紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範

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第54話 几帳太夫身請

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 文吉は源蔵の前にしゃがみ込んで、その肩を叩く。

「大旦那! どうか!」
「──源蔵すら騙せるならワシの演技も余程うまいのであろう」

「はい?」

 驚く源蔵に、文吉は片目をつぶる。源蔵にはまだ意味が分からない。文吉は言葉を続けた。

「そんなもの、ワシの方がよっぽど九万兵衛の幸せを祈ってるさ。九万のヤツを驚かしてやろうと思ったのよ。九万が仕事から帰ってきてみろ。お帰りなさいというお千代の横に、同じくお帰りなさいという几帳がいるんだ。あやつ、驚いて泡を吹くぞ! よし、源蔵。お前も供をせよ! 吉原の三浦屋に几帳太夫の身請けに参る!」

 源蔵の顔にポッと赤みが差した。これはいつもの文吉のイタズラだと分かったのだ。源蔵は微笑み、文吉が襖を開けるとそこには千代が控えていた。

「なんだ、お千代。吉原に行くが今日だけは邪魔をするねィ」

 千代の叱責を恐れて語尾が小さくなる文吉に千代は笑いかける。

「いいえ。そういうことなら、大賛成です! さっそくお料理の準備をしなくっちゃ!」

 と、手を叩く。千代がそう来るなら文吉も嬉しくなる。

「そうか、そうか。使いを出して吉兵衛も呼びな。お料理の買い出しも必要だね。今日は店をやめにしますよ。酒や肴を買ってきなさい。新しい布団もいるね。初夜だからな。留守番だけ置いて、さっそく準備にかかりなさい。身請けの金を引くのに人もいるね。力のあるヤツは荷車を引いてついてきなさい」
「大旦那さま、カッコいい!」

「お。そうかい?」

 千代が褒めるのに、文吉は照れて頭を掻いた。

 さて、金蔵から千両箱五つ。すなわち五千両。今で言えば五億円の金額を荷車に付けて、一人が引いて二人が押す。
 先頭に文吉が歩き、その少し後ろに大番頭である源蔵が進む。
 希代の紀伊国屋のブレーンが大金を引いて吉原へと向かうのだ。江戸の町が騒然となった。

 そこに、久しぶりの吉兵衛が合流する。気の置けない仲間だ。文吉から分けを聞くと、吉兵衛は大変な喜びようであった。

 大門をくぐって、三浦屋へと入る。三浦屋の郭主は、改まった文吉の出で立ちに、ただ、ただ驚きひれ伏した。

「主人。なんでも九万兵衛が几帳太夫を身請けしたいとのことだが」

 声が重い。これは何かある。紀伊国屋文左衛門の遊女への思いは有名である。そして九万兵衛がいないと来れば、これは大変お怒りなのであろうと、三浦屋の郭主は板間にひれ伏した。

「どうかお許しを。手前のほうでは、九万兵衛さまたっての願いで几帳の身請けの話をお受けしましたが、紀文の大旦那のお出ましとあらば、話を引っ込めることもやぶさかではございません」
「うむ。几帳太夫をこれへ呼べ」

「は、はい」

 主人は立ち上がって自ら几帳を呼びにいった。九万兵衛ではなく紀文が来たということで、几帳のほうでも察した。身請けは適わないのだと──。

 座敷では太夫にひれ伏さなくてはならないが、几帳は板間で文吉へとひれ伏す。文吉は顔を上げるようにと命じた。

「几帳太夫。先ほど、九万のヤツがアタシにこう言いましたよ。几帳を身請けしたいとね。よく言いくるめましたね。アタシは騙されませんよ。あなたは頭のいい女だ。九万をたらし込んでそんなふうに言わせたのでしょう」
「そ、そんな! 違います! あちきは九万の旦那を愛しております!」

「……そうは言ってもね、アレはもう金を一文も持っていませんよ。そんなこというやつはもう兄弟でもなんでもないと、身一つで追い出しました」
「あちきは……。あちきは九万の旦那と一緒ならば橋の下でもかまいません!」

 そういってすがる姿に文吉は目頭が熱くなり、扇で顔を隠した。

 本物だ──。
 几帳太夫の愛はミツとは違う。熊吉を追いかけて地の果てまでいく覚悟だ。しかし、文吉はもう一つ仕掛けた。

「九万兵衛は寺に入れました。もう寺へと旅立ちましたよ。ここに来ることもないでしょう」
「そんな……」

 几帳は泣き出してそこに突っ伏したが、それは僅かな時間。彼女は胸に手を入れると忍ばせていた匕首を引き抜いて、首に突き立てようとする!
 文吉はすんででそれを押さえた。

「ふー。危ない、危ない」
「死なせてください! 九万の旦那の元に嫁げずに、年が明ければ奈良屋にいかなくてはなりません! もはや生きる希望などありません! どうか、後生ですから……」

 暴れる几帳から吉兵衛は匕首を取り上げた。文吉は几帳の両手を押さえたまま微笑みかける。

「あんたの覚悟を見せて貰いましたよ」
「え?」

「誠に九万兵衛に相応しい嫁ですよ」

 状況が分からない几帳は、髪を振り乱し、涙で顔はぐしょぐしょだ。分けの分からないまま、動けなくなっていた。

「九万のために紀伊国屋の嫁に来て下さい。屋敷に帰ってきたら几帳が出迎える。あいつ、驚いてひっくり返りますよ」
「ま、まあ!」

「さぁ、主人。几帳はこの紀伊国屋が身請けしますよ。残念ながら九万からいくらか聞いてなかったんだ。これで足りるかい?」

 文吉が手を叩くと、表で控えていた力自慢の店のものが三人。二人が二千両。一人が千両抱えて、主人の前に音を立てて五千両を置いた。
 これには郭主も几帳も目を丸くした。
 吉兵衛は表に飛び出して吉原に響くように声を張り上げた。

「さァさァ! 紀伊国屋が几帳太夫を五千両で身請けたよ! 大大尽のお通りだ! みんな道をあけな!」

 ワァァ! ワァァ! という歓声である。几帳は自分についていた二人の禿に抱き付いた。禿たちも几帳に抱き返す。

「姐さん!」
小紅こべに小朱こあか。あんたたち、元気でね。病気には気を付けるんだよ。これ、持っていきな」

 几帳は、今まで使っていた化粧道具や櫛、鏡を渡し、懐から三両ずつ出した。名残は尽きないが、いかねばならない。

 几帳は文吉の元へと向かう。吉原の町はワァァ! ワァァ! との歓声である。文吉のお供をしていた者たちは、命じられて、枡に入った金を大衆に向かって撒いた。待ってましたとばかり人々はそれに飛び付いた。

 大門を出ると、几帳は大衆に向かって白くて細い手を上げた。そして、三方に向かって、ペコリ、ペコリと頭を下げ、文吉が用意した駕籠へと乗った。

 向かってゆく。
 几帳太夫を乗せた駕籠が紀伊国屋の屋敷を目指して向かってゆく──。
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