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第39話 夜這い

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 千代は、せっかくのチャンスだったのにと思いながら食器を洗って火や戸締まりを見ると、自室に向かって歩き出す。
 千代の部屋には他に二人の女中がいた。二人とも千代の三つ上で、小笹と小菊である。
 すでに二人は寝息を立てて熟睡していた。障子に月の明かりが照らされて白く光っている。
 千代も布団に潜り込んで、先ほどの文吉を思って目を閉じた。

 それから一刻ほど経ったであろうか──。

「……お千代。お千代──」

 自分をすぐ近くで呼ぶ声がするので、小さく目を開けると、自分の上に何者かが乗っているではないか。
 驚いたが声を潜める。これは噂に聞く夜這いだと思った。

 恋愛は自由である。この紀伊国屋のような大きな店ともなると、たくさんの従業員が大部屋で寝泊まりしている。
 そんな中、仕事中に「今日お前さんのところにいくよ」と予約を入れておく。相手がオーケーならば「はい」となって大願成就ともなるが、女性は断ることもできる。そこは男性側は引き下がるしかなかった。
 予約を入れておけばスムーズだが、このように出し抜けにやって来て交渉するというのもあった。
 女性は受け身なのでそうするのも効果的な場合があるが、気の強い女性だと叩き出されることもあったようだ。

 ましてや思い人のいる千代にとっては、この夜這いは迷惑なものであったが、少しだけ希望があった。

「だ、旦那ですか?」
「違う。俺だ」

 月の光がその顔を照らす。それは文吉に共に拾われた定吉であった。すでに上半身裸でふんどしだけで這ってきたのであろう。若い鍛えられた肉体が月明かりでよく見えた。

「千代。好きだ。ずっと前から……。いいだろう」

 そういって唇に顔を近づけるが、千代は首を横に背けた。

「いや──」
「どうして?」

「心に決めた人がいる」
「分かってる──」

 しばらく二人とも黙ってしまった。定吉は千代のことをいつの間にか好きになっていた。千代もそれを感じていたが、この時すでに親子ほど年の離れた文吉を思っていたのだ。

「だめだ。旦那はやめておけ」
「どうして?」

「向こうだって相手にしてないし、女の人を深く恨んでるじゃあないか」
「……分かってるよ」

 またもや静寂。千代の上に乗る定吉の腕はいつしか、ふわりと千代を抱きしめていた。それに力が入る。

「俺が忘れさせる。一生をかけてそばにいる」
「ダメ。私は屋敷から絶対に出ない。旦那には家族が必要なの。私は旦那の娘のままでもいい。ずっとそばにいてお世話をする」

「バカ!」
「そうだよ! 定吉兄ちゃんもそんなバカな女に惚れちゃダメ。旦那は言ったんだ。私らにおっかさんを連れてくるって言った日があったよね。でも旦那は連れて帰らなかった。帰ってきた旦那は私を抱きしめてこう言ったの。千代は大事な家族だよって。ずっと離れないで欲しいって」

「それは違う。旦那は俺たちが一人前になることを望んでる。俺たちが結婚すれば、きっと喜んでくれる!」
「そうだと思う。でもできない!」

 言い争っていれば、同室の女たちも起きるのは当然だ。小笹と小菊は同時に起きた。

「誰かいる! お千代に乗ってる!」
「ヤバい!」

 定吉はふんどし一丁で逃げ出した。小笹が灯りを点けると千代はちゃんと服を着ていた。

「お千代。無事だったかい」
「はい。大丈夫で」

「それにしても、あの背格好は定吉だね。許せない! 旦那に訴えてやるから!」

 と、騒動になり、夜も白んで朝になった。文吉が起きてくると、小笹は早々に定吉のことを訴えた。



 文吉は小笹の話を朝食をとりながら聞いていたが、やがて膝を叩いて笑い出す。

「大旦那。笑い事ではありませんよ。店の秩序が危ぶまれます」
「そうか、そうか。それはスマン。早速定吉を呼んでおいで」

 小笹は、定吉を罰してくれるのだと思い、使用人が食事をとっている部屋にいくと、定吉が何食わぬ顔で飯を食べているので、二の腕をふん捕まえた。

「小笹姐さん、なにするんで?」
「白々しい。嫌らしい男だよ。さっさとお立ち。大旦那にたっぷりと叱って貰うんだね?」

「な、なにを?」
「ふざけちゃいけない。女の部屋に入ってきたんだ。罰を受けてもらうよ」

 定吉は状況を察して首を下げて、文吉の部屋へと向かった。
 廊下の板間に腰を下ろして障子に向かって話し掛ける。

「大旦那。定吉です」
「サダか。入りなさい」

「へぇ……」

 反省した面持ちで、文吉の前に行くと、座るように言われたので正座して、ひれ伏そうとすると、文吉は即座に駈け寄ってその肩を小突いた。

「こやつめ、憎いのォ。いつからだ?」
「え? あのォ」

「そーか、そーか。サダとお千代は、好き合っておったか。見つかるようにやってはいかんではないか」
「えーと、あのォ。ハイ」

「サダとお千代はワシの大事な家族だ。そなたらは特別扱いされるのがイヤで、ワシを父とはついぞ呼ばんかった」
「へ、へぇ。その通りで……」

 文吉が、二人を家族だ。子どもだとはいうが、二人は決して甘えなかった。他の従業員同様、仕事をし、寝る場所も同じとした。それはみなしごの自分たちを育ててくれた紀伊国屋への恩返しであったし、決して増長しないぞという思いからだったのだ。

 文吉は、この二人が互いに好き合っていると思い込んだ。定吉のほうでも、千代も旦那から言われれば従うしかないとずるい考えが芽生えたのだ。

「サダは十八、お千代は十六。所帯を持っていい頃だ。そう言えばお千代がいっておったわ。もう結婚できる。子どもを作れるとなァ」
「へ、へェ」

「なにも心配することはない。二人の身上しんしょうはワシが持たせてやる。安心なさい」
「ほ、本当ですか大旦那!」

「当たり前じゃないか。大事な子の結婚だ。これほどめでたいことはない」

 文吉は定吉へと固く約束をするのであった。
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