2 / 58
第2話 お稲荷様のお使い
しおりを挟む
それから数日後──。
ミツの家に馬を挽いた男がやって来た。ミツの家の主人は笑いながら頭を下げて、ミツを馬の上に乗せる。
文吉はただそれを畑の斜面から仕事の手を止めて見ていた。ミツも文吉のほうをジッと見ていた。
文吉はそれに手を振ることしか出来ない。無力な人間。身分もへったくれもない。家畜同然の人間たち。
しかし文吉もミツも拾われなければ生きることすら叶わなかった。僅かな時間でも恋を出来たのは幸せだと考えるべきだろうか?
文吉はそうは思わなかった。やがて文吉も家主に申し入れて自分自身を身売りした。
男の身売りなんてものは大したものじゃない。米一俵と三両。これで商家へと売られたのだ。
文吉の主人も、目先の金に捕らわれて労働力にも関わらずそうそうに家を出した。文吉14歳の頃であった。
金さえあれば──。
金があれば自由だ。自分の人生を進むことができる。ミツとも再開できるかもしれない。ミツもそれを待っているのかも知れない──。
文吉の人生の始まりであった。
◇
文吉の入った商家は醤油の製造と販売を営む大店であった。住み込みの従業員を50人ほど抱えており、活気があった。
文吉は、店の仕事をする傍ら商売を学んだ。もともと才能があったのかも知れない。農家にいた頃はとにかく働く労働力。働きアリくらいにしか思われなかった。
しかし、商家の主人は違った。利発で働き者の文吉を愛した。目をかけたのだ。文吉も主人の期待に応え、二手、三手先を読んで主人に気を配った。
大抵の従業員たちは文吉に好意的であったが、当然、文吉への主人の寵愛を面白くないものもいる。大男の熊吉がそうだ。
熊吉は文吉と同い年で同じ境遇。つまり孤児だ。しかし、文吉より3年も早くこの店に奉公に出ていたので、後輩の文吉が優遇されるのが面白くない。
身の丈6尺2寸(約185cm)。怪力無双で醤油が入ったままの樽を両手で引っ掴んで移動できるほどの男であった。普通は四、五人いないとできないにも関わらずだ。
そんな熊吉は、密かに金を稼ぐ方法を持っていた。奉公人が頭を並べて寝る場所は二十畳もある大広間だが、布団を片して相撲をとることだ。
相撲といっても普通の相撲ではない。熊吉は腕組みをしたまま畳の縁に立つ。その自分を十数える間に畳の縁から動かせば500文(12500円)払うというのだ。ただし挑戦料に50文(1250円)。
「ひー。ふー。みー。よー。いつ。むー。なな。やー。ここのー。とー」
「ダメだぁ。かなわねェ」
血気盛んな奉公人たちはこぞってこれに挑戦したが誰も敵わない。畳の縁で腕組みをしたまま熊吉は笑う。
挑戦料のおかげで熊吉の貯金箱には結構な金が貯まっていた。
熊吉は文吉に、俺に挑戦せよと言ってきたのだ。文吉とて農家で鍛えた体だ。それなりに腕に自信はあるものの、熊吉は桁違いだ。そんなことで大事な50文をなくしたくない。
他のものとは違い、買われた身だ。給金はない。しかし、ご主人が子どもの祝いのたびに小遣いをくれた。使い先のご主人が飴代だと小遣いをくれた。それをため続けて300文ばかりあったが、その中で50文は大きかった。
「勝てば500文だぞぅ!」
熊吉の挑発。イラつくがこれに乗っては負けだ。しかし、周りの仲間たちも囃し立てる。自分たちも50文失ったのに文吉だけ失わないのも癪に障るのだ。
「やれぇやれぇ」
「逃げるな文吉。卑怯だぞぅ」
雰囲気に飲まれるのはこういうことなのであろう。いつの間にかやることが義務付けられている。こんな賭けの成立しない相手に、賭けをするなど狂気の沙汰だ。
文吉は逃げたかったが、周りの目がいつやるのかと訴えている。
「ああ、おらはどうしたらいいんじゃ──」
主人に使いを命じられた帰り道。突然の雨に降られて、文吉は山道の中に見つけたお堂の中で雨宿りをしながらつぶやいた。
神様の住まうお社の中で不遜とは思いながらも、大地を穿つ大雨がやむまでと、お堂の隅の方に腰を下ろしていたのだ。
空は真っ暗で昼間なのに夜のよう。激しい雨風。轟く雷鳴。そんな中であるから、木立に隠れたお堂の中は真っ暗で不気味この上なかった。
「今夜はここで夜明かしになるかもしれないなぁ」
ポツリとつぶやくと、一人しかいないはずのお堂の奥から声が聞こえるではないか。
『大丈夫。もうすぐやむわ──』
文吉はドキリとしたがそれに応じずにいた。中年の女の声だ。これは古き生きた狐狸が妖怪となって自分を誑かさんと女に化け、何ごとかを企んでいるのだろうと思ったのだ。
『アンタ悩みがあるんだろう? ここで会ったのも何かの縁よ。おばちゃんがアンタの願いを叶えてあげよう』
勝手に話を続けているが、恐ろしい。文吉は口を押さえて息も聞こえないようにしていた。女の声は、その後も続く。
『やぁねぇ。警戒してるわね。大丈夫。おばちゃんは神様のお使いよ。大事にしないとバチが当たるかもよ?』
続く挑発。この声に応じたらいけない。文吉は膝に顔を埋めて耳を押さえた。
『ああん、もうじれったいわねぇ』
神社の中に灯りが灯る。それは見たこともない光り。膝の中に顔を埋める文吉の膝の隙間から光りが見える。たまらず文吉は顔を上げた。
そこには、手のひら大の白い玉が転がっていたのだ。
「わぁ!」
『なーによ。驚くなんて失礼しちゃうわね』
「お、お、お稲荷様のお使いですか?」
『あらこの神社は稲荷神社だったのかしら? だったらそうよ』
見たことも聞いたこともない素材が提灯より明るく発光している。文吉は何が起こっているのか見当もつかなかった。
ミツの家に馬を挽いた男がやって来た。ミツの家の主人は笑いながら頭を下げて、ミツを馬の上に乗せる。
文吉はただそれを畑の斜面から仕事の手を止めて見ていた。ミツも文吉のほうをジッと見ていた。
文吉はそれに手を振ることしか出来ない。無力な人間。身分もへったくれもない。家畜同然の人間たち。
しかし文吉もミツも拾われなければ生きることすら叶わなかった。僅かな時間でも恋を出来たのは幸せだと考えるべきだろうか?
文吉はそうは思わなかった。やがて文吉も家主に申し入れて自分自身を身売りした。
男の身売りなんてものは大したものじゃない。米一俵と三両。これで商家へと売られたのだ。
文吉の主人も、目先の金に捕らわれて労働力にも関わらずそうそうに家を出した。文吉14歳の頃であった。
金さえあれば──。
金があれば自由だ。自分の人生を進むことができる。ミツとも再開できるかもしれない。ミツもそれを待っているのかも知れない──。
文吉の人生の始まりであった。
◇
文吉の入った商家は醤油の製造と販売を営む大店であった。住み込みの従業員を50人ほど抱えており、活気があった。
文吉は、店の仕事をする傍ら商売を学んだ。もともと才能があったのかも知れない。農家にいた頃はとにかく働く労働力。働きアリくらいにしか思われなかった。
しかし、商家の主人は違った。利発で働き者の文吉を愛した。目をかけたのだ。文吉も主人の期待に応え、二手、三手先を読んで主人に気を配った。
大抵の従業員たちは文吉に好意的であったが、当然、文吉への主人の寵愛を面白くないものもいる。大男の熊吉がそうだ。
熊吉は文吉と同い年で同じ境遇。つまり孤児だ。しかし、文吉より3年も早くこの店に奉公に出ていたので、後輩の文吉が優遇されるのが面白くない。
身の丈6尺2寸(約185cm)。怪力無双で醤油が入ったままの樽を両手で引っ掴んで移動できるほどの男であった。普通は四、五人いないとできないにも関わらずだ。
そんな熊吉は、密かに金を稼ぐ方法を持っていた。奉公人が頭を並べて寝る場所は二十畳もある大広間だが、布団を片して相撲をとることだ。
相撲といっても普通の相撲ではない。熊吉は腕組みをしたまま畳の縁に立つ。その自分を十数える間に畳の縁から動かせば500文(12500円)払うというのだ。ただし挑戦料に50文(1250円)。
「ひー。ふー。みー。よー。いつ。むー。なな。やー。ここのー。とー」
「ダメだぁ。かなわねェ」
血気盛んな奉公人たちはこぞってこれに挑戦したが誰も敵わない。畳の縁で腕組みをしたまま熊吉は笑う。
挑戦料のおかげで熊吉の貯金箱には結構な金が貯まっていた。
熊吉は文吉に、俺に挑戦せよと言ってきたのだ。文吉とて農家で鍛えた体だ。それなりに腕に自信はあるものの、熊吉は桁違いだ。そんなことで大事な50文をなくしたくない。
他のものとは違い、買われた身だ。給金はない。しかし、ご主人が子どもの祝いのたびに小遣いをくれた。使い先のご主人が飴代だと小遣いをくれた。それをため続けて300文ばかりあったが、その中で50文は大きかった。
「勝てば500文だぞぅ!」
熊吉の挑発。イラつくがこれに乗っては負けだ。しかし、周りの仲間たちも囃し立てる。自分たちも50文失ったのに文吉だけ失わないのも癪に障るのだ。
「やれぇやれぇ」
「逃げるな文吉。卑怯だぞぅ」
雰囲気に飲まれるのはこういうことなのであろう。いつの間にかやることが義務付けられている。こんな賭けの成立しない相手に、賭けをするなど狂気の沙汰だ。
文吉は逃げたかったが、周りの目がいつやるのかと訴えている。
「ああ、おらはどうしたらいいんじゃ──」
主人に使いを命じられた帰り道。突然の雨に降られて、文吉は山道の中に見つけたお堂の中で雨宿りをしながらつぶやいた。
神様の住まうお社の中で不遜とは思いながらも、大地を穿つ大雨がやむまでと、お堂の隅の方に腰を下ろしていたのだ。
空は真っ暗で昼間なのに夜のよう。激しい雨風。轟く雷鳴。そんな中であるから、木立に隠れたお堂の中は真っ暗で不気味この上なかった。
「今夜はここで夜明かしになるかもしれないなぁ」
ポツリとつぶやくと、一人しかいないはずのお堂の奥から声が聞こえるではないか。
『大丈夫。もうすぐやむわ──』
文吉はドキリとしたがそれに応じずにいた。中年の女の声だ。これは古き生きた狐狸が妖怪となって自分を誑かさんと女に化け、何ごとかを企んでいるのだろうと思ったのだ。
『アンタ悩みがあるんだろう? ここで会ったのも何かの縁よ。おばちゃんがアンタの願いを叶えてあげよう』
勝手に話を続けているが、恐ろしい。文吉は口を押さえて息も聞こえないようにしていた。女の声は、その後も続く。
『やぁねぇ。警戒してるわね。大丈夫。おばちゃんは神様のお使いよ。大事にしないとバチが当たるかもよ?』
続く挑発。この声に応じたらいけない。文吉は膝に顔を埋めて耳を押さえた。
『ああん、もうじれったいわねぇ』
神社の中に灯りが灯る。それは見たこともない光り。膝の中に顔を埋める文吉の膝の隙間から光りが見える。たまらず文吉は顔を上げた。
そこには、手のひら大の白い玉が転がっていたのだ。
「わぁ!」
『なーによ。驚くなんて失礼しちゃうわね』
「お、お、お稲荷様のお使いですか?」
『あらこの神社は稲荷神社だったのかしら? だったらそうよ』
見たことも聞いたこともない素材が提灯より明るく発光している。文吉は何が起こっているのか見当もつかなかった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
岩倉具視――その幽棲の日々
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
幕末のある日、調子に乗り過ぎた岩倉具視は(主に公武合体とか和宮降嫁とか)、洛外へと追放される。
切歯扼腕するも、岩倉の家族は着々と岩倉村に住居を手に入れ、それを岩倉の幽居=「ねぐら」とする。
岩倉は宮中から追われたことを根に持ち……否、悶々とする日々を送り、気晴らしに謡曲を吟じる毎日であった。
ある日、岩倉の子どもたちが、岩倉に魚を供するため(岩倉の好物なので)、川へと釣りへ行く。
そこから――ある浪士との邂逅から、岩倉の幽棲――幽居暮らしが変わっていく。
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より

あやかし娘とはぐれ龍
五月雨輝
歴史・時代
天明八年の江戸。神田松永町の両替商「秋野屋」が盗賊に襲われた上に火をつけられて全焼した。一人娘のゆみは運良く生き残ったのだが、その時にはゆみの小さな身体には不思議な能力が備わって、いた。
一方、婿入り先から追い出され実家からも勘当されている旗本の末子、本庄龍之介は、やくざ者から追われている途中にゆみと出会う。二人は一騒動の末に仮の親子として共に過ごしながら、ゆみの家を襲った凶悪犯を追って江戸を走ることになる。
浪人男と家無し娘、二人の刃は神田、本所界隈の悪を裂き、それはやがて二人の家族へと繋がる戦いになるのだった。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

仇討ちの娘
サクラ近衛将監
歴史・時代
父の仇を追う姉弟と従者、しかしながらその行く手には暗雲が広がる。藩の闇が仇討ちを様々に妨害するが、仇討の成否や如何に?娘をヒロインとして思わぬ人物が手助けをしてくれることになる。
毎週木曜日22時の投稿を目指します。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
肩越の逢瀬 韋駄天お吟結髪手控
紅侘助(くれない わびすけ)
歴史・時代
江戸吉原は揚屋町の長屋に住む女髪結師のお吟。
日々の修練から神速の手業を身につけ韋駄天の異名を取るお吟は、ふとしたことから角町の妓楼・揚羽屋の花魁・露菊の髪を結うように頼まれる。
お吟は露菊に辛く悲しいを別れをせねばならなかった思い人の気配を感じ動揺する。
自ら望んで吉原の遊女となった露菊と辛い過去を持つお吟は次第に惹かれ合うようになる。
その二人の逢瀬の背後で、露菊の身請け話が進行していた――
イラストレーター猫月ユキ企画「花魁はなくらべ その弐」参加作。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる