さっさと戻ってしまったのに気付かず、権介は、蔵の横で震えたままだった。
その頃、熊吉は寛永寺根本中堂に視察に来ていた。護衛の浪人に、少しでも道をずらせば帯を握られ、道に戻された。
「バカ! 少しだけ足が外れただけでィ!」
「左様ですかな? しっかり見張れと命じられております。これも我らの仕事です故」
「ああそうかい!」
そう言いながら熊吉は歯噛みした。隙を見計らって文吉の元に帰り、勘当されてでも几帳と一緒になりたいと言いたかったのだ。
熊吉は寺の石畳の上から足をずらす。途端に護衛に帯を掴まれる。
「バカ! 雪隠だ!」
「ではお供致します」
「子どもじゃねェやな!」
「目を離したら、またどこかに消えるかもしれません。これも役目。許されよ」
「ああ、そうかい!」
文吉は横目で護衛の浪人たちを睨む。目に浮かぶのは几帳の顔。耳に聞こえるのは几帳の声。こうしてはいれなかった。
熊吉は、そっと狭い通路に入る。人、一人しか入れないようなところである。護衛たちは前に回ろうとも熊吉の大きな体が邪魔をしている。
充分に引きつけたところで、熊吉は振り返って先頭のものを押し倒すと、後ろを追う二人目と三人目も巻き込まれて倒れる。かろうじて四人目が三人目を受け止めて足を踏ん張ったが、熊吉は向きを変えて走り出した。
「な、なにをやってる! 旦那を追え!」
「く、くそ! 手を貸してくれ!」
「ほれ、しっかりしろ!」
護衛たちは、起き上がって走って追うものの、熊吉はどこかに身を隠してしまったようで姿を失ってしまった。
護衛たちは、辺りを捜したが見つからない。
「きっと吉原に逃げたに違いない」
「店の中に隠れられては見つからなくなってしまう」
「早々に追え!」
と、吉原を指して駆けていった。それを認めると、立てかけてあった材木の影から熊吉が現れた。
「吉原に行ったか。じゃぁこちらは文吉だ。屋敷に戻ってもう一度説得しなければなるめェ」
熊吉は近道をして、紀伊国屋屋敷へと急いだ。
熊吉が屋敷へ着くと、いつも賑やかな店先が閉じられている上に誰もいない。明かりはあるものの、人の姿も人の声もなかった。
それもそのはず。主なものは几帳の身請け。権介は蔵の横。女中たちは細かい買い出し。小僧たちは使いや買い食い。それはほんのわずかな時間であったが、この広い紀伊国屋屋敷は無人となっていた。
「おい。誰もいねェのか!? お時! お清!」
叫んでも返事はない。
しかし、熊吉の耳にだけ届く声があった。
『熊吉か。こっちだ』
「なんだ。義兄か。誰もいないのはどういうわけだ」
『お前と二人で話がしたいと思ってな。みんな使いに出したのよ』
「そうか」
熊吉は屋敷へと上がる。そして文吉の声のする方へ。
ほの暗い屋敷の中を熊吉は歩いて行く。文吉の声は熊吉を誘った。熊吉は普段来ない神殿への廊下を曲がった。
「なんだ、神殿か?」
『そうだ。ここなら二人きりで話せるからな』
「いつも入るなと言っているのに、珍しいな」
『なあに。たった一人の兄弟に見せてやりたくなったのよ』
先程まで憤慨して声を荒げていた文吉。それが優しい口調で自分を誘うのだ。熊吉はいつもの兄弟に戻れたと嬉しくなった。
しかし、冷静な判断ではなかった。廊下に三枚の衝立があり、侵入者を拒んでいる。そして廊下にはうっすら埃が積もっており、熊吉の足跡しかなかった。
熊吉はそれに気付かなかったのだ。
その頃、店先にたどり着いた千代は足を止めた。権介が店の前に立っていない。
「権介さァーん?」
「へ、へい。ここでさァ」
蔵のほうから声がするので行ってみると、蔵の脇に権介が隠れている。権介は震えながらたずねた。
「い、犬は?」
「犬? 犬なんて、どこにもいないねェ」
「いない? はァー。助かった。一時はどうなることかと」
「なんだい。犬に追われたのかい。ダメだよ。店に誰もいないじゃないかァ」
丁度その時、小笹も小菊も桶に豆腐、脇に春菊を抱えて戻ってきた。
「あんたたち、なにを遊んでるの。ホラ、早速仕事に戻りな」
「あ、はーい」
そういって、店の中に戻ったのである。
熊吉は神殿への廊下を進んで、襖に手をかけた。
「義兄。入るぞ」
『ああ。待っていたぞ』
熊吉は襖を開けて、神殿に足を一歩踏み入れる。
「ん? 誰もいない──」
荘厳な神棚が飾られて、畳の上にはなにもない。しかし、神棚の上に僅かに光る白い玉。
『待っていたよ。熊吉』
「は! 義兄の声! あやかしか!」
熊吉はきびすを返して走ろうとするが、足が動かない。声も出ない。白い玉の十年間溜め込んだ神通力である。熊吉はその場で固まったままだった。
『ふふふふ。動けまい。ここまでどれほどの年月を我慢したか。ようやく貴様を喰える時が来た』
熊吉は必死に抗おうとするものの、僅かに指先が動くだけだ。白い玉は、熊吉の元に舞い降りると、その左足に寄る。
ズ。ズズズ。ズルズル。
ソバをすするような音──。熊吉の左足はなくなって、バランスを失って倒れたが、白い玉の神通力で音もたたない。
熊吉は仰向けに倒れて、抵抗も出来なかった。
『ふふふふ。動けまい。声も出まい。お前は今から私になるのだよ。お前の有り余る生命の力は私を神とするだろう。今まで邪魔をしてくれた礼も兼ねて、足からゆっくり食ってやろう。激痛に苦しみながら死にな!』
熊吉には足を失った激痛があったが、声を上げることも許されなかった。
続いて右足である。
ズ。ズズズ。ズルズル。
右足をすすられる度に熊吉には激痛が走る。だが血も出ない。ゆっくりとゆっくりと殺される。
『おお! なんという力! これだけで征服者になったようだ!』
白い玉は、歓喜の声を上げる。熊吉は苦痛にこらえて天井を見上げていた。
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