紀伊国屋文左衛門の白い玉

家紋武範

文字の大きさ
上 下
12 / 58

第12話 時化

しおりを挟む
 江戸に向けての航海。順調だったのは最初だけ。沖には黒い雲がもくもくと湧き出るのが見えた。今は南からくる潮風が追い風となってはいるが、嵐になったら分からない。
 文吉を含めた船員たちはもう一度荷物が固定されているか確認した。そして、自分たちの腰にも命綱を結ぶ。もし雨風で船から吹き飛ばされても船に戻ってこれるようにだ。

 そのうちに、ポツリと頬に雨粒があたる。冷たい風が船員たちを襲った。

「みんな! 気合いを入れろ! 気を抜くな!」

 文吉は大声で叫んだ。源八は船を操舵する。
 高波が甲板に入り込む。それを船員たちは汲み上げて海に捨てるものの汲んだそばから新しい波が押し寄せてくる。

だぶーり。だぶり。

 船の横面を波が打ちつけ、あっちに横になり、こっちに横になり。源八は必死に帆の向きを変えて波に逆らって前へと進む。
 大波が船を高く持ち上げ、放り投げるように海面へと叩き付ける。みな立っているだけで精一杯だ。中には腰を低くしなくてはならない者も。
 波に揉まれ、風に回され、目印も陸も見えない。ただ必死に生にしがみつくように船にしがみつく。
 源八は叫ぶ。

「旦那の船を沈めちゃ、男が立たねェ! 野郎ども! 気合いを入れろ!」
「おう!」

 源八の言葉に仲間たちが応えたときだった。大きな波がみかん船を打つ。大きな音を立てて潮が入り込み、波が引いたところに源八がいない。
 帆柱へと結びつけていた縄は、ぶっつりと切れていた。

「源八ィ!」

 熊吉は叫ぶ。辺りは黒い波ばかりだ。文吉はここで源八を失ってはならないと、ケンカした白い玉に懇願した。

「玉さま! どうか源八をお助け下さい!」
『ふん。調子がいいわよ、文吉』

「無礼の段、ひらにひらにご容赦を!」
『私の力を借りなくては、何も出来ないことが分かったようね』

「はい。分かりました!」
『ならばよろしい』

 黒い黒い潮水の中から、釣り上げられた魚のように飛び上がり、源八は甲板に叩き付けられた。潮が入り込んだ甲板は幾分クッションになったようで、源八は咳をしながら立とうとする。
 みんな、突然戻ってきた源八に目を丸くしていたが、これが現実だ。奇跡が起きたのだ。そこに熊吉が走り込んで、源八を抱きかかえ残った縄を手繰り寄せ、また帆柱へと結びつけた。

「おい、源八しかっりしろ!」
「お、おうよ。大丈夫だ。すまねえ、九万兵衛」

 源八は持ち直した。
 長い長い格闘。終わりなど見えない。黒雲で夜のように暗い。夜はさらにまわりが見えない。長い時間、海という怪物と戦い続けて、乗組員全員が疲れ果てた。



 やがて頬を打つ雨も、上から降り注ぐ潮水も、強い強い風の力も少しずつ、少しずつやわらいでゆく。
 波風も雨も強いままだ。しかし地獄のような嵐を通り抜けたことは誰もが感じていた。

 文吉の船は、難所を通り抜けたのだ。誰言うとなく、吹き出して笑った。緊張感が一気にほぐれたのだ。なにも面白いことなどないのに、拾った生に皆大きく笑ったのだ。

「旦那。難所は通り過ぎやしたね!」
「源八。一時はどうなることかと思ったが」

「これで我々は舟幽霊となることはなくなりましたな」
「おうよ。眠れやしないが、交代でそれぞれ休もうじゃねぇか」

 文吉の提案で、二人ずつ交代で船を管理し、後のものは船室で休むことにした。みんなそれぞれ疲れた体を投げ出して、いつしか眠りにつくのだった。






「旦那。旦那。お起きなさい、旦那」
「──ん? どうした?」

「佐平次の姿がありません」
「なに?」

 起こされて文吉は目を覚ました。周りのものは全て起きており、佐平次の姿を捜していた。

「どうした。なにがあった?」

 すると、佐平次と船の当番をしていた弥兵衛やへえという男が自分の肩ぐらいまで手を上げた。

「へぇ。あっしと佐平次で船の前と後ろに別れていたのですが、あっしもついうっかり、うとうとしてしまい、目を覚ましたらこの有様でして、へい」
「海にでも落ちたのか?」

「分かりません。ただ、夢うつつの中で、蕎麦を啜るような音が聞こえました。ズルズル、ズルズルっと」
「この海の上で蕎麦屋なんてあるわけがない。波の音がそんなふうに聞こえたのかもしれんな」

 皆、首をかしげた。そして佐平次は、海を覗き込んだ折りにふかに飲み込まれてしまったのかも知れないという結論に達した。





 ずいぶんと波も落ち着き、黒い雲も薄れて星空が見えるようになった。源八は星の位置から陸地を割り出し、船首をそちらへと向けた。

 やがて船の上から、陸地に大きな町が見えてきた。そびえ立つ城も見える。

「江戸だッ!」

 一人が叫ぶ。その言葉に文吉と熊吉の肩の力がふっと抜けるように感じた。そして兄弟して顔を見合わせてつぶやく。

「あれが江戸か──」

 大きな大きな町だ。この船を見たからだろうか? 歓声が聞こえる。それはみかん船を迎える、江戸の住人たちの声であった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

歴史漫才~モトヤん家の変~

歴史漫才
歴史・時代
日本歴史のパロディ漫才です。モトヤ(ボケ)ソウマ(ツッコミ)の日常をお楽しみください。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

岩倉具視――その幽棲の日々

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 幕末のある日、調子に乗り過ぎた岩倉具視は(主に公武合体とか和宮降嫁とか)、洛外へと追放される。 切歯扼腕するも、岩倉の家族は着々と岩倉村に住居を手に入れ、それを岩倉の幽居=「ねぐら」とする。 岩倉は宮中から追われたことを根に持ち……否、悶々とする日々を送り、気晴らしに謡曲を吟じる毎日であった。 ある日、岩倉の子どもたちが、岩倉に魚を供するため(岩倉の好物なので)、川へと釣りへ行く。 そこから――ある浪士との邂逅から、岩倉の幽棲――幽居暮らしが変わっていく。 【表紙画像】 「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

肩越の逢瀬 韋駄天お吟結髪手控

紅侘助(くれない わびすけ)
歴史・時代
江戸吉原は揚屋町の長屋に住む女髪結師のお吟。 日々の修練から神速の手業を身につけ韋駄天の異名を取るお吟は、ふとしたことから角町の妓楼・揚羽屋の花魁・露菊の髪を結うように頼まれる。 お吟は露菊に辛く悲しいを別れをせねばならなかった思い人の気配を感じ動揺する。 自ら望んで吉原の遊女となった露菊と辛い過去を持つお吟は次第に惹かれ合うようになる。 その二人の逢瀬の背後で、露菊の身請け話が進行していた―― イラストレーター猫月ユキ企画「花魁はなくらべ その弐」参加作。

猿の内政官の息子

橋本洋一
歴史・時代
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~ の後日談です。雲之介が死んで葬儀を執り行う雨竜秀晴が主人公です。全三話です

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

わが友ヒトラー

名無ナナシ
歴史・時代
史上最悪の独裁者として名高いアドルフ・ヒトラー そんな彼にも青春を共にする者がいた 一九〇〇年代のドイツ 二人の青春物語 youtube : https://www.youtube.com/channel/UC6CwMDVM6o7OygoFC3RdKng 参考・引用 彡(゜)(゜)「ワイはアドルフ・ヒトラー。将来の大芸術家や」(5ch) アドルフ・ヒトラーの青春(三交社)

処理中です...