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中篇

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始皇帝は名を『せい』といった。
母親の名は『趙姫ちょうき』。
彼は物心が付いたとき隣国、趙にいた。
父親は元々秦王の孫であったが妾腹しょうふくであったため趙の人質となっていた。だが、己の父が自分を後継としたので秦に逃げ帰っていたのだ。
その逃亡の時、政と母親は脱出出来ず、趙に留まり、人の目を避けて生活していた。
しかし、人里離れて幼子を抱え女が生活するには限界がある。
母は身売りをするため、人里に降りてきた。
しかしどこからか漏れてしまう出自。
ことあるごとに政は外国人、秦の犬と蔑まれた。
もし明日、秦が国境を侵せば捕らえられ見せしめに死刑になってもおかしくはない。

こんな小さい子ども。だが周りは敵だらけ。
ことあるごとに殴られ、蹴られ、父親に棄てられたと罵られた。
政の心の拠り所など無かった。
いや、あるとすれば母親だけだ。

「おかあたん。お花を摘んできたよ~」
「まぁ、ありがとう」

小さい手で摘まれた小さな花を二人の小さな家に飾る。
母親は涙が出るほど嬉しかった。
二人を哀れに思い施しをしてくれる者もいたが、足りるものではない。
生活のために政の母親は男の袖を引いて家に入れた。

「政や。この人とお話があるから、お外で遊んでおいで」
「うん……」

政は外で遊ぶのが嫌だった。趙の奴らにいじめられるだけだ。
しかし、母親の言いつけだ。悲しませたくない。喜ぶ顔も見たい。毎回違う男と『お話』をするときの夕食にはいつも肉が食べられた。
その食卓に彩りを添えよう。彼は人の通らない路地を歩き、花畑を探した。
赤い花がたくさん咲いている場所があり、母の顔を浮かべながらそれを丁寧に摘み取った。

「おいおい。秦人が土地だけに飽き足らず、花まで取ろうとしてやがるぜ」

気付くと政は子どもたちに囲まれていた。

「あの……これ、おかあたんに……」
「知らねぇよ。ウチの父ちゃんは秦との戦で死んだんだ!」

そう言って、政の手から花束を叩き落とし殴りつけた。
パッと飛び散ったのは花びらだったか? 血だったのか?
政はそのまま殴られ蹴られ、棒切れで打ち据えられた。余りの執拗な暴力に政は昏倒こんとうした。やがて目を覚ますと誰もいなくなっていた。

「おかあたんに……お花を摘んでいかないと……でもよく見えないや……。変だなぁ……」

政は泣きながらもう一度花を摘み直した。
体が痛い。鼻から血もでている。
体を引きずって、彼は小さな小屋に帰ると、母は嬌声を上げて先ほどの男に抱きついていた。
政は驚いて母への花束を床に落としてしまった。

「おかあたん……ただいま」
「ぼ、坊や……。そ、外で遊んでおいで……」

男は興を削がれて寝台より立ち上がり、政の前に立って凄んだ。

「おっかさんの仕事を邪魔すんな! この秦の犬!」

男の拳はえぐるように政の頬を打ち据えた。
政はぐるりとひと回転をしてその場に倒れ込んだ。
男は衣服を整え、出て行こうとしたところを、政の母が引き留めた。

「あ、あのぅ。お代を」
「ふん。秦人に股を開いた牝狗めすいぬめ。趙人でなかったら金など払わぬところだ」

男は財布から布銭ふせんを少しばかり取り出すと、床に放り投げ出て行った。
政の母は、すぐに政を抱きしめた。

「ゴメンね。坊や。痛かったろう?」
「ううん。ちっとも痛くなんかない。僕は強いんだ」

政は母に心配かけまいと強がった。
小さな政のそんな姿を見て母はますます強く抱きしめるのだった。

政が成長してくると母親の出来る仕事も多くなり、娼婦を辞めた。
農家の手伝い、お針子。
政も人に見つからないように食用の田蛙でんじい田螺たにしを取ったり、野草や茸を採ったりして生活を支えた。

政は趙を憎んだ。父も憎んだ。秦を憎んだ。人間を憎んだ。
自分と母が人ならぬ生活を送るのはそのせいだ。
もはや政には母親しかなかったのだ。

政が10歳になる頃。
逃げた父親は秦にて王に即位した。秦30代の君主、荘襄王そうじょうおうである。
驚いたのは趙だ。殴る蹴るをしていた政の父が王!
急いで政と母親を秦に送り返した。

豪華な馬車に乗せられ、文官武官に周りを固められ秦に進んでゆく。
今までの境遇からは考えられなかった。

父である秦王は政と妻の趙姫を歓待したが、政は心を許さなかった。
10年は長かった。
政は母親にしか心を許していない。
たった一人の肉親は母だけなのだ。

だが母は父を尊敬し、丞相の呂不韋りょふいを頼るように諭したので、政も上辺はそのようにしていた。

父親が秦王に即位して三年目に身罷った。
すぐさま政が秦王として即位すると、家臣たちは「千歳せんざい!」と叫んだ。だが政はそれをただの追従ついしょうと冷ややかな目で見ていた。
それはまるで鷹や鷲の猛禽もうきんの目であった。

政が秦王になったが実権は丞相の呂不韋や親族が握っていた。
しかし、政は韓非の政治理論を実践し、自分の権力を少しずつ強くしていったのだ。
そんな政だが母親と接するときは違う。
後宮で母を見かけた。彼女は息子の通るのを邪魔しまいと、廊下の端により、彼の頭より下に頭を下げた。
秦の作法では尊い王の前では中腰で走り去らなくてはいけない。
だが政は母にだけはそれをさせなかった。

「王太后さま。欲しいものがあったら何でも言って下さいよ。夜は寒くはないですか? 料理の味は薄くはないですか?」
「ええ。陛下。大丈夫でございます」

二人の呼び方は変わっても真心は変わっていなかった。
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