紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範

文字の大きさ
上 下
33 / 58

第33話 出迎え

しおりを挟む
 三日後としたのは文吉にも都合があった。このいたずらを完全にするためにミツの体格をしっかりと見て来なくてはならなかったのだ。

 文吉は、熊吉や吉兵衛を連れて呉服屋巡りだ。白無垢の打掛に、旦那の嫁らしく赤や黄色の美しい呉服を買ったのだ。

 紀伊国屋の大旦那の結婚式だ。盛大にやろう。屋敷にたくさんのお得意様を呼んで、お土産に紙に包んだ二分金を渡すための用意だ。使用人を集めて準備をさせた。
 赤飯や餅、尾頭付きの魚を江戸中の魚屋に頼んで持ってこさせる。ほぼ買い占めであった。
 さらには、大門に登ってミツが来た際には見物人に向かって金を撒くようにと指示をした。
 一升枡に小粒の金を入れたものが十枡ほど。中には小判が入ったものまである。これを盛大に撒き散らかそうというのだから大変豪毅である。
 この結婚式の準備で、三千両を費やした。



 そして当日。文吉は新調した紋付きを来て、屋敷の門を出る。源蔵以下、女中や下男、小僧まで出て来て手を振ってお見送りだ。
 文吉は、そこに並んでいる千代の頭を撫でた。

「お千代や。今からお前のおっかさんになる人を連れてくるからね」
「千代のおっかさんですか?」

「そうだ。お前や定吉。ワシにとっては九万兵衛に続く大事な家族だよ。ワシはお千代を娘と思っている。定吉は息子だ。そして今から嫁を迎えに行くんだよ。お前たちはどうかその人を母と仰いでおくれ」
「旦那さまのお嫁さんですか?」

「そうだ。お前にとってはおっかさんだ」

 そういって文吉は見送りの者たちに笑顔で手を振って用意されている駕籠へと乗り込んだ。

 文吉を先頭に続いて熊吉の駕籠が行く。その後ろに裃をつけた吉兵衛が率いる芸人集団が、金が入った枡を小脇に抱えて整然とついていった。



 吉原の大門につくと、文吉は吉原の中に入ろうとはしなかった。ただその吉原の美しさを懐かしそうに眺めた。
 自分は今日で卒業だ。たまに接待に来ることはあるかも知れないが、これからは家族を守る。ミツを得たことで文吉の旅は終わりを告げた。そんな気持ちだったのだ。

 吉兵衛は芸人仲間を大門にハシゴを掛けて数人登らせた。残りの数人は吉兵衛を含めて地上より金撒きをする。

 この騒ぎに吉原は騒ぎ出した。

「紀文の大旦那の身請けだとよ」
「なんでも幼い頃に別れ別れになった幼馴染みだそうな」
「はぁー。そらなんとも芝居のようだな」

 芝居と言われて文吉は思い出す。吉兵衛に“可愛さ余って憎さ百倍”というのを聞いた話を。
 なんの。吉兵衛とてたくさんの男と寝た汐凪を娶ったではないか。愛していればそんなことは関係ない。
 それは自分だって同じことだ。それが人を愛するということではないか。



 吉原の騒ぎは、三浦屋の高尾太夫の耳にも入った。紀文の大旦那の身請け。太夫の自分ではなく他の女だ。
 高尾は太夫の身分でありながら、格子へと走り、大門に目を向けたがそこからでは文吉の姿が見えない。今度は二階の座敷へと走って、大門にたたずむ文吉の姿を見つけた。
 お大尽らしい黒紋付きを羽織り、片手には扇を持って女が来るのを待っている。そこに行くのは自分ではないことになぜか哀しくなった。

 大した男ではないと思っていたのに、いつの間にか文吉が自分の中に住み始めていたことに気付いて、神仏を拝むように手を合わせて頭を下げた。
 それは幸せを祈るためか。それとも自分に向き直って欲しいからか──。

 大門の前にはたくさんの人が押し寄せた。これから始まる金撒きに期待するものが大半だが、紀文の大旦那がどんな女を身請けしたのかというのの見物であった。



 しかし──。
 待てど暮らせど、ミツの姿は現れない。不思議に思って熊吉は文吉に聞こうとしたが、幸せそうな顔をしている文吉にそれを聞くのも野暮だと思い、キセルを出して煙草を吸い始めた。
 続いて吉兵衛だ。これもなかなか現れないミツを不思議に思っていた。もう少し待ってから聞いてみよう。もう少し待ってからとやっているうちに、日も落ち始めて早い遊廓では提灯に火を入れるところまで現れだした。

 吉兵衛はさすがに遅いと思い、文吉のそばに行って耳打ちをする。

「さすがに遅いかと──」
「おいおい。野暮はよせ。吉原の女は客を待たせるものだ」

「さ、左様で……」

 それ以上は何も言えずに持ち場に戻って枡を抱えた。野次馬達もあくびをしたり、店に入ったりで、人が少なくなってきた。
 熊吉も声をかける。

「文左衛門の兄貴。ひょっとしたら病気でもして寝込んでいるんじゃねぇか?」

 文吉もさすがにそうだと思い、吉兵衛をそばに呼んだ。

「へぇ。大旦那。お呼びで?」
「ああ。お前に頼むのも心苦しいが、ひょっとしたらミツは病気をして誰にも頼れず唸っているのかも知れない。悪いが少し見てきてくれまいか?」

「もちろんでさァ」

 吉兵衛は金の入った枡を仲間に預けると、圓屋へと走った。中に入ると主人が出迎えたが、紀文の大旦那の遣いだというと、土間に這いつくばって畏れ入っていた。

「おいおい。この吉原の騒ぎは知っているな」
「へ、へぇ。なんでも紀文の大親分の身請けだとか……」

「なんとも他人事のようだな。藤佳さんは何をしている」
「へ? 藤佳でやすか?」

「なんだそりゃ。紀文の大旦那がお待ちだ。藤佳さんの現況を教えてくれ」
「え? あの。そのぅ……」

「ハッキリしない主人だな。いくら女は時間がかかるとしても遅すぎる。それとも病で伏せっているのか?」
「あのぅ。なんのお話で?」

「だから、身請けの話ではないか!」
「どなたの……?」

「紀文の大旦那だよ!」

 まるで肩透かしのような主人の返答に、さすがの吉兵衛も声を張り上げた。

「あ、あの。藤佳は昨日、身請けされてもうこの店にはおりません」
「は、はあ!?」

「え、ええ。それに紀文の大親分から身請けの話など聞いておりませんでしたし、お金も頂戴しておりません」

 これは何かがおかしいと思い、吉兵衛は文吉の元へと急いで戻った。

「旦那! 紀文の大旦那!」

 声を張り上げたら、少しまずい。文吉に恥をかかすかも知れないと、吉兵衛は口を押さえて、文吉の耳に近付いた。

「旦那。おミツさんはすでに身請けされたという話ですぜ?」

 文吉は驚いた顔を吉兵衛へと向けたが、すぐに笑顔を吉原のほうへと向けた。

「なんだ。いつもの冗談か──」

 冗談ではない。文吉はなにか勘違いしていると、吉兵衛はさらに言葉を続けた。

「大旦那。おミツさんは昨日身請けされました。大旦那は、自分で圓屋の主人に金を渡したんですか? それとも誰かを間に挟んだ?」

 文吉の顔に陰りが見える。少しムッとしたような顔であった。

「誰かを仲介などしていない。おミツに直接渡したのだ」

 ではそれが──。それが答えだと吉兵衛は思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

歴史漫才~モトヤん家の変~

歴史漫才
歴史・時代
日本歴史のパロディ漫才です。モトヤ(ボケ)ソウマ(ツッコミ)の日常をお楽しみください。

あやかし娘とはぐれ龍

五月雨輝
歴史・時代
天明八年の江戸。神田松永町の両替商「秋野屋」が盗賊に襲われた上に火をつけられて全焼した。一人娘のゆみは運良く生き残ったのだが、その時にはゆみの小さな身体には不思議な能力が備わって、いた。 一方、婿入り先から追い出され実家からも勘当されている旗本の末子、本庄龍之介は、やくざ者から追われている途中にゆみと出会う。二人は一騒動の末に仮の親子として共に過ごしながら、ゆみの家を襲った凶悪犯を追って江戸を走ることになる。 浪人男と家無し娘、二人の刃は神田、本所界隈の悪を裂き、それはやがて二人の家族へと繋がる戦いになるのだった。

岩倉具視――その幽棲の日々

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 幕末のある日、調子に乗り過ぎた岩倉具視は(主に公武合体とか和宮降嫁とか)、洛外へと追放される。 切歯扼腕するも、岩倉の家族は着々と岩倉村に住居を手に入れ、それを岩倉の幽居=「ねぐら」とする。 岩倉は宮中から追われたことを根に持ち……否、悶々とする日々を送り、気晴らしに謡曲を吟じる毎日であった。 ある日、岩倉の子どもたちが、岩倉に魚を供するため(岩倉の好物なので)、川へと釣りへ行く。 そこから――ある浪士との邂逅から、岩倉の幽棲――幽居暮らしが変わっていく。 【表紙画像】 「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

肩越の逢瀬 韋駄天お吟結髪手控

紅侘助(くれない わびすけ)
歴史・時代
江戸吉原は揚屋町の長屋に住む女髪結師のお吟。 日々の修練から神速の手業を身につけ韋駄天の異名を取るお吟は、ふとしたことから角町の妓楼・揚羽屋の花魁・露菊の髪を結うように頼まれる。 お吟は露菊に辛く悲しいを別れをせねばならなかった思い人の気配を感じ動揺する。 自ら望んで吉原の遊女となった露菊と辛い過去を持つお吟は次第に惹かれ合うようになる。 その二人の逢瀬の背後で、露菊の身請け話が進行していた―― イラストレーター猫月ユキ企画「花魁はなくらべ その弐」参加作。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

猿の内政官の息子

橋本洋一
歴史・時代
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~ の後日談です。雲之介が死んで葬儀を執り行う雨竜秀晴が主人公です。全三話です

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

処理中です...