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第30話 奈良屋
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そしてその日はやってきた。文吉は幕府の要人を呼んで接待で三浦屋の二階でお座敷遊びをしていた。
要人達は大喜びで、遊女を横に侍らせて酒を呑み、文吉は自ら酒を注いで回っていたのだ。
すると吉兵衛が近付いてきて文吉に耳打ちをした。
「紀文の大旦那」
「うん? 吉兵衛。いかがした?」
「ちょっと、窓際にあっしと一緒に来てくだせぇ」
「ああ。あいよ。ちょいと失礼しますよ」
文吉がそういって立ち上がると、吉兵衛は熊吉のもとに行って、これも呼んできた。
三人が窓際にくると、吉兵衛は外にいる身なりのよさそうな商人を指差した。
「旦那がた。あれこそ奈良屋です。名を茂左衛門と申します」
そう言われて二人は驚いて窓から身を乗り出した。
自分たちより少しばかり年上であろうか? 背丈もそれほどでもなく、見た目も利発そうには思えない。しかし、あれが将軍から名指しされた男なのだ。
文吉は、元々の性格であろう、人好きで気さくである。その調子のまま二階の窓から階下の奈良屋へと声をかけた。
「ヨォ! 奈良屋さん。奈良屋の旦那!」
吉兵衛は声をかけるのかと文吉を二度見すると、いつものようになだらかな厭味のない笑顔である。ああこの人は普通にこの調子なのだ。尊敬してきてよかったと、また奈良屋のほうへと視線を落とす。
奈良屋茂左衛門は、最初どこから声がするのか分からずに、あっちを見たり、こっちを見たりしていたが、とうとう三浦屋の二階を見上げた。
文吉のにこやかな顔を見るが、誰か分からない。
「ヘェ。あっしが奈良屋ですが、そちらはどなたで?」
ワイワイと活気のある吉原の街の中でも通る声だ。文吉は奈良屋へと言葉を返す。
「ワシらは紀伊国屋ですよ!」
奈良屋は、なるほど。あれが噂に聞く江戸有数の金持ちで吉原で大尽遊びをする紀伊国屋なのか。では隣のデカいのが九万兵衛で、裃を着てるのが腰巾着の幇間吉兵衛。声の主こそ文左衛門だとわかった。
しかし奈良屋は思っていた。金の使い方が分かっていない人々。吉原で金を使ったって消えるだけだ。それを湯水のように。間抜けめ。適当に遊ぶのがよいのではないか。とても尊敬できない商売敵だ。と。
「ああ、紀伊国屋さんでしたか」
と奈良屋も作られた笑いを送る。文吉のほうでは、紹介したい人物もいるから上がって遊ぼうと声をかけるものの、奈良屋は笑って相手にしないという構図だ。
その言葉のやり取りの最中である。白い玉は、奈良屋がどういうヤツかと懐から身を乗り出して階下を見ると、ちょうど奈良屋の懐からも同じようなものが、顔を出した。
それは角度から白い玉にしか見えなかったし、文吉も熊吉も吉兵衛も奈良屋のほうを見ていたので気が付かなかった。
それは黒い箱であった。そして、白い玉を認めると、表面に光る文字を表す。
『呵呵大笑』
『ま、まぁ!!』
白い玉は、笑われたことと、東照宮改築はヤツの力だと熱を放って怒った。文吉は懐が温かくなるのを感じたが、そのまま奈良屋と話を続けた。
「どうです。二階に上がっていらっしゃい。ここであったのも縁です。これからのよしみを結びましょうや」
そういうものの奈良屋のほうでは、やはり苦笑の表情を浮かべた。
「いえいえ。今日は吉岡屋で遊ぼうと思っていたのでこれで失礼いたします」
そういって小さいちょんまげを結った頭をペコリと下げると、早々に去って行ってしまった。
文吉と奈良屋茂左衛門。このライバルの出会いは文吉の度量で、勝ちを制したようなものだった。
文吉に白い玉。
奈良屋に黒い箱。
文吉たちは笑っていたが、白い玉は奈良屋のもつ黒い箱に怒りを燃やした。
『あの糞から生まれた寄生虫のくせに、私と文吉の邪魔をしやがってッ! 穢らわしい! 許せない! 畜生ッ!』
その声は懐の中の上、吉原の雑踏と座敷の三味線や遊女の笑い声に消されていた。
『だけど、奈良屋はあの願いで相当生命エネルギーを吸われたハズよ! もはや奈良屋はこれ以上、上手く儲けることはできまい! はは。気味がいい』
しかし、東照宮改築は40万両である。文吉が持ってきた寛永寺根本中堂の造営は22万両だ。
今まで白い箱は一つ一つ、文吉を金持ちへのプロセスを歩ませてきた。しかし黒い箱はそんなプロセスなど通り越して奈良屋を江戸有数の大金持ちにしたのだ。しかも幕府御用達というおまけまで付けて。
自分が文吉としてきたその課程が非常につまらなく小さいもののように思えてますます怒りが募った。
白い玉と黒い箱には確執がある。あの黒い箱も白い玉同様、人の願いを叶える不思議な力があるのだ。
黒い箱は、持ち主と駆け引きを行い、願いを叶える代わりに、持ち主の体の一部分を取る。その生命エネルギーを使って大きな願いを叶えることが出来るのだ。
白い玉は自分にはその力が無い。と劣等感を感じたときハッとした。
『──熊吉の生命力』
白い玉は、声を控えた。もとより誰にも聞かれてはいなかったが、発言することをやめたのだ。
『ふん。文献などに残されては一大事だ。入念に計画せねばなるまい……』
白い玉は文吉の懐の中で、いつものように息を潜めて存在を消した。
◇
そんなことを知らない文吉は、しばらく奈良屋の背中を見ていたが、そうしていても仕方がない座敷に戻ろうと、熊吉と吉兵衛に持ち掛けたところで、文吉は固まった。
窓の外を見ながら完全に固まったのだ。
「どうしたい。文左衛門の兄貴」
熊吉の言葉に、気が抜けたように言葉を発す。
「おミツ──」
「え!? おみっちゃんだって? どこだい!?」
それはホンの少しの間だった。奈良屋を見つめていたときにすれ違った女に気づいたのだ。
それは、それほど売れていない圓屋という古びた遊廓に入っていったのだ。
熊吉と吉兵衛が見ようと窓に来たときにはすでにその姿は遊廓の中に消えていたのだ。
遊女となって約10年ほどになったろう。くたびれて容色も失いかけ、売れない遊女となっていたのだが、文吉の目には間違いなくあの頃のミツであったのだ。
「──那。旦那ってば。紀文の大旦那!」
吉兵衛の声に文吉は、はっと我に返る。そして襟を正した。
「旦那。それならばあっしがちょっくら圓屋にいって、おミツさんを呼んできましょう。別れ別れになった人は紀伊国屋の大旦那と知ったら、大層驚きますぜ!」
文吉は少し考えた。そして、子どものようないたずら心が涌いたのだ。
「いい。久しぶりの再会だ。後で驚かしてやろうと思う。明日、逆に丁稚か手代の格好で圓屋に遊びに行くんだ。向こうでは遊んだことはないから、主人もそんな姿のワシのことを紀伊国屋だとは思うまい」
そういって文吉は少年のように笑う。それを見た熊吉も吉兵衛も面白くなってきた。
「そりゃ面白い。後から紀伊国屋だと知ったらおミっちゃんは目を回すぞ」
熊吉がそう言うと、今度は吉兵衛が己の胸を叩いた。
「紀文の大旦那。ちょっくらあっしを圓屋に遣いに出してくだせぇ。なぁに。あっしは幇間ですよ。店の主人から怪しまれずにおみつさんの源氏名を聞いてくるなど分けないことです」
それに、文吉も気付いた。まさか店に行っておミツを指名したいなどと言ったらすぐに分かってしまう。
遊女にはそれぞれ源氏名がある。文吉は吉兵衛に頼むと、しばらく吉兵衛は席を外し、やがて戻ってきて文吉へと伝えた。
「行って来やした。先ほど遣いから戻ってきた遊女は誰かと聞くと、“藤佳”という名だそうです」
文吉は手を叩いて喜んだ。
「すまんな吉兵衛。そうか。藤佳かァ」
ミツのビックリする顔が目に浮かぶようだ。文吉は明日が楽しみで仕方なかった。
要人達は大喜びで、遊女を横に侍らせて酒を呑み、文吉は自ら酒を注いで回っていたのだ。
すると吉兵衛が近付いてきて文吉に耳打ちをした。
「紀文の大旦那」
「うん? 吉兵衛。いかがした?」
「ちょっと、窓際にあっしと一緒に来てくだせぇ」
「ああ。あいよ。ちょいと失礼しますよ」
文吉がそういって立ち上がると、吉兵衛は熊吉のもとに行って、これも呼んできた。
三人が窓際にくると、吉兵衛は外にいる身なりのよさそうな商人を指差した。
「旦那がた。あれこそ奈良屋です。名を茂左衛門と申します」
そう言われて二人は驚いて窓から身を乗り出した。
自分たちより少しばかり年上であろうか? 背丈もそれほどでもなく、見た目も利発そうには思えない。しかし、あれが将軍から名指しされた男なのだ。
文吉は、元々の性格であろう、人好きで気さくである。その調子のまま二階の窓から階下の奈良屋へと声をかけた。
「ヨォ! 奈良屋さん。奈良屋の旦那!」
吉兵衛は声をかけるのかと文吉を二度見すると、いつものようになだらかな厭味のない笑顔である。ああこの人は普通にこの調子なのだ。尊敬してきてよかったと、また奈良屋のほうへと視線を落とす。
奈良屋茂左衛門は、最初どこから声がするのか分からずに、あっちを見たり、こっちを見たりしていたが、とうとう三浦屋の二階を見上げた。
文吉のにこやかな顔を見るが、誰か分からない。
「ヘェ。あっしが奈良屋ですが、そちらはどなたで?」
ワイワイと活気のある吉原の街の中でも通る声だ。文吉は奈良屋へと言葉を返す。
「ワシらは紀伊国屋ですよ!」
奈良屋は、なるほど。あれが噂に聞く江戸有数の金持ちで吉原で大尽遊びをする紀伊国屋なのか。では隣のデカいのが九万兵衛で、裃を着てるのが腰巾着の幇間吉兵衛。声の主こそ文左衛門だとわかった。
しかし奈良屋は思っていた。金の使い方が分かっていない人々。吉原で金を使ったって消えるだけだ。それを湯水のように。間抜けめ。適当に遊ぶのがよいのではないか。とても尊敬できない商売敵だ。と。
「ああ、紀伊国屋さんでしたか」
と奈良屋も作られた笑いを送る。文吉のほうでは、紹介したい人物もいるから上がって遊ぼうと声をかけるものの、奈良屋は笑って相手にしないという構図だ。
その言葉のやり取りの最中である。白い玉は、奈良屋がどういうヤツかと懐から身を乗り出して階下を見ると、ちょうど奈良屋の懐からも同じようなものが、顔を出した。
それは角度から白い玉にしか見えなかったし、文吉も熊吉も吉兵衛も奈良屋のほうを見ていたので気が付かなかった。
それは黒い箱であった。そして、白い玉を認めると、表面に光る文字を表す。
『呵呵大笑』
『ま、まぁ!!』
白い玉は、笑われたことと、東照宮改築はヤツの力だと熱を放って怒った。文吉は懐が温かくなるのを感じたが、そのまま奈良屋と話を続けた。
「どうです。二階に上がっていらっしゃい。ここであったのも縁です。これからのよしみを結びましょうや」
そういうものの奈良屋のほうでは、やはり苦笑の表情を浮かべた。
「いえいえ。今日は吉岡屋で遊ぼうと思っていたのでこれで失礼いたします」
そういって小さいちょんまげを結った頭をペコリと下げると、早々に去って行ってしまった。
文吉と奈良屋茂左衛門。このライバルの出会いは文吉の度量で、勝ちを制したようなものだった。
文吉に白い玉。
奈良屋に黒い箱。
文吉たちは笑っていたが、白い玉は奈良屋のもつ黒い箱に怒りを燃やした。
『あの糞から生まれた寄生虫のくせに、私と文吉の邪魔をしやがってッ! 穢らわしい! 許せない! 畜生ッ!』
その声は懐の中の上、吉原の雑踏と座敷の三味線や遊女の笑い声に消されていた。
『だけど、奈良屋はあの願いで相当生命エネルギーを吸われたハズよ! もはや奈良屋はこれ以上、上手く儲けることはできまい! はは。気味がいい』
しかし、東照宮改築は40万両である。文吉が持ってきた寛永寺根本中堂の造営は22万両だ。
今まで白い箱は一つ一つ、文吉を金持ちへのプロセスを歩ませてきた。しかし黒い箱はそんなプロセスなど通り越して奈良屋を江戸有数の大金持ちにしたのだ。しかも幕府御用達というおまけまで付けて。
自分が文吉としてきたその課程が非常につまらなく小さいもののように思えてますます怒りが募った。
白い玉と黒い箱には確執がある。あの黒い箱も白い玉同様、人の願いを叶える不思議な力があるのだ。
黒い箱は、持ち主と駆け引きを行い、願いを叶える代わりに、持ち主の体の一部分を取る。その生命エネルギーを使って大きな願いを叶えることが出来るのだ。
白い玉は自分にはその力が無い。と劣等感を感じたときハッとした。
『──熊吉の生命力』
白い玉は、声を控えた。もとより誰にも聞かれてはいなかったが、発言することをやめたのだ。
『ふん。文献などに残されては一大事だ。入念に計画せねばなるまい……』
白い玉は文吉の懐の中で、いつものように息を潜めて存在を消した。
◇
そんなことを知らない文吉は、しばらく奈良屋の背中を見ていたが、そうしていても仕方がない座敷に戻ろうと、熊吉と吉兵衛に持ち掛けたところで、文吉は固まった。
窓の外を見ながら完全に固まったのだ。
「どうしたい。文左衛門の兄貴」
熊吉の言葉に、気が抜けたように言葉を発す。
「おミツ──」
「え!? おみっちゃんだって? どこだい!?」
それはホンの少しの間だった。奈良屋を見つめていたときにすれ違った女に気づいたのだ。
それは、それほど売れていない圓屋という古びた遊廓に入っていったのだ。
熊吉と吉兵衛が見ようと窓に来たときにはすでにその姿は遊廓の中に消えていたのだ。
遊女となって約10年ほどになったろう。くたびれて容色も失いかけ、売れない遊女となっていたのだが、文吉の目には間違いなくあの頃のミツであったのだ。
「──那。旦那ってば。紀文の大旦那!」
吉兵衛の声に文吉は、はっと我に返る。そして襟を正した。
「旦那。それならばあっしがちょっくら圓屋にいって、おミツさんを呼んできましょう。別れ別れになった人は紀伊国屋の大旦那と知ったら、大層驚きますぜ!」
文吉は少し考えた。そして、子どものようないたずら心が涌いたのだ。
「いい。久しぶりの再会だ。後で驚かしてやろうと思う。明日、逆に丁稚か手代の格好で圓屋に遊びに行くんだ。向こうでは遊んだことはないから、主人もそんな姿のワシのことを紀伊国屋だとは思うまい」
そういって文吉は少年のように笑う。それを見た熊吉も吉兵衛も面白くなってきた。
「そりゃ面白い。後から紀伊国屋だと知ったらおミっちゃんは目を回すぞ」
熊吉がそう言うと、今度は吉兵衛が己の胸を叩いた。
「紀文の大旦那。ちょっくらあっしを圓屋に遣いに出してくだせぇ。なぁに。あっしは幇間ですよ。店の主人から怪しまれずにおみつさんの源氏名を聞いてくるなど分けないことです」
それに、文吉も気付いた。まさか店に行っておミツを指名したいなどと言ったらすぐに分かってしまう。
遊女にはそれぞれ源氏名がある。文吉は吉兵衛に頼むと、しばらく吉兵衛は席を外し、やがて戻ってきて文吉へと伝えた。
「行って来やした。先ほど遣いから戻ってきた遊女は誰かと聞くと、“藤佳”という名だそうです」
文吉は手を叩いて喜んだ。
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