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第50話 願い

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 奈良茂は屋敷に着くと、自室へと駆ける。つづらの中から取りだしたのは手のひら大の黒い箱であった。
 それが久しぶりに淡く発光している。

『願い事を言ってください』

 思えば、これは自分の昔の小さい家の中に勝手にあった。その頃、奈良茂は車を引く車夫の息子で、父の生業を引き継いで車夫をしていた。その日その日の稼ぎに一喜一憂するだけであった。
 しかし、いつもはないそれを見つけた。見たことのないそれは、表面に文字を表してくる。願い事を叶える、と。

 自分にも分かる簡単な漢字とひらがなだけの文章。
 だったら金持ちになりたいと伝えた。江戸一番の金持ちになりたいと。

 最初は、聞いたこともない不思議な音がなった。三味線とも笛ともつかぬ音に驚いた。箱を見ると『叶えられません』の文字。
 箱曰く、自分の持っている対価では大した額を出すことは出来ないとのことだった。
 しかし、儲けさせることは出来ると。それは簡単である。その代わり、死なない程度の内臓腑を抜くとのことだった。

 その文字にゾッとした。だが黒い箱が文字を続ける。そこには、臓腑を抜かれた本人は痛くも痒くもなく、普通の生活ができるように処置をするとのことだ。

 考えた。死なない程度の臓腑を抜く。それは痛くも痒くもない。とはいえ恐ろしい話だ。
 それに質問した。そしてなぜそんなものを欲しがるのかと。そしてそうされた自分はどのくらい生きれるのかと。

 箱は答える。その抜いた臓腑の力で願いを叶える力を得るのだと。そして臓腑を抜いたとて酒や暴飲暴食、男女の交わりを控えれば二十年と少し生きられるとのことだ。

 それなら寿命と何ら変わりない。その時は二十も後半だった。もはや迷うことはない。黒い箱と契約を交わすと、果たして入札もしていない、日光東照宮改築の入札が通ったとのことだ。
 そこで四十万両という大金を得ることが出来たのだ。

 黒い箱の力は本物だと確信した。これはよいものを得たと喜んだ。

 だがそれ以来、他の願い事をしても叶えられないという文字が続いた。おそらく四十万両の願いで抜いた臓腑が多すぎて、それ以上の願いを叶えられなくなったのであろう。
 その文字に従い、いつしか願い事をしなくなったが、ここで再出馬を願った。叶えられなくて元々である。

「箱さま。お力を持ちまして、紀伊国屋九万兵衛を殺して欲しいです」

 たちまち、トゥンというなんの楽器かも分からない音。まさに警告音である。

『叶えられません』

 やはり。奈良茂は落胆した。先の金持ちの願いで対価をほぼ使ってしまったのだとの思いを再確認した。奈良茂は丁重に黒い箱をつづらの中に戻そうとすると、箱は僅かに点滅する。

『紀伊国屋九万兵衛は、本年中に死ぬでしょう。その際、あなたに災難があります。私に身を守れと命じてください』

 奈良茂は息を飲んだ。

 紀九万が死ぬ。
 紀九万が死ぬ。

 ほっといても紀九万は死ぬ。

 奈良茂は、手を上げて喜んだ。これで恋のライバルは消える。あとは寂しくなった几帳を身請けしてしまえばいい。

「それはいい。しかし災難とはなんです。身を守れと言えばいいのですか?」

『左様でございます。代償に両足の小指で叶えましょう』

「な、なに! 足の小指ですと?」

『その通り。紀伊国屋九万兵衛からの受難はあなたを殺すでしょう。こん日、私に祈らねば本年中にあなたも死にます』

 なんと恐ろしい予言だろう。前から不安を煽るようなことを言うので見ないようにしていたが、今日のこれは最たるものだ。だが黒い箱の言うことが本当ならば死にたくはない。

『それに、私が足の指をとったとて、痛くもかゆくもないように処置します。それは前回でも証明されているはず』

 確かに。黒い箱のいうとおりだ。痛くもかゆくもない。人前に出る際には足袋でも履けば問題はなかろう。

「分かりました。ではそれで叶えてくだされ」

『叶 え ら れ ま し た』

 黒い箱から白い光の線が奈良茂へと伸びる。それが終わると続いて赤い光の線が奈良茂へ。都合二色の光線が浴びせられた形だ。
 奈良茂は自分の足へと視線を落とすと、バランスが取れたように両足の小指が消えていた。薬指からつるんとなっているのだ。もともとそうだったように。
 奈良茂は微笑む。

「これで紀九万だけが死ぬのだ。もう几帳はワシだけのものだ」

 奈良茂は、黒い箱をつづらにしまって、一人で声をもらして笑うのだった。





 それから数日が経って奈良茂は三浦屋に訪れたが、またも几帳との逢瀬を断られた。
 腹が立って出口へと向かったが、そこで足を止めた。二階からまたもや几帳と紀九万の睦言が聞こえてくるのだ。

 奈良茂はきびすを返して、三浦屋の郭主に、直談判した。

「主人。こうなったらワシは几帳を身請けする。そうすればこんなことを毎回しなくてもいいからな」

 几帳に惚れさせてからそうしようと思っていたがもはやガマンの限界であった。奈良茂がそういうと、尻尾を振る犬のように三浦屋の郭主はもみ手を始めた。

「へぇ。手前のほうでも商売ですから、几帳の身請け。誠に結構な話でございます。しかし、奈良茂の親分さんもご存じの通り、日の本一の傾城でして、太夫に会いたい。十両出しても一目みたい。と申す方々がたくさんおります」
「そうか。いくらだ。太夫の相場は五百両と聞いておる」

「ぶるぶるぶる。まさか。几帳のお得意様は多いですし、懇意にしております、紀の字のお客様は一晩で五百出したこともございます」

 それは紀九万の名前であった。悔しくてぶっ倒れそうだ。

「ならば千両では?」
「千両? ご冗談がお上手で」

「なに、まだ足りんのか!?」

 足元を見る郭主にも腹が立って仕方がない。奈良茂は郭主の襟首を持って引き寄せた。

「……ここだけの話、紀九万はもう長くはない。もって今年中だ。紀九万が死んだら、几帳への寵愛などなくなるのだぞ。その時、やはり五百両で売っておけば良かったといっても後の祭りだ!」

 奈良茂は郭主の襟首を突き放した。よろめく郭主。よたつきながら奈良茂を睨む。

「では、諦めなされ。他にも几帳を欲しいというかたがおられましたらそちらにお譲り致します」
「くっ」

 奈良茂はギリギリと歯噛みをして出ていった。
 そして考える。もうすぐ紀九万は死ぬ。几帳は今にも欲しいが、紀九万が死ねば几帳の値も下がる。そこから交渉しても遅くはないだろうと思ったのだ。
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