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第35話 百倍
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吉兵衛は、なるべく人目につかないように暗がりのところに小舟を走らせ、半刻ほどで船着き場に着いた。
遊侠の男達に二人を挽き立てさせ、裏から船小屋へと入る。そこには、大きな体で黒紋付きを着た男、熊吉であった。
文吉は重ねてある材木の陰で、材木の隙間からミツの姿を覗いていた。
「おい吉兵衛。二人の猿ぐつわを解いてやれ」
「へぇ」
吉兵衛が猿ぐつわをとると、二人は吉原で有名人の熊吉のことを知っており、がたがたと震えて何ごとかと聞いてきた。
「何ごとかじゃないだろう。おミっちゃんよ。あんた文吉から金を貰ったんだろう? そしたら郭主に身請けされたことを言うべきだろう。その男に脅されて言えなかったのか?」
熊吉がそう聞くと、ミツの回答は全くの別のものだった。
「いえ、紀伊国屋の旦那。あたしらは愛し合っているのです。いつか大門を出て二人で暮らそうと話をしていたんです」
熊吉も吉兵衛も驚いてしまった。なかなか次の言葉が出ない。そこにミツは話を続けた。
「彼は……弥次郎さんは、身分は低くとも侍です。いくらぶんきっつぁんがお金を持っていようとも、しょせんは商人ですよ。いつ落ちぶれるか分かりません。あたしはもう惨めな生活は嫌なんです」
「だ、だからって文吉から金を取って良いわけはないだろう? だったら返すべきだ」
「あ、そうだ。紀伊国屋の旦那、聞いて下さいよ。ぶんきっつぁんはあの金を富つきで得たと言ってましたよ。ところが弥次郎さんの話では、今は富つきは禁じられてるそうじゃないですか。おそらくぶんきっつぁんは店の金を盗んだと思いますよ。ねェ弥次郎さん」
「そうよ。やい紀伊国屋。身共らを調べるなどとんと了見違いである。その文吉とやらを調べよ」
たしかに、元禄五年に富くじはお差し止めとなった。禁じられたのである。今は元禄六年。それで得た金とはあり得ない。ミツはそれを言い付けて自分たちを見逃して貰おうと思った。即ち文吉を売ったのである。
「何を言う。文吉はお差し止めになる前に得たのだ。それを大事に取っていて、お前さんの身請けの金を捻出したのだ。それで三国どのが身請けするなどおかしいじゃないか」
「やですよゥ。ちゃんと返しますよ。いずれまとまった金ができたら。それに、富つきで出来たのなら、あぶく銭でしょう? それを失ったって……ねェ」
侍は固定給だ。それでまとまった金など出来るはずなどない。それに逃げたも同然。踏み倒す気だったとはあんまりだ。腐っている。吉兵衛は思わず眉をひそめて目をそらした。
熊吉は、大事な義兄の文吉がこんなのにずっと惚れていたのかと、必死に詫びや心を入れ換えるようにと言葉を仕向けた。
「おみっちゃん。文吉はいつもお前さんの話をしていたんだよ。一途に愛したんだ。今日だって大門の前でずっとお前さんを待っていたんだよ」
「いやですよゥ。吉原では騙し騙されるなんて男も女もよくする話しじゃないですか。ぶんきっつぁんも騙されたんです。それは遊びじゃないですか。恨むなんて野暮ですよ」
「いやいや、よく考えておくれ。俺はよく知っている。文吉はお前さんを思って、お前さんに会うまで女を抱かなかった。お前さんしか見えてなかったんだよ」
それに、ミツは声高らかに笑った。
「ああ、なるほど。だからあんなに下手だったんですか。すぐに終わってしまうし小さいし。思い出すだけで笑えますよ」
優しい口調の熊吉に緊張がほどけたのか、男のほうも笑う。
「そうか。昨日から笑いが止らなんだ。間抜けな男もいたもんだ。おミツはこの通り、拙者に惚れておる。下手くそにはおミツの相手は務まらんわ!」
そうなるともうお終いだ。ミツも一緒になって笑い出した。
「そうそう。一途とか愛とか強調してもねぇ。紀伊国屋の旦那みたいに金を持ってるならまだしも、手代だなんて、まっぴら御免ですよ。ぶんきっつぁんにもそう伝えて下さい。あたしはどこかで幸せに暮らしてますから、もう気にしないで、不細工な町娘か泥だらけの農家の娘とでも結婚して小さな店を切り盛りして下さいってね。旦那さん。もういいでしょう。放して貰えませんか?」
ミツはそう言うと縛られたまま、膝を使って立ち上がる。熊吉は手が出そうになったがこらえた。
「おみっちゃん。文吉は……。文吉はな」
「もういい! 熊吉!」
材木の裏から怒鳴り声がする。そしてミツを睨みつけるように文吉が現れた。
「ぶ、ぶんきっつぁん……。なんだ、いたのかい。人が悪いねェ」
バツが悪くてミツは目をそらしたが、あることに気付く。
「なんで黒紋付きを──?」
そうつぶやくと同時に、後ろから吉兵衛の声だった。
「紀文の大旦那──」
ミツはそれでハッと気付いた。これが紀伊国屋文左衛門なのだと。慌てて平伏するも、もう遅い。三国弥次郎は驚いて後ろにスッ転んでしまった。
文吉は、襟を直して吉兵衛のほうへと向き直る。
「吉兵衛。すまなかったな。醜いところを見せちまって。こっちは汐凪のようにはいかなんだ」
「い、いえ、旦那。そ、そんな……」
幇間をしてどんな言葉でも上手く返してきた吉兵衛も言葉を詰まらせる。文吉は申し訳なさそうに続けた。
「いやぁ。おミツの言うとおりだ。吉原では騙し騙されるのは常。ここからはワシと熊吉に預けてくれ。お前は仲間を連れて引き上げてくれ」
「あの……。しかし……。へ、へい」
吉兵衛は、仲間の遊侠の徒を引き連れて舟小屋を出て行った。小屋から出ると、みんなで走り出しもう舟小屋から遠く離れたところで大きくため息をついた。
「あれは怖い。恐ろしいな」
「ああヒドいなんてもんじゃない。大旦那を尊敬してずっとくっついていたが、あんなに怒っている大旦那は、はじめてだ。まさに可愛さ余って憎さ百倍であろう。くわばら、くわばら。今日見たことは誰にも言わない方がいいな。もう行こう」
吉兵衛とその仲間は、文吉の鬼気迫る姿を思い出し、逃げるように家に帰ったのであった。
文吉が紀伊国屋文左衛門だと知るとミツの態度は一変し、眉を下げてほうっとため息をついた。
「あ、あのゥ。ぶんきっつぁんが紀文の大旦那だなんて知らなくて……。あたし、ぶんきっつぁんと夫婦になれるなら嬉しいよゥ」
「な。藤佳! なにを言いやがる!」
「やだねェ。三国の旦那。よしとくれ。紀文の大旦那は、あたしに一途に惚れて下さるんだよ。それに応えるのが女冥利じゃないか。アンタみたいな三下侍なんか、お呼びじゃあない。吹けば飛ぶよ? なんといっても幕府とも繋がりがあるんだからね!」
ミツは縛られながらも胸を張った。三国弥次郎は怒って縛られたまま、ミツに向かって体当たりする。ミツは怒って声を張り上げた。
「何するんだい! この貧乏侍! こっちは天下の紀伊国屋だよ!」
ミツが惚れてるのは、弥次郎の身分だ。文吉の金だ。それは誰から見ても醜い。
「よさねぇか!!」
この醜い争いに文吉は声を張り上げる。ミツは勝ったように三国弥次郎を横目で見た。
「そゥらごらん」
勝ち誇ったミツの声。文吉はそれにも構わず、小屋の材木脇にかけられていたムシロを剥ぐと、そこには千両箱が三つ。ミツも三国弥次郎も息を飲んだ。
遊侠の男達に二人を挽き立てさせ、裏から船小屋へと入る。そこには、大きな体で黒紋付きを着た男、熊吉であった。
文吉は重ねてある材木の陰で、材木の隙間からミツの姿を覗いていた。
「おい吉兵衛。二人の猿ぐつわを解いてやれ」
「へぇ」
吉兵衛が猿ぐつわをとると、二人は吉原で有名人の熊吉のことを知っており、がたがたと震えて何ごとかと聞いてきた。
「何ごとかじゃないだろう。おミっちゃんよ。あんた文吉から金を貰ったんだろう? そしたら郭主に身請けされたことを言うべきだろう。その男に脅されて言えなかったのか?」
熊吉がそう聞くと、ミツの回答は全くの別のものだった。
「いえ、紀伊国屋の旦那。あたしらは愛し合っているのです。いつか大門を出て二人で暮らそうと話をしていたんです」
熊吉も吉兵衛も驚いてしまった。なかなか次の言葉が出ない。そこにミツは話を続けた。
「彼は……弥次郎さんは、身分は低くとも侍です。いくらぶんきっつぁんがお金を持っていようとも、しょせんは商人ですよ。いつ落ちぶれるか分かりません。あたしはもう惨めな生活は嫌なんです」
「だ、だからって文吉から金を取って良いわけはないだろう? だったら返すべきだ」
「あ、そうだ。紀伊国屋の旦那、聞いて下さいよ。ぶんきっつぁんはあの金を富つきで得たと言ってましたよ。ところが弥次郎さんの話では、今は富つきは禁じられてるそうじゃないですか。おそらくぶんきっつぁんは店の金を盗んだと思いますよ。ねェ弥次郎さん」
「そうよ。やい紀伊国屋。身共らを調べるなどとんと了見違いである。その文吉とやらを調べよ」
たしかに、元禄五年に富くじはお差し止めとなった。禁じられたのである。今は元禄六年。それで得た金とはあり得ない。ミツはそれを言い付けて自分たちを見逃して貰おうと思った。即ち文吉を売ったのである。
「何を言う。文吉はお差し止めになる前に得たのだ。それを大事に取っていて、お前さんの身請けの金を捻出したのだ。それで三国どのが身請けするなどおかしいじゃないか」
「やですよゥ。ちゃんと返しますよ。いずれまとまった金ができたら。それに、富つきで出来たのなら、あぶく銭でしょう? それを失ったって……ねェ」
侍は固定給だ。それでまとまった金など出来るはずなどない。それに逃げたも同然。踏み倒す気だったとはあんまりだ。腐っている。吉兵衛は思わず眉をひそめて目をそらした。
熊吉は、大事な義兄の文吉がこんなのにずっと惚れていたのかと、必死に詫びや心を入れ換えるようにと言葉を仕向けた。
「おみっちゃん。文吉はいつもお前さんの話をしていたんだよ。一途に愛したんだ。今日だって大門の前でずっとお前さんを待っていたんだよ」
「いやですよゥ。吉原では騙し騙されるなんて男も女もよくする話しじゃないですか。ぶんきっつぁんも騙されたんです。それは遊びじゃないですか。恨むなんて野暮ですよ」
「いやいや、よく考えておくれ。俺はよく知っている。文吉はお前さんを思って、お前さんに会うまで女を抱かなかった。お前さんしか見えてなかったんだよ」
それに、ミツは声高らかに笑った。
「ああ、なるほど。だからあんなに下手だったんですか。すぐに終わってしまうし小さいし。思い出すだけで笑えますよ」
優しい口調の熊吉に緊張がほどけたのか、男のほうも笑う。
「そうか。昨日から笑いが止らなんだ。間抜けな男もいたもんだ。おミツはこの通り、拙者に惚れておる。下手くそにはおミツの相手は務まらんわ!」
そうなるともうお終いだ。ミツも一緒になって笑い出した。
「そうそう。一途とか愛とか強調してもねぇ。紀伊国屋の旦那みたいに金を持ってるならまだしも、手代だなんて、まっぴら御免ですよ。ぶんきっつぁんにもそう伝えて下さい。あたしはどこかで幸せに暮らしてますから、もう気にしないで、不細工な町娘か泥だらけの農家の娘とでも結婚して小さな店を切り盛りして下さいってね。旦那さん。もういいでしょう。放して貰えませんか?」
ミツはそう言うと縛られたまま、膝を使って立ち上がる。熊吉は手が出そうになったがこらえた。
「おみっちゃん。文吉は……。文吉はな」
「もういい! 熊吉!」
材木の裏から怒鳴り声がする。そしてミツを睨みつけるように文吉が現れた。
「ぶ、ぶんきっつぁん……。なんだ、いたのかい。人が悪いねェ」
バツが悪くてミツは目をそらしたが、あることに気付く。
「なんで黒紋付きを──?」
そうつぶやくと同時に、後ろから吉兵衛の声だった。
「紀文の大旦那──」
ミツはそれでハッと気付いた。これが紀伊国屋文左衛門なのだと。慌てて平伏するも、もう遅い。三国弥次郎は驚いて後ろにスッ転んでしまった。
文吉は、襟を直して吉兵衛のほうへと向き直る。
「吉兵衛。すまなかったな。醜いところを見せちまって。こっちは汐凪のようにはいかなんだ」
「い、いえ、旦那。そ、そんな……」
幇間をしてどんな言葉でも上手く返してきた吉兵衛も言葉を詰まらせる。文吉は申し訳なさそうに続けた。
「いやぁ。おミツの言うとおりだ。吉原では騙し騙されるのは常。ここからはワシと熊吉に預けてくれ。お前は仲間を連れて引き上げてくれ」
「あの……。しかし……。へ、へい」
吉兵衛は、仲間の遊侠の徒を引き連れて舟小屋を出て行った。小屋から出ると、みんなで走り出しもう舟小屋から遠く離れたところで大きくため息をついた。
「あれは怖い。恐ろしいな」
「ああヒドいなんてもんじゃない。大旦那を尊敬してずっとくっついていたが、あんなに怒っている大旦那は、はじめてだ。まさに可愛さ余って憎さ百倍であろう。くわばら、くわばら。今日見たことは誰にも言わない方がいいな。もう行こう」
吉兵衛とその仲間は、文吉の鬼気迫る姿を思い出し、逃げるように家に帰ったのであった。
文吉が紀伊国屋文左衛門だと知るとミツの態度は一変し、眉を下げてほうっとため息をついた。
「あ、あのゥ。ぶんきっつぁんが紀文の大旦那だなんて知らなくて……。あたし、ぶんきっつぁんと夫婦になれるなら嬉しいよゥ」
「な。藤佳! なにを言いやがる!」
「やだねェ。三国の旦那。よしとくれ。紀文の大旦那は、あたしに一途に惚れて下さるんだよ。それに応えるのが女冥利じゃないか。アンタみたいな三下侍なんか、お呼びじゃあない。吹けば飛ぶよ? なんといっても幕府とも繋がりがあるんだからね!」
ミツは縛られながらも胸を張った。三国弥次郎は怒って縛られたまま、ミツに向かって体当たりする。ミツは怒って声を張り上げた。
「何するんだい! この貧乏侍! こっちは天下の紀伊国屋だよ!」
ミツが惚れてるのは、弥次郎の身分だ。文吉の金だ。それは誰から見ても醜い。
「よさねぇか!!」
この醜い争いに文吉は声を張り上げる。ミツは勝ったように三国弥次郎を横目で見た。
「そゥらごらん」
勝ち誇ったミツの声。文吉はそれにも構わず、小屋の材木脇にかけられていたムシロを剥ぐと、そこには千両箱が三つ。ミツも三国弥次郎も息を飲んだ。
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