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第22話 営業
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文吉は、吉原の町の色艶のある声を聞きながらまんじりともせず、うつらうつらしか出来ずに次の日を迎えた。
熊吉も吉兵衛もそれはそれは楽しそうな顔をしながら帰ってきたので奥歯を噛み締めてこらえた。
「どうでした。紀伊国屋の旦那がた。遊びは楽しかったですか?」
「最高!」
吉兵衛の問いに、熊吉は即座に言葉を返す。しかし文吉はそれほど楽しいものではなかった。
「ワシは蛇の生殺しだったよ。なんだね、あの太夫というものは。ツンツンしてて、自分の芸のひけらかし。アタシャああいう女は嫌いですよ。熊吉が選んだ娘のほうが良かったね」
「ダメだよ。兄ィ。朝露は俺の女だからな」
熊吉の言葉に吉兵衛も同調する。
「吉原では女を渡り歩くのはいけません。一人に惚れたら、それに通わないと行けない掟です。さもないと浮気ですからな。紀文の大旦那は太夫に通って向こうにも惚れて貰うとこういう遊びです」
「でもワシは太夫を好かん」
「いえいえ。最初はみんなそんなものです。高尾太夫は吉原一人気があるんですよ。お客は阿部安芸守、赤井美作守、森山城守とお大名ばかり。九万兵衛の旦那がご祝儀をして下さったのも吉原ではかなり高額。太夫はすぐさま紀文の大旦那になびきますよ」
「はあ~……、そういうものかねェ」
「そこに、眉も動かさずにポンポンと祝儀をはずんでご覧なさい。あちきはだなはんに惚れたでありんす。なんてすぐに言ってきますから。そしたら並み居る大名を押しのけて、日本一の女は紀文の大旦那のものですよォ」
「そうかね」
おだてられて、それは男冥利に尽きるなと思い、袂に手を入れて小判の入った紙の包みを取り出して吉兵衛の前に差し出した。誰の目にも十両や二十両の厚みではなかったのだ。
「あのゥ。紀文の大旦那。これは……」
「これは、この座敷の払いとは別だ。遊女やら太夫やら、座敷や寝床など世話してくれてすまなかったな。昨日の遊び楽しかったぞ。もしよかったらこれからも教えて欲しい。これはその授業料だよ」
吉兵衛はそれを震える手で受け取り息を飲んだ。
「これをあっしに?」
「ああそうだ。またよろしく頼む」
吉兵衛は懐から手拭いを出して、その目を覆う。
「お、おい。こんどはなんの芸だい。芝居かい?」
「いえ旦那。あっしは感動してますんで。あっしは別名、二朱判の吉兵衛と言って、二朱(12500円)でお座敷仕事をさせて貰う野間です。それが一晩で百両(一千万円)とは夢のようです」
「何を言う。吉原は粋な町だ。こんな遊びも粋だろゥ?」
「へへ。さようで」
吉兵衛は、畳の上で手拭いを握った手をさらに握りしめ、二人の前でさらに下がって土下座した。
「紀伊国屋の旦那がた。実はあっしと汐凪は惚れ合っておりまして、五十両ためて身請けをする話をしていたんです。旦那。この金があれば汐凪をヨメを迎えることが出来るんですよ!」
そういって吉兵衛は男泣きだ。畳に伏したまま顔を上げることが出来なかった。
文吉は吉兵衛の元に行ってその背中をさすってやった。
「そうかい。だったら早く行ってやりな。なぁに、ワシらのことは心配しなくってもいい。二人で帰れるからな」
吉兵衛は顔を上げる。
「紀文の大旦那! 申し訳ありません!」
そう言うと、吉兵衛は立ち上がり尾島屋へと汐凪を迎えに走って行ったのだ。
文吉と熊吉が立ち上がり楼閣の二階を下がると、楼主がお座敷代、床代、花代と言われる遊女の呼び出し代、飲み食いの料金を請求してきた。
合計三十両。二人はそんなもんかとポンポンと支払いを済ませると楼主は、剛毅な旦那だと目を丸くした。
外にでると今度は、道を歩くものが、あれが紀文だ。紀伊国屋の旦那がただと声を上げるのが気持ちよかった。
これが紀伊国屋の遊びだと周りに示したのだ。
──途中。すれ違った遊女。それは着古した着物を着ていた。手には風呂敷を抱えている。もしも文吉が気付けば十年ほど前に別れた顔と再会できたであろう。しかし、文吉は熊吉のほうを見ていて気付かなかった。
二人はすれ違った。気付かずに離れてゆく──。
それから文吉たちは大門を出て駕籠に乗り、屋敷へと帰っていった。
数日後。文吉と熊吉が屋敷にいると、お時が来客を知らせるので自分たちの座敷に通すよう命じた。
襖を開けて入ってきたのは二名の男女。二人は文吉と熊吉の前に平伏し膝を揃えて頭を下げた。
「なんだい。吉兵衛に……顔はもう白くはないが、汐凪じゃないか」
そこにいたのは、遊女だった汐凪。顔の白塗りはやめて、現在はすっぴんで髪も服装も町娘そのものであった。
「大旦那さまのおかげでこうして大門の外に出ることができました。名前もシゲと改めました。そして吉兵衛さんと夫婦になることができんした」
「おいおい。廓言葉が出ているぞ」
吉兵衛に言われて慌てて頭をかく汐凪改めてシゲ。愛嬌は遊女のころそのままだ。吉兵衛も二人にお礼を述べる。
「つきましてはお二人に恩返しがしたいのでございます」
「恩返し? というと?」
「また吉原に参りましょう」
「おおそうかい。また遊びを教えてくれるかい」
「はい。今度は客を呼んでようがすか? そして、先日のような大盤振る舞いして頂いても?」
「客? 吉兵衛の友だちかなにかかね? 別に構いやしないよ。じゃあ行くかい」
シゲが見送る中、三人は駕籠に乗って大門をくぐり、扇屋のお座敷に上がった。見晴らしのいい遊廓で、辻にはたくさんの人々が往来している。
遊女六人ほど呼んで、酒を注がせたり、三味線、歌、踊りに興じていたが、今回は吉兵衛は音頭をとらず、窓の外を眺めていた。
文吉と熊吉が吉兵衛の様子をおかしいなと思っていると、窓の外に声を上げて呼びかけた。
「よォ! 親方。寄ってらっしゃい」
呼びかけられたものは、扇屋の前の通りを歩いていたが、声に気付いてふと顔を上げる。
「なんだ。吉兵衛じゃねェか。お前を雇える手銭は持ってねェよ」
「いえ、そうじゃねェんでェ。二階に上がってらっしゃい」
「なんでェ。後から金を請求しやがるなよォ」
呼ばれた男は助平そうな顔をして座敷に入り込んで、文吉と熊吉がいるので驚いた。
「あ! これはこれは紀伊国屋の親分さんじゃありませんか」
そういって、頭を下げる。吉兵衛はすかさずこの男を紹介した。
「紀伊国屋の旦那がた。この方は江戸でも腕のいい大工でして八五郎親方でございます。あちらこちらに子分さんをもっておりますので、顔つなぎに一緒にお遊びになって下さい」
そう言われて、文吉と熊吉はようやく意味が分かった。ここ吉原には金を持った男が集まってくる。そうした中でも選りすぐりの人間を座敷に上げて接待しろという意味だ。
文吉と熊吉は八五郎の横に遊女を呼んで、酒を注がせた。
「まさか紀伊国屋の親分と顔を繫げるとは」
「いえこちらこそ。材木はようを足りてますか?」
「いえそれが今使っているところをちょうど替えようと思っていたところでして」
「さァどうぞお一つ」
談笑してお酒を飲ませて、スッと一両出して渡す。
「今日お会いできたのもご縁です。これで馴染みの女と遊んでらっしゃい」
「え。本当ですか? ありがとうございます!」
これが効果てきめんだった。吉兵衛はどんどんと大工や火消し、役人なんかも座敷に上げて紹介する。熊吉の豪快さ。文吉の剛毅さに客たちは感謝して下がっていった。
この顔つなぎは元々江戸の住人でない文吉や熊吉の交流を広いものとした。江戸の隅々まで、知らないものがいないというような状態にし、商売はますます繁盛。金蔵には千両箱が積み重なった。
熊吉も吉兵衛もそれはそれは楽しそうな顔をしながら帰ってきたので奥歯を噛み締めてこらえた。
「どうでした。紀伊国屋の旦那がた。遊びは楽しかったですか?」
「最高!」
吉兵衛の問いに、熊吉は即座に言葉を返す。しかし文吉はそれほど楽しいものではなかった。
「ワシは蛇の生殺しだったよ。なんだね、あの太夫というものは。ツンツンしてて、自分の芸のひけらかし。アタシャああいう女は嫌いですよ。熊吉が選んだ娘のほうが良かったね」
「ダメだよ。兄ィ。朝露は俺の女だからな」
熊吉の言葉に吉兵衛も同調する。
「吉原では女を渡り歩くのはいけません。一人に惚れたら、それに通わないと行けない掟です。さもないと浮気ですからな。紀文の大旦那は太夫に通って向こうにも惚れて貰うとこういう遊びです」
「でもワシは太夫を好かん」
「いえいえ。最初はみんなそんなものです。高尾太夫は吉原一人気があるんですよ。お客は阿部安芸守、赤井美作守、森山城守とお大名ばかり。九万兵衛の旦那がご祝儀をして下さったのも吉原ではかなり高額。太夫はすぐさま紀文の大旦那になびきますよ」
「はあ~……、そういうものかねェ」
「そこに、眉も動かさずにポンポンと祝儀をはずんでご覧なさい。あちきはだなはんに惚れたでありんす。なんてすぐに言ってきますから。そしたら並み居る大名を押しのけて、日本一の女は紀文の大旦那のものですよォ」
「そうかね」
おだてられて、それは男冥利に尽きるなと思い、袂に手を入れて小判の入った紙の包みを取り出して吉兵衛の前に差し出した。誰の目にも十両や二十両の厚みではなかったのだ。
「あのゥ。紀文の大旦那。これは……」
「これは、この座敷の払いとは別だ。遊女やら太夫やら、座敷や寝床など世話してくれてすまなかったな。昨日の遊び楽しかったぞ。もしよかったらこれからも教えて欲しい。これはその授業料だよ」
吉兵衛はそれを震える手で受け取り息を飲んだ。
「これをあっしに?」
「ああそうだ。またよろしく頼む」
吉兵衛は懐から手拭いを出して、その目を覆う。
「お、おい。こんどはなんの芸だい。芝居かい?」
「いえ旦那。あっしは感動してますんで。あっしは別名、二朱判の吉兵衛と言って、二朱(12500円)でお座敷仕事をさせて貰う野間です。それが一晩で百両(一千万円)とは夢のようです」
「何を言う。吉原は粋な町だ。こんな遊びも粋だろゥ?」
「へへ。さようで」
吉兵衛は、畳の上で手拭いを握った手をさらに握りしめ、二人の前でさらに下がって土下座した。
「紀伊国屋の旦那がた。実はあっしと汐凪は惚れ合っておりまして、五十両ためて身請けをする話をしていたんです。旦那。この金があれば汐凪をヨメを迎えることが出来るんですよ!」
そういって吉兵衛は男泣きだ。畳に伏したまま顔を上げることが出来なかった。
文吉は吉兵衛の元に行ってその背中をさすってやった。
「そうかい。だったら早く行ってやりな。なぁに、ワシらのことは心配しなくってもいい。二人で帰れるからな」
吉兵衛は顔を上げる。
「紀文の大旦那! 申し訳ありません!」
そう言うと、吉兵衛は立ち上がり尾島屋へと汐凪を迎えに走って行ったのだ。
文吉と熊吉が立ち上がり楼閣の二階を下がると、楼主がお座敷代、床代、花代と言われる遊女の呼び出し代、飲み食いの料金を請求してきた。
合計三十両。二人はそんなもんかとポンポンと支払いを済ませると楼主は、剛毅な旦那だと目を丸くした。
外にでると今度は、道を歩くものが、あれが紀文だ。紀伊国屋の旦那がただと声を上げるのが気持ちよかった。
これが紀伊国屋の遊びだと周りに示したのだ。
──途中。すれ違った遊女。それは着古した着物を着ていた。手には風呂敷を抱えている。もしも文吉が気付けば十年ほど前に別れた顔と再会できたであろう。しかし、文吉は熊吉のほうを見ていて気付かなかった。
二人はすれ違った。気付かずに離れてゆく──。
それから文吉たちは大門を出て駕籠に乗り、屋敷へと帰っていった。
数日後。文吉と熊吉が屋敷にいると、お時が来客を知らせるので自分たちの座敷に通すよう命じた。
襖を開けて入ってきたのは二名の男女。二人は文吉と熊吉の前に平伏し膝を揃えて頭を下げた。
「なんだい。吉兵衛に……顔はもう白くはないが、汐凪じゃないか」
そこにいたのは、遊女だった汐凪。顔の白塗りはやめて、現在はすっぴんで髪も服装も町娘そのものであった。
「大旦那さまのおかげでこうして大門の外に出ることができました。名前もシゲと改めました。そして吉兵衛さんと夫婦になることができんした」
「おいおい。廓言葉が出ているぞ」
吉兵衛に言われて慌てて頭をかく汐凪改めてシゲ。愛嬌は遊女のころそのままだ。吉兵衛も二人にお礼を述べる。
「つきましてはお二人に恩返しがしたいのでございます」
「恩返し? というと?」
「また吉原に参りましょう」
「おおそうかい。また遊びを教えてくれるかい」
「はい。今度は客を呼んでようがすか? そして、先日のような大盤振る舞いして頂いても?」
「客? 吉兵衛の友だちかなにかかね? 別に構いやしないよ。じゃあ行くかい」
シゲが見送る中、三人は駕籠に乗って大門をくぐり、扇屋のお座敷に上がった。見晴らしのいい遊廓で、辻にはたくさんの人々が往来している。
遊女六人ほど呼んで、酒を注がせたり、三味線、歌、踊りに興じていたが、今回は吉兵衛は音頭をとらず、窓の外を眺めていた。
文吉と熊吉が吉兵衛の様子をおかしいなと思っていると、窓の外に声を上げて呼びかけた。
「よォ! 親方。寄ってらっしゃい」
呼びかけられたものは、扇屋の前の通りを歩いていたが、声に気付いてふと顔を上げる。
「なんだ。吉兵衛じゃねェか。お前を雇える手銭は持ってねェよ」
「いえ、そうじゃねェんでェ。二階に上がってらっしゃい」
「なんでェ。後から金を請求しやがるなよォ」
呼ばれた男は助平そうな顔をして座敷に入り込んで、文吉と熊吉がいるので驚いた。
「あ! これはこれは紀伊国屋の親分さんじゃありませんか」
そういって、頭を下げる。吉兵衛はすかさずこの男を紹介した。
「紀伊国屋の旦那がた。この方は江戸でも腕のいい大工でして八五郎親方でございます。あちらこちらに子分さんをもっておりますので、顔つなぎに一緒にお遊びになって下さい」
そう言われて、文吉と熊吉はようやく意味が分かった。ここ吉原には金を持った男が集まってくる。そうした中でも選りすぐりの人間を座敷に上げて接待しろという意味だ。
文吉と熊吉は八五郎の横に遊女を呼んで、酒を注がせた。
「まさか紀伊国屋の親分と顔を繫げるとは」
「いえこちらこそ。材木はようを足りてますか?」
「いえそれが今使っているところをちょうど替えようと思っていたところでして」
「さァどうぞお一つ」
談笑してお酒を飲ませて、スッと一両出して渡す。
「今日お会いできたのもご縁です。これで馴染みの女と遊んでらっしゃい」
「え。本当ですか? ありがとうございます!」
これが効果てきめんだった。吉兵衛はどんどんと大工や火消し、役人なんかも座敷に上げて紹介する。熊吉の豪快さ。文吉の剛毅さに客たちは感謝して下がっていった。
この顔つなぎは元々江戸の住人でない文吉や熊吉の交流を広いものとした。江戸の隅々まで、知らないものがいないというような状態にし、商売はますます繁盛。金蔵には千両箱が積み重なった。
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