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4.カモシカの解体とハツ炒めなどなど
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「ハツも炒めて食べてしまいましょう。こりこりしてて美味しいですよ。お肉は若い個体ですが二週間くらい待ちましょうか。それくらいおいたほうが美味しくなります。後のお楽しみですね」
サチヤさんは手にしたカモシカの心臓をぼくの目の前に持っていき、それからまな板の上に置いた。もう心臓ではない、ハツだ。
ぼくはお猪口に残ったどぶろくを一気に飲み干した。切り分けられたハツはフライパンで炒められ、ぼくの目の前に置かれた。明日仕事が早かったのをふと思い出したが、ぼくはそんなことおかまいなしにハツを肴に新たについでもらったどぶろくを飲んだ。こりこりした歯ごたえがたまらない。塩こしょうが効いていて酒がすすんだ。
サチヤさんは口の中でこりこり音をたてながら、カモシカの入っていない小さなシンクを使って、さっきまでポケットに入っていた木の実と棒を洗い出した。むかごと自然薯だそうだ。むかごは軽くゆでられた。ぼくはほこほこ熱いむかごを塩につけて食べ、サチヤさんが追加で出してくれた純米吟醸酒といっしょに流し込んだ。冷えた体が徐々にあたたまってくるのがわかった。
公園の崖近くにはむかごがたくさんなっていて、今日サチヤさんはそれを採取し、根元の自然薯を堀り出していたという。折れることなく自然薯を掘り出すのがとても難しいことを彼は語った。ひざが隠れるくらいまで穴が掘られ、きれいな形を留めながら出てきたのがそれだった。
「根気のいる作業なのですよ。こちらは失敗作です」
サチヤさんは掘った途中で折れてしまった自然薯をぼくに見せた。
ぼくはサチヤさんによそってもらった自然薯のとろろご飯をずるずると食べた。ぼくはあまりとろろというものが好きではなかった。なんだろう、鼻水をすすってのどに落ちるようなあの感覚が苦手なのだ。でもサチヤさんのとろろはそんなこと気にならないほど香り高かった。ぼくはおかわりをした。
「大地の味ですね。あまり出汁を入れすぎないのが良い」
サチヤさんはどんぶりにごはんをよそい、とろろをかけてぼくに渡した。とても粘り気が強い。ぼくは海苔をぱらぱら乗せ、またずるずると食べた。いくらでも入っていくような気がした。近くには死んだカモシカがいるのに、なんだか腹がへってしょうがなかった。
こういうときほど食欲があるのはどういうことなのだろうか。そういえば数年前の祖父のお通夜、ぼくは亡骸をながめながら祖母から出された夕食を従兄弟とがつがつ食べていた。死は空腹をもたらすのか。いや、死が目の前にあっても腹はへるのだ。
サチヤさんはカモシカの皮を剥ぎにかかった。首や手足まわりの皮膚にそれぞれぐるっと一周切れ込みを入れた。今度はカモシカを頭から吊るしなおし、首の切れ目から刃物を使わずに指で剥がしていった。ずるっと、皮はコートを脱がせるように剥げていった。毛皮をまとった顔だけがカモシカの原型を不気味にとどめていた。自分でよそった三杯目のとろろご飯を食べながら、その様子をぼくは平気で見ていることができた。酔っ払ってしまったのだろうか。
「剥がした皮はどうするのですか?」
「親カモシカくらい大きかったらねえ。なめして使うってほどでもないですから捨ててしまいましょう」
カモシカは大きなまないたの上に置かれ、頭の部分が切断された。ようやくぼくに向けられていたような、カモシカの切なくうつろな視線が消えた。サチヤさんが扱っているのは完全に肉の塊に見えた。残っていた最後の不気味さが消えていくのがわかった。
「始まってしまうとああこんなもんかって感じしませんか?」
サチヤさんがぼくを見た。
「ええ、まあ。いつの瞬間から肉だと感じますか?」
「死んだ瞬間かな、と思ったときもあれば、それを獲物として認識してからというときもあります。今は肉です」
「でしょうね。祖父が亡くなったときを思い出しました。亡骸と対面したときは何か別な存在に感じたのをおぼえています。それこそ肉、というとらえかたなんでしょうか」
身近な人の死の感覚は、今のカモシカとそんなに変わらないことになるのだろうか。違うとすれば、この生命はぼくが発端となって消してしまったということだ。
「なるほど。こういう話をしていると、何かやはり、こう、寄ってきているなって感じがしませんか。死者は止め処なく話題を提供してくれます」
「やめてくださいよ」
「あなた、人魂食べたことある?」
「なんですかまた。ないですよ、もちろん」
「牡蠣みたいな味がしますよ。フライにするといい。レモンをしぼって中濃ソースがうまいです。タルタルソースもいいけどね。のっほっほ」
サチヤさんは会話のあいだも手が動いていた。別の刃物に替え精肉作業にうつった。皮をはがされたカモシカは、肉がブロックごとに分けられた。前足が切り外され、背骨に切り込みを入れられ、背ロース肉が骨から外された。
「ここの肉が私は好きかな」
背ロースのかたまりをサチヤさんはぼくの目の前にもってきた。
「ここはどうやってたベるのですか?」
「ステーキにしましょうかね」
サチヤさんは鼻歌をうたいながら肉をラップにくるんで冷蔵庫に入れた。
それからサチヤさんは後足、股関節、腰のあたりを切って分離させた。肩甲骨に沿って肉ははぎ取られ、骨だけが残っていった。
「ここは細かい筋肉が集まってるところですからね。食べやすい大きさに切っていきましょうか」
サチヤさんはそう言いながら、もも肉を切っていった。切った肉は果実が入った特製のたれにつけ、冷蔵庫におさめられた。
作業がひととおり終わり、サチヤさんは部屋の暖房をつけ、ぼくは窓を閉めた。そしてサチヤさんにつがれたウイスキーを一杯つきあい、ぼくは呼んでもらった代行でようやく家へと帰ることになった。
「二週間後くらいに電話します」
ドアを閉じる際にサチヤさんは言った。まだ終わりではないのだ。
エレベーターを降り駐車場に行くと、すでに代行会社の人が二人待っていた。車のバンパーあたりをぼくは会釈ついでにちらっと見た。特に目立ったぶつかり傷は見えなかった。
ぼくの車を運転する一人が、会社の車から出てあいさつをした。彼は運転席に座るやいなや、
「お客さん、狩人ですね。ふふ、この車から獣のにおいがしますよ。白井さんのお友達だからなあ」
と言って笑った。冗談で言っているのかどうかよくわからないが、すっかり酔っ払ってしまっていたぼくは
「弟子入りしました」
と笑って流した。
白井サチヤさん、と声にしないでサチヤさんのフルネームを呼んでみた。運転手はサチヤさんとウサギ狩りに行った話をしていた。サチヤさんも彼も猟銃を所有しているらしい。そうですかあ、という相槌しかできない。眠くてしょうがなかった。早く家についてほしかった。
サチヤさんは手にしたカモシカの心臓をぼくの目の前に持っていき、それからまな板の上に置いた。もう心臓ではない、ハツだ。
ぼくはお猪口に残ったどぶろくを一気に飲み干した。切り分けられたハツはフライパンで炒められ、ぼくの目の前に置かれた。明日仕事が早かったのをふと思い出したが、ぼくはそんなことおかまいなしにハツを肴に新たについでもらったどぶろくを飲んだ。こりこりした歯ごたえがたまらない。塩こしょうが効いていて酒がすすんだ。
サチヤさんは口の中でこりこり音をたてながら、カモシカの入っていない小さなシンクを使って、さっきまでポケットに入っていた木の実と棒を洗い出した。むかごと自然薯だそうだ。むかごは軽くゆでられた。ぼくはほこほこ熱いむかごを塩につけて食べ、サチヤさんが追加で出してくれた純米吟醸酒といっしょに流し込んだ。冷えた体が徐々にあたたまってくるのがわかった。
公園の崖近くにはむかごがたくさんなっていて、今日サチヤさんはそれを採取し、根元の自然薯を堀り出していたという。折れることなく自然薯を掘り出すのがとても難しいことを彼は語った。ひざが隠れるくらいまで穴が掘られ、きれいな形を留めながら出てきたのがそれだった。
「根気のいる作業なのですよ。こちらは失敗作です」
サチヤさんは掘った途中で折れてしまった自然薯をぼくに見せた。
ぼくはサチヤさんによそってもらった自然薯のとろろご飯をずるずると食べた。ぼくはあまりとろろというものが好きではなかった。なんだろう、鼻水をすすってのどに落ちるようなあの感覚が苦手なのだ。でもサチヤさんのとろろはそんなこと気にならないほど香り高かった。ぼくはおかわりをした。
「大地の味ですね。あまり出汁を入れすぎないのが良い」
サチヤさんはどんぶりにごはんをよそい、とろろをかけてぼくに渡した。とても粘り気が強い。ぼくは海苔をぱらぱら乗せ、またずるずると食べた。いくらでも入っていくような気がした。近くには死んだカモシカがいるのに、なんだか腹がへってしょうがなかった。
こういうときほど食欲があるのはどういうことなのだろうか。そういえば数年前の祖父のお通夜、ぼくは亡骸をながめながら祖母から出された夕食を従兄弟とがつがつ食べていた。死は空腹をもたらすのか。いや、死が目の前にあっても腹はへるのだ。
サチヤさんはカモシカの皮を剥ぎにかかった。首や手足まわりの皮膚にそれぞれぐるっと一周切れ込みを入れた。今度はカモシカを頭から吊るしなおし、首の切れ目から刃物を使わずに指で剥がしていった。ずるっと、皮はコートを脱がせるように剥げていった。毛皮をまとった顔だけがカモシカの原型を不気味にとどめていた。自分でよそった三杯目のとろろご飯を食べながら、その様子をぼくは平気で見ていることができた。酔っ払ってしまったのだろうか。
「剥がした皮はどうするのですか?」
「親カモシカくらい大きかったらねえ。なめして使うってほどでもないですから捨ててしまいましょう」
カモシカは大きなまないたの上に置かれ、頭の部分が切断された。ようやくぼくに向けられていたような、カモシカの切なくうつろな視線が消えた。サチヤさんが扱っているのは完全に肉の塊に見えた。残っていた最後の不気味さが消えていくのがわかった。
「始まってしまうとああこんなもんかって感じしませんか?」
サチヤさんがぼくを見た。
「ええ、まあ。いつの瞬間から肉だと感じますか?」
「死んだ瞬間かな、と思ったときもあれば、それを獲物として認識してからというときもあります。今は肉です」
「でしょうね。祖父が亡くなったときを思い出しました。亡骸と対面したときは何か別な存在に感じたのをおぼえています。それこそ肉、というとらえかたなんでしょうか」
身近な人の死の感覚は、今のカモシカとそんなに変わらないことになるのだろうか。違うとすれば、この生命はぼくが発端となって消してしまったということだ。
「なるほど。こういう話をしていると、何かやはり、こう、寄ってきているなって感じがしませんか。死者は止め処なく話題を提供してくれます」
「やめてくださいよ」
「あなた、人魂食べたことある?」
「なんですかまた。ないですよ、もちろん」
「牡蠣みたいな味がしますよ。フライにするといい。レモンをしぼって中濃ソースがうまいです。タルタルソースもいいけどね。のっほっほ」
サチヤさんは会話のあいだも手が動いていた。別の刃物に替え精肉作業にうつった。皮をはがされたカモシカは、肉がブロックごとに分けられた。前足が切り外され、背骨に切り込みを入れられ、背ロース肉が骨から外された。
「ここの肉が私は好きかな」
背ロースのかたまりをサチヤさんはぼくの目の前にもってきた。
「ここはどうやってたベるのですか?」
「ステーキにしましょうかね」
サチヤさんは鼻歌をうたいながら肉をラップにくるんで冷蔵庫に入れた。
それからサチヤさんは後足、股関節、腰のあたりを切って分離させた。肩甲骨に沿って肉ははぎ取られ、骨だけが残っていった。
「ここは細かい筋肉が集まってるところですからね。食べやすい大きさに切っていきましょうか」
サチヤさんはそう言いながら、もも肉を切っていった。切った肉は果実が入った特製のたれにつけ、冷蔵庫におさめられた。
作業がひととおり終わり、サチヤさんは部屋の暖房をつけ、ぼくは窓を閉めた。そしてサチヤさんにつがれたウイスキーを一杯つきあい、ぼくは呼んでもらった代行でようやく家へと帰ることになった。
「二週間後くらいに電話します」
ドアを閉じる際にサチヤさんは言った。まだ終わりではないのだ。
エレベーターを降り駐車場に行くと、すでに代行会社の人が二人待っていた。車のバンパーあたりをぼくは会釈ついでにちらっと見た。特に目立ったぶつかり傷は見えなかった。
ぼくの車を運転する一人が、会社の車から出てあいさつをした。彼は運転席に座るやいなや、
「お客さん、狩人ですね。ふふ、この車から獣のにおいがしますよ。白井さんのお友達だからなあ」
と言って笑った。冗談で言っているのかどうかよくわからないが、すっかり酔っ払ってしまっていたぼくは
「弟子入りしました」
と笑って流した。
白井サチヤさん、と声にしないでサチヤさんのフルネームを呼んでみた。運転手はサチヤさんとウサギ狩りに行った話をしていた。サチヤさんも彼も猟銃を所有しているらしい。そうですかあ、という相槌しかできない。眠くてしょうがなかった。早く家についてほしかった。
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