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1.ぼくはカモシカを轢いた
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カモシカはまだ子供だった。倒れて動かない個体に触れることさえできず、ぼくは道に手をついた。ハンドルから伝った衝撃が、大地へ放電していくように消えた。あたりを見回しても、一緒にいた親カモシカはすでにいない。公衆トイレだけが日の暮れた城址公園を灯していた。
崖のあるほうから枯れ葉を踏む乾いた音がした。斜面から滑り降りて、ゆっくりとこっちへ近づいてくる黒い影にぼくは目をこらした。それは親カモシカでなく、一人の老人だった。車の前まで彼は来て、だまってぼくを見た。それからおもむろにしゃがみこみ、カモシカに触れた。
「穴を掘って埋めたほうがいいのでしょうか」
発してからぼくは自分の言葉に後悔した。車のアイドリング音だけが園内にうら悲しく響いた。
「食べてしまいましょう」
自分をサチヤと名乗った老人は言った。食べる。でもそういうふうに言われると、ぼくの気持ちは少しだけ楽になった。
「動けないみたいですがまだ生きてはいます」
「え」
サチヤさんはカモシカの頭をなでながらぼくを見た。早く肉になってくれと、ぼくは目の前にいる動物の死を願った。
「近くに私のマンションがありますので連れて行きましょう。何か袋のようなものはありますか?」
ぼくは彼に自分の名を告げてすぐ、車の中を確認した。ごみ入れに使っていたずた袋があった。中身を車内にぶちまけると、今日現場に納入した住宅設備機器の空箱や袋などが散乱した。
「本当はどういう対応が正解なんでしょうか」
ぼくはカモシカを袋に入れながらサチヤさんに聞いた。カモシカの足がぴくっと動いた。ぼくはもっていたカモシカから手を離し、彼を見た。本当にまだ生きていますね、と言わんばかりの顔で。
「正解?まあ、警察か役所の鳥獣課に連絡なんでしょうね。特別天然記念物を轢いてしまったわけですから。長々と調書かなんかをとられるはずです。そのあいだカモシカはどこかに放置されてしまうんでしょうかね。そうこうしてるうちに肉はだめになってしまいますよ。そこにあるビニール紐で念のため足を縛ってしまいましょうか。マンションに行くともう少し丈夫なものがあるかと思います」
サチヤさんは渡したビニール紐を受け取ると、カモシカの足四本をまとめて縛った。ぼくらが行おうとしていることは大丈夫なのですかと、今更聞く気になれなかった。早く発車したかった。袋に入れられたカモシカを後方座席にのせ、助手席に座ったサチヤさんを確認すると、ぼくはライトを付け慎重にゆっくりと車を発進させた。なぜこの当たり前のことをさっきはできなかったのだろう。
「今日公園で見かけた動物はカモシカのほかにはリス、そしてタヌキ。彼らを見つけると自然と追いかけてしまいます。なぜなのでしょうね」
サチヤさんは言った。
ぼくは三年前から、公園に土俵をつくるという仕事を担当してきた。この事業はうちの社長の一声によって、倒産した会社から引き継がれたことから始まった。会社としてはまったく利益の出ない仕事だが、毎年ここで稽古をする学生のために社長が人肌脱いだのだ。土俵は春、公園の本丸広場につくられ、夏に解体される仮設物。ぼくは雪が降り始める前、毎年現場へ下見に来ていた。夜だと人もいないし、進入許可証がなくとも注意されることはない。でもそういうときに思いもしないことは起こった。
「子供の時分からこの公園で遊んでいました。でも土俵がつくられたり、解体されたりするところは見たことがなかったですね。土俵はただ春に現れ、夏に消える存在として認識していました」
サチヤさんは言った。ちらっとぼくは横目でサチヤさんを見た。彼の着たつなぎの胸ポケットには、木の実がはちきれそうなくらい入っていた。腰ポケットには土のついた棒がねじ込まれていて、ぼくはそれも気になった。
「なんですか?それ」
ぼくが指差すと、サチヤさんは何も言わず、にやっと笑った。
公園のある小山を下り、サチヤさんに指示されぼくは左へ曲がった。道路を進むと今ぼくらが下ってきた山にぶつかる。今そこには四十年ほど前に開通したトンネルがある。その手前の信号で止まっているとき、
「昔この道路ってお堀だったんですよ。知ってましたか?」
とサチヤさんはぼくに聞いてきた。ぼくは公園側の崖を見上げた。
「そっかあ。だから谷みたいになってるんですね」
谷となっている部分が道路で、崖の反対側にはぼくらがさっき車で下った坂道がある。今そこには自転車を押している高校生の姿が見える。生まれてからずっとこのまちにぼくは住んでいるが、公園の地形を疑問に思ったことなどなかった。
サチヤさんは子供のころ、公園の崖から落ちる遊びをしたという。今の時期落ち葉は斜面いっぱいに敷き詰められている。サチヤさんはそこに何回か着地しながら落下を楽しんだらしい。カモシカみたいに崖は歩けなくても、どさっと落ちることを気づかせてくれる遊び。落ち葉のクッションに受け止められながら落ちていくサチヤ少年をぼくは想像した。何度も繰り返すと、ズボンの中にはたくさんの落ち葉が蓄えられるはずだ。
「公園でたびたびカモシカと遭遇してはその後をつけ、必ず見失いました」
サチヤさんは言った。でも今日、彼はカモシカを獲た。
崖のあるほうから枯れ葉を踏む乾いた音がした。斜面から滑り降りて、ゆっくりとこっちへ近づいてくる黒い影にぼくは目をこらした。それは親カモシカでなく、一人の老人だった。車の前まで彼は来て、だまってぼくを見た。それからおもむろにしゃがみこみ、カモシカに触れた。
「穴を掘って埋めたほうがいいのでしょうか」
発してからぼくは自分の言葉に後悔した。車のアイドリング音だけが園内にうら悲しく響いた。
「食べてしまいましょう」
自分をサチヤと名乗った老人は言った。食べる。でもそういうふうに言われると、ぼくの気持ちは少しだけ楽になった。
「動けないみたいですがまだ生きてはいます」
「え」
サチヤさんはカモシカの頭をなでながらぼくを見た。早く肉になってくれと、ぼくは目の前にいる動物の死を願った。
「近くに私のマンションがありますので連れて行きましょう。何か袋のようなものはありますか?」
ぼくは彼に自分の名を告げてすぐ、車の中を確認した。ごみ入れに使っていたずた袋があった。中身を車内にぶちまけると、今日現場に納入した住宅設備機器の空箱や袋などが散乱した。
「本当はどういう対応が正解なんでしょうか」
ぼくはカモシカを袋に入れながらサチヤさんに聞いた。カモシカの足がぴくっと動いた。ぼくはもっていたカモシカから手を離し、彼を見た。本当にまだ生きていますね、と言わんばかりの顔で。
「正解?まあ、警察か役所の鳥獣課に連絡なんでしょうね。特別天然記念物を轢いてしまったわけですから。長々と調書かなんかをとられるはずです。そのあいだカモシカはどこかに放置されてしまうんでしょうかね。そうこうしてるうちに肉はだめになってしまいますよ。そこにあるビニール紐で念のため足を縛ってしまいましょうか。マンションに行くともう少し丈夫なものがあるかと思います」
サチヤさんは渡したビニール紐を受け取ると、カモシカの足四本をまとめて縛った。ぼくらが行おうとしていることは大丈夫なのですかと、今更聞く気になれなかった。早く発車したかった。袋に入れられたカモシカを後方座席にのせ、助手席に座ったサチヤさんを確認すると、ぼくはライトを付け慎重にゆっくりと車を発進させた。なぜこの当たり前のことをさっきはできなかったのだろう。
「今日公園で見かけた動物はカモシカのほかにはリス、そしてタヌキ。彼らを見つけると自然と追いかけてしまいます。なぜなのでしょうね」
サチヤさんは言った。
ぼくは三年前から、公園に土俵をつくるという仕事を担当してきた。この事業はうちの社長の一声によって、倒産した会社から引き継がれたことから始まった。会社としてはまったく利益の出ない仕事だが、毎年ここで稽古をする学生のために社長が人肌脱いだのだ。土俵は春、公園の本丸広場につくられ、夏に解体される仮設物。ぼくは雪が降り始める前、毎年現場へ下見に来ていた。夜だと人もいないし、進入許可証がなくとも注意されることはない。でもそういうときに思いもしないことは起こった。
「子供の時分からこの公園で遊んでいました。でも土俵がつくられたり、解体されたりするところは見たことがなかったですね。土俵はただ春に現れ、夏に消える存在として認識していました」
サチヤさんは言った。ちらっとぼくは横目でサチヤさんを見た。彼の着たつなぎの胸ポケットには、木の実がはちきれそうなくらい入っていた。腰ポケットには土のついた棒がねじ込まれていて、ぼくはそれも気になった。
「なんですか?それ」
ぼくが指差すと、サチヤさんは何も言わず、にやっと笑った。
公園のある小山を下り、サチヤさんに指示されぼくは左へ曲がった。道路を進むと今ぼくらが下ってきた山にぶつかる。今そこには四十年ほど前に開通したトンネルがある。その手前の信号で止まっているとき、
「昔この道路ってお堀だったんですよ。知ってましたか?」
とサチヤさんはぼくに聞いてきた。ぼくは公園側の崖を見上げた。
「そっかあ。だから谷みたいになってるんですね」
谷となっている部分が道路で、崖の反対側にはぼくらがさっき車で下った坂道がある。今そこには自転車を押している高校生の姿が見える。生まれてからずっとこのまちにぼくは住んでいるが、公園の地形を疑問に思ったことなどなかった。
サチヤさんは子供のころ、公園の崖から落ちる遊びをしたという。今の時期落ち葉は斜面いっぱいに敷き詰められている。サチヤさんはそこに何回か着地しながら落下を楽しんだらしい。カモシカみたいに崖は歩けなくても、どさっと落ちることを気づかせてくれる遊び。落ち葉のクッションに受け止められながら落ちていくサチヤ少年をぼくは想像した。何度も繰り返すと、ズボンの中にはたくさんの落ち葉が蓄えられるはずだ。
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