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第48話 奈良茂の恋
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捕らえられた角行が、取り調べを受けることはなかった。奈良屋茂左衛門に累が及ぶことを畏れ、調べの前に舌をかみ切ったのである。
一合もあわせられなかった暗殺者であったが、そこだけは潔かった。
さて、紀伊国屋の屋敷では笑いが耐えなかった。襲われたのに己の力で敵を打ち負かしたのだ。自分たちの主人はなんと豪傑であろうと、使用人たちは自慢に思ったし、取引先も頼もしいと次から次へと駆け込んできた。
文吉も、当の熊吉を呼んで話を聞いて笑ったものである。
「はっはっは。まさか狙われて相手を打ち据えてしまうとは流石は熊吉だ」
「なんのなんの。だが文吉には適わねェ」
「そんなことはない」
文吉はキセルを取ってタバコを吸い始める。そこへ千代がお茶を持ってきて、二人に提供した。そして熊吉を睨みつける。
「……なにも自慢になりませんよ。吉原行って朝帰りをして襲われたら。生きているからこそ讃えられましたが、死んだらよそ様の笑いものですよゥ」
何者も畏れない、鋭く刺す眼差しが部屋の空気を凍り付かせる。これには熊吉も唸った。
「う」
「なにが“う”ですか。当分吉原には行かないで下さいよ!」
そういって襖を閉めて行ってしまった。目を見開いて呆然とする文吉と熊吉。
「な、なんだ。俺たちにはいないが、まるで母ちゃんみたいだな」
「そう思うだろ? ワシなんて最近熊吉がいないからお千代と一緒に飯を食うのだが、楽しいときもあるが、注意が細かいぞ」
「そうか。だったら今日一緒に吉原に行かねェか?」
そういう熊吉の言葉に詰まる文吉。腕を組んでしばらく考え込んでから口を開いた。
「んー……。まぁそれもいいが、行ってもお前みたいに馴染みはいないからなァ」
「なんだ。天下の芳野太夫がいるじゃねェか?」
「芳野ねェ……。たしかにいい女ですよ。よく気が付くし。男を立てるし。割り切り上手ってのかねェ……」
「いいじゃねぇか。幇間も芸妓もたんと呼んでドンチャン騒ぎだ。カッポレを五周もすりゃ楽しくなってくるぜ」
「そうさなァ、じゃァ行くか!」
といったところで、襖が勢いよく開いて、そこにはすまし顔で正座した千代。
「お出掛けですか──?」
「ん? うん。まァ」
「そうですか」
先ほどと同じ、部屋を凍らせる態度。思わず二人とも黙ってしまったが自分はこの家の大黒柱である。ここで怯んではいけない。文吉は立ち上がって千代に凄んだ。
「あのなァ! ワシらがどこで遊ぼうとワシらの勝手──……」
「本日は、時候違いに猪の肉が手に入りましたので、葱沢山を味噌で煮て出そうと思いましたが、使用人だけで食べることにします」
文吉は言葉を止めた。熊吉も喉を鳴らす。臭みは多いが昔からの二人の大好物だったのだ。
「猪かァ」
「そら旨いよなァ……」
意気を削がれた文吉はまた座り直す。そして声音を変えて千代に話し掛けた。
「お千代や。今日はやめておくよ」
「そうですか。二貫目(約七キロ)ありますので楽しみにしていて下さい」
そういって襖をゆっくりと閉める。二人ともキセルを取ってタバコを吸い出した。
「こりゃ楽しみだ。几帳にも食わせてやりてぇ」
「ご執心だねェ。お前さんも。お千代の飯は旨いんだ。これを食ったら夜、几帳のところが遠ざかるぞ」
「おい兄貴。いやにお千代を褒めるねェ。もしも、お千代が兄貴の嫁になりたいなんていったらどうする?」
熊吉の揺さぶりである。文吉は少し顔を赤くしたが、すぐに寂しそうな顔をした。
「お千代も大人になったが、あれはワシの可愛い娘だ」
「だから、例えじゃねぇか。もしだよ。もしもの話さ」
文吉はキセルを吸って煙を吐き出す。その間は暫しの沈黙。
「──ワシは女は信じられない。きっと金目当てだと思うだろうな」
「そ、そうかい……」
熊吉はそれ以上、千代の話を出来なかった。
さて、こちらは暗殺の失敗した奈良屋茂左衛門である。角行のヘマを聞いて歯噛みして悔しがった。
「くそう! アイツめ失敗しおって!」
足を慣らして悔しがるものの、どうにもならない。ましてや熊吉が想像以上に豪傑だということが分かった。
「これでは、どうにもならん。泣き寝入りではないか」
キセルを出してタバコを吸い始め、なにか名案はないかと考えた。しかし名案など出るはずもない。
熊吉への憎しみと、几帳への恋しさが募り、いつしか吉原の大門をくぐっていた。そしてそのまま、三浦屋へ。
思えばまだ一度目の逢瀬である。床入りするまでにあと二回会わなくてはならない。
三度会って始めて熊吉と同じ土俵に立てると、三浦屋の提灯の下をくぐった。
「おお、これは奈良屋の旦那!」
「主人。今日は几帳と遊べるかい」
「さてただ今、部屋を見に行かせましょう」
一度失敗している三浦屋の郭主である。そこは慎重にチェックしなくては、また危ないことになりかねない。
部屋を見に行かせると、几帳は禿たちに言葉を教えている最中で手が空いているとのことだった。
「大丈夫です。お遊びになりますか?」
「無論だ」
といった後で、少しまごつく。そして、郭主の耳元でささやいた。
「几帳に惚れた。どうすれば彼女の気を惹ける?」
唐突で直球な質問であったが、郭主としてはしめたものである。
「そうですな。思い切り座敷に呼んで盛大にドンチャンなさいませ。それから粋な贈り物なんてよろしいですな。紀文の大旦那みたいな遊びは遊女はたいてい好きですな」
「なるほどそうかい。それじゃここは紀文と同じように遊ぼう。あちらはどんな風に遊ぶんだ?」
「へぇ。紀文の旦那は芸妓を五人ばかり呼んで、幇間も一人、二人呼びますな」
「ではそれでいこう。いくらだ」
「二十五両です」
「高いな。もっと安くならんか?」
それをポカンとした顔で見上げる郭主。奈良茂は慌てて取り繕った。
「じょ、冗談だ。紀文に出来てワシに出来ぬことはない」
「もっとも、紀九万の親分ともなりますと、几帳が嫉妬するといって、誰も呼ばずに几帳だけに三十両お出しになって貸し切り致します」
さすがは三浦屋の郭主。商売人だ。奈良屋とて金を持っている。そこに恋のライバルのやり方を伝えると、もっと出すだろうと籾手をしてきた。
「な、なに、そんなに?」
「ええ。几帳づきの禿たちに出す心づけも他の方と段違いだとか。禿たちも紀九万の親分が来るのを待っておりますからなァ」
「ほ、ほう。20文(500円)くらいか?」
「まさか。二分(25000円)でございます」
「そ、そんなにか? 二分金を?」
「左様でございます。奈良茂の親分。これは好機ですよ。紀九万の親分よりもポーンとご祝儀をはずんでご覧なさい。几帳の覚えも良くなり、あちきは主様が好きでありんすとこうなること請け合いでございますよ!」
「お、おう。今度からそうする」
「今度……。なにを仰います。紀九万の親分が来たら几帳はそちらを優先しますよ。本日の機会をなくしてはいけません」
「しかし待ち合わせがだな──」
これは至極当然である。一口に百両といっても、今で言う2.5kgほどある。先日の奈良茂の八十両だって持っているのは大変だ。熊吉のように、片方の袂に二百両、片方の袂に二百両、懐に二百両と金銀の入った巾着袋などもっているほうが不思議である。およそ20kgの負荷を毎日抱えているようなものだ。
だから奈良茂のその言葉に三浦屋の郭主はポンと手を打つ。
「あ、左様ですか。だったらこうしましょう。本日の支払いは付き馬を同行させますんで、明日でもようござんす。今日の持ち合わせで、芸妓や幇間、禿の祝儀をはずんでください。それだったら大盤振る舞いできるでございましょう」
付き馬とは集金の男である。金を持たずに遊びに来るものもいるので、こうして家までついていって回収する役であった。
郭主にそう言われて、いいえと言えるわけがない。奈良茂はくっと息を飲んだ。
「持ち合わせがないのはたまたまだ。本当はそんな遊びをするつもりだったのだ」
「ええ。当然分かっております」
「で、では座敷へ通せ」
「はい。では奈良茂の旦那をお座敷にご案内!」
郭主の声に係の牛太郎がやって来て、奈良茂を歓待しつつ座敷へと案内した。
一合もあわせられなかった暗殺者であったが、そこだけは潔かった。
さて、紀伊国屋の屋敷では笑いが耐えなかった。襲われたのに己の力で敵を打ち負かしたのだ。自分たちの主人はなんと豪傑であろうと、使用人たちは自慢に思ったし、取引先も頼もしいと次から次へと駆け込んできた。
文吉も、当の熊吉を呼んで話を聞いて笑ったものである。
「はっはっは。まさか狙われて相手を打ち据えてしまうとは流石は熊吉だ」
「なんのなんの。だが文吉には適わねェ」
「そんなことはない」
文吉はキセルを取ってタバコを吸い始める。そこへ千代がお茶を持ってきて、二人に提供した。そして熊吉を睨みつける。
「……なにも自慢になりませんよ。吉原行って朝帰りをして襲われたら。生きているからこそ讃えられましたが、死んだらよそ様の笑いものですよゥ」
何者も畏れない、鋭く刺す眼差しが部屋の空気を凍り付かせる。これには熊吉も唸った。
「う」
「なにが“う”ですか。当分吉原には行かないで下さいよ!」
そういって襖を閉めて行ってしまった。目を見開いて呆然とする文吉と熊吉。
「な、なんだ。俺たちにはいないが、まるで母ちゃんみたいだな」
「そう思うだろ? ワシなんて最近熊吉がいないからお千代と一緒に飯を食うのだが、楽しいときもあるが、注意が細かいぞ」
「そうか。だったら今日一緒に吉原に行かねェか?」
そういう熊吉の言葉に詰まる文吉。腕を組んでしばらく考え込んでから口を開いた。
「んー……。まぁそれもいいが、行ってもお前みたいに馴染みはいないからなァ」
「なんだ。天下の芳野太夫がいるじゃねェか?」
「芳野ねェ……。たしかにいい女ですよ。よく気が付くし。男を立てるし。割り切り上手ってのかねェ……」
「いいじゃねぇか。幇間も芸妓もたんと呼んでドンチャン騒ぎだ。カッポレを五周もすりゃ楽しくなってくるぜ」
「そうさなァ、じゃァ行くか!」
といったところで、襖が勢いよく開いて、そこにはすまし顔で正座した千代。
「お出掛けですか──?」
「ん? うん。まァ」
「そうですか」
先ほどと同じ、部屋を凍らせる態度。思わず二人とも黙ってしまったが自分はこの家の大黒柱である。ここで怯んではいけない。文吉は立ち上がって千代に凄んだ。
「あのなァ! ワシらがどこで遊ぼうとワシらの勝手──……」
「本日は、時候違いに猪の肉が手に入りましたので、葱沢山を味噌で煮て出そうと思いましたが、使用人だけで食べることにします」
文吉は言葉を止めた。熊吉も喉を鳴らす。臭みは多いが昔からの二人の大好物だったのだ。
「猪かァ」
「そら旨いよなァ……」
意気を削がれた文吉はまた座り直す。そして声音を変えて千代に話し掛けた。
「お千代や。今日はやめておくよ」
「そうですか。二貫目(約七キロ)ありますので楽しみにしていて下さい」
そういって襖をゆっくりと閉める。二人ともキセルを取ってタバコを吸い出した。
「こりゃ楽しみだ。几帳にも食わせてやりてぇ」
「ご執心だねェ。お前さんも。お千代の飯は旨いんだ。これを食ったら夜、几帳のところが遠ざかるぞ」
「おい兄貴。いやにお千代を褒めるねェ。もしも、お千代が兄貴の嫁になりたいなんていったらどうする?」
熊吉の揺さぶりである。文吉は少し顔を赤くしたが、すぐに寂しそうな顔をした。
「お千代も大人になったが、あれはワシの可愛い娘だ」
「だから、例えじゃねぇか。もしだよ。もしもの話さ」
文吉はキセルを吸って煙を吐き出す。その間は暫しの沈黙。
「──ワシは女は信じられない。きっと金目当てだと思うだろうな」
「そ、そうかい……」
熊吉はそれ以上、千代の話を出来なかった。
さて、こちらは暗殺の失敗した奈良屋茂左衛門である。角行のヘマを聞いて歯噛みして悔しがった。
「くそう! アイツめ失敗しおって!」
足を慣らして悔しがるものの、どうにもならない。ましてや熊吉が想像以上に豪傑だということが分かった。
「これでは、どうにもならん。泣き寝入りではないか」
キセルを出してタバコを吸い始め、なにか名案はないかと考えた。しかし名案など出るはずもない。
熊吉への憎しみと、几帳への恋しさが募り、いつしか吉原の大門をくぐっていた。そしてそのまま、三浦屋へ。
思えばまだ一度目の逢瀬である。床入りするまでにあと二回会わなくてはならない。
三度会って始めて熊吉と同じ土俵に立てると、三浦屋の提灯の下をくぐった。
「おお、これは奈良屋の旦那!」
「主人。今日は几帳と遊べるかい」
「さてただ今、部屋を見に行かせましょう」
一度失敗している三浦屋の郭主である。そこは慎重にチェックしなくては、また危ないことになりかねない。
部屋を見に行かせると、几帳は禿たちに言葉を教えている最中で手が空いているとのことだった。
「大丈夫です。お遊びになりますか?」
「無論だ」
といった後で、少しまごつく。そして、郭主の耳元でささやいた。
「几帳に惚れた。どうすれば彼女の気を惹ける?」
唐突で直球な質問であったが、郭主としてはしめたものである。
「そうですな。思い切り座敷に呼んで盛大にドンチャンなさいませ。それから粋な贈り物なんてよろしいですな。紀文の大旦那みたいな遊びは遊女はたいてい好きですな」
「なるほどそうかい。それじゃここは紀文と同じように遊ぼう。あちらはどんな風に遊ぶんだ?」
「へぇ。紀文の旦那は芸妓を五人ばかり呼んで、幇間も一人、二人呼びますな」
「ではそれでいこう。いくらだ」
「二十五両です」
「高いな。もっと安くならんか?」
それをポカンとした顔で見上げる郭主。奈良茂は慌てて取り繕った。
「じょ、冗談だ。紀文に出来てワシに出来ぬことはない」
「もっとも、紀九万の親分ともなりますと、几帳が嫉妬するといって、誰も呼ばずに几帳だけに三十両お出しになって貸し切り致します」
さすがは三浦屋の郭主。商売人だ。奈良屋とて金を持っている。そこに恋のライバルのやり方を伝えると、もっと出すだろうと籾手をしてきた。
「な、なに、そんなに?」
「ええ。几帳づきの禿たちに出す心づけも他の方と段違いだとか。禿たちも紀九万の親分が来るのを待っておりますからなァ」
「ほ、ほう。20文(500円)くらいか?」
「まさか。二分(25000円)でございます」
「そ、そんなにか? 二分金を?」
「左様でございます。奈良茂の親分。これは好機ですよ。紀九万の親分よりもポーンとご祝儀をはずんでご覧なさい。几帳の覚えも良くなり、あちきは主様が好きでありんすとこうなること請け合いでございますよ!」
「お、おう。今度からそうする」
「今度……。なにを仰います。紀九万の親分が来たら几帳はそちらを優先しますよ。本日の機会をなくしてはいけません」
「しかし待ち合わせがだな──」
これは至極当然である。一口に百両といっても、今で言う2.5kgほどある。先日の奈良茂の八十両だって持っているのは大変だ。熊吉のように、片方の袂に二百両、片方の袂に二百両、懐に二百両と金銀の入った巾着袋などもっているほうが不思議である。およそ20kgの負荷を毎日抱えているようなものだ。
だから奈良茂のその言葉に三浦屋の郭主はポンと手を打つ。
「あ、左様ですか。だったらこうしましょう。本日の支払いは付き馬を同行させますんで、明日でもようござんす。今日の持ち合わせで、芸妓や幇間、禿の祝儀をはずんでください。それだったら大盤振る舞いできるでございましょう」
付き馬とは集金の男である。金を持たずに遊びに来るものもいるので、こうして家までついていって回収する役であった。
郭主にそう言われて、いいえと言えるわけがない。奈良茂はくっと息を飲んだ。
「持ち合わせがないのはたまたまだ。本当はそんな遊びをするつもりだったのだ」
「ええ。当然分かっております」
「で、では座敷へ通せ」
「はい。では奈良茂の旦那をお座敷にご案内!」
郭主の声に係の牛太郎がやって来て、奈良茂を歓待しつつ座敷へと案内した。
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