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第四章
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「で、結局なぐもんって、どっちなの?」
新しい十月様も見つかり、校内はまた十月様が消えたという話題で持ち切りだった。
「どっちって?」
「ほら、逢坂くんか後輩か」
「え、いや……あ」
「やった、私の勝ち。ネイル塗らせてね」
それでも、事の真相を知っている私たちだけは、その話題を一度も出すことはない。
体育の授業で卓球をしながら、罰ゲームつきで戦っていた。ラリーはうまく続いていたのに、突拍子もない質問で動揺させられる。オレンジ色の球がころころと床に転がっていく。
「ネイル塗るって罰ゲームなの?」
「いや、髪の毛触らせてっていうなぐもんのそれも罰ゲームなわけ? てか、話をすり替えないでよ」
あれから、櫻井さんとはよく一緒にいるようになった。少し離れたところで加古は、例のグループの輪に溶け込んでいた。
「……どっちってないよ」
「そういう答えは求めてませーん。どっちかっていったらどっち?」
「うーん、むずかしい」
笛の音が鳴る。片づけろという合図にぞろぞろと生徒が動き始めていた。
少し前、逢坂くんから打ち明けられたことが頭から離れなかった。あまりにもなんてことない顔で話されるものだから、私の感情が追いつかなかった。だから「そっか」と結局うなずいてしまって逢坂くんも「そう」とだけ言って、あの日はそれで終わった。
感情がぶわりと湧き上がったのは、家につき、一人になったとき。
逢坂くんが抱えていたものを知り、事の重大さが掴めなくて、けれど漠然な不安だけは残って、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
逢坂くんは「別に大したことない」と笑っていた。「アイスやべえぞ」とも言っていた。
逢坂くんは、ロボットになってしまうらしい。
「うわ、また雨だよ」
教室の戻る途中、櫻井さんがげんなりとした口調で言った。
雨。そういえば、あのときも。あのノートを見つけた日も雨が降っていた。まるでバケツをひっくり返したような、勢いのある雨を思い出す。
おかしいと思うときは、いつも雨が降っていた。
彼が私との会話を覚えていなかったり。雨は嫌いだと言っていたり。
逢坂くんが逢坂くんではなくなる瞬間は、たしかに今までも存在した。
「お、逢坂くーん」
教室にはすでに着替えを済ませた逢坂くんの背中が見える。一人孤立してしまっている彼はぽつんと席に座っていた。櫻井さんが呼びかけるが反応はない。
「逢坂くん」
とんとんと肩を叩く、ゆらりとその瞳は私を見上げた。
「……」
──逢坂くんじゃない。
瞬時にそう思った。ぞわりと鳥肌が立つ。何も知らない櫻井さんは「どうしたの」と瞬きを繰り返している。
逢坂くん、逢坂くん。
どう呼びかければ逢坂くんが戻ってきてくれるのか、不安が勢いよく襲ってくる。けれどその時間は一瞬で、
「ああ、……よ」
すぐに取り戻された意識は、すぐに笑みへと変わる。「もう、びっくりしたよ」と櫻井さんは言うけれど、その不安はどうしても拭えなかった。
「……やっぱり私の方が量、多いと思うな」
数学係として居残りをしたのは久しぶりだった。目の前の逢坂くんは「文句言うな」とそそくさと作業を初めている。雨はまだ降り続いていた。
「逢坂くんって優しいようで優しくないよね」
「なんだそれ」
「消えないでね」
ぱち、ぱち。ホッチキスの音が止まる。顔を上げた逢坂くんと視線が絡む。
「そうだな」
柔らかで、切なくて、どうしよもない声。
私が力を持った本物の十月様だったら、この雨を止めてしまえるのに。逢坂くんを繋ぎ止めていられるのに。
そんな力など私には存在しない。
私はただの人間で、十月様だと呼ばれるような立派な人間でもない。
「どうしてあの日、逢坂くんは私書箱にノートを入れたの?」
知られなくない内容のはずなのに、誰が見るか分からないような場所に投函されていたことがずっと不思議だった。
「……俺が、俺じゃなくなっていく気がした」
ひどい雨で、どんどん自分から切り離されていくみたいで、でも目も、口も、鼻も、手足も動かせる。ただ感情が無になっていく。
「このままロボットになっていくって思った。だから、俺を繋ぎ止めてくれる人がほしかったんだと思う。でも、あれは俺の意思じゃない。無になっていく俺の意思」
「……むずかしいよ、話が」
「俺も分からなくなる。今の俺は俺なのかって。でも、ノートを見られたとき、都合よくあんたを使おうとした。俺が俺でいられるために、強い何かがほしかった」
「でも、すごく怒ってた」
「互いが誰にも言わない秘密がほしかった。そうすれば強い何かが得られるような気がした。あのときも怒ってたわけじゃない。そう見せれば、なんとなく、あんたは離れていかないような気がしたんだよ。悪い意味で」
私を軽蔑した目。嘲笑うような口調。あれはすべて演技だったというのだろうか。
ぜんぶ、本気に見えた。
「もう、何が俺なのか、よく分からない」
そう言って、力なく笑う。自分を罵るように。
あの日、どうして逢坂くんがあの場所にいたのか。あの場所で逢坂くんと出会ってしまったのか。
「あのノートは、逢坂くんが自分を繋ぎ止めておくための手段だったんだよね。自分が自分でなくなってしまうことと必死に戦っていたんだよね」
「……」
「俺を取り戻して、それは、消えていってしまう逢坂くんのことだったんだよね」
雨はやまない。こうして話している間にも、逢坂くんの意識はどこか遠くへいってしまっているのかもしれない。雨が降り、秋が終わり、季節が冬に変わってしまうように。逢坂くんもまた、変わっていってしまう。
「ねえ、逢坂くん。私の夢ね、友達百人が夢だったんだよ」
逢坂くんが、逢坂くんではなくなってしまう。逢坂くんの意識はたしかにそこにあるのに、表には出られなくなってしまう。
「でも、実際に友達ができて、仲良くなって、仲良くできなくなって、友達ってなんなんだろうって考えた。やっぱり私の気持ちって加古には向けたらだめだったのかなって思う」
まだ平仮名でさえ書けないような幼い頃、青色のスモックと黄色い帽子を羽織っては〝今日は友達百人出来るかな〟と本気で考えていた。
それが無理だということも、可能ではないことも、当時は気付けなかった。
夢や希望ばかりを抱いていたあの頃、どうして百人も出来ると思っていたのか不思議で仕方がない。
今になって友達一人でさえ、作ることは難しいのだと痛感する。
そこで信頼を築きあげていくことがどれだけ大変か、そして、人との距離はなかなか縮まらないことも、最近になってようやく学んだこと。
「友達って、なかなか簡単に作れないものだよね」
「……そうだな」
よかった。意識はちゃんとある。そのことをたしかめながら、顔に出さないように気を付ける。
「逢坂くんには友達が沢山いたように見えたけど」
「さあ」
あれだけ囲まれていた逢坂くんにとって、心を許せる人は一人でもいたのだろうか。
ふとそんなことが気になったものの、考えることはやめた。
不意に見た彼の横顔があまりにも切なく見えたから。それが全てを物語っているような気がして、やっぱり私は本当の十月様になりたかったと思う。そうすれば、逢坂くんにこんな顔をさせなくて済んだのかもしれない。
新しい十月様も見つかり、校内はまた十月様が消えたという話題で持ち切りだった。
「どっちって?」
「ほら、逢坂くんか後輩か」
「え、いや……あ」
「やった、私の勝ち。ネイル塗らせてね」
それでも、事の真相を知っている私たちだけは、その話題を一度も出すことはない。
体育の授業で卓球をしながら、罰ゲームつきで戦っていた。ラリーはうまく続いていたのに、突拍子もない質問で動揺させられる。オレンジ色の球がころころと床に転がっていく。
「ネイル塗るって罰ゲームなの?」
「いや、髪の毛触らせてっていうなぐもんのそれも罰ゲームなわけ? てか、話をすり替えないでよ」
あれから、櫻井さんとはよく一緒にいるようになった。少し離れたところで加古は、例のグループの輪に溶け込んでいた。
「……どっちってないよ」
「そういう答えは求めてませーん。どっちかっていったらどっち?」
「うーん、むずかしい」
笛の音が鳴る。片づけろという合図にぞろぞろと生徒が動き始めていた。
少し前、逢坂くんから打ち明けられたことが頭から離れなかった。あまりにもなんてことない顔で話されるものだから、私の感情が追いつかなかった。だから「そっか」と結局うなずいてしまって逢坂くんも「そう」とだけ言って、あの日はそれで終わった。
感情がぶわりと湧き上がったのは、家につき、一人になったとき。
逢坂くんが抱えていたものを知り、事の重大さが掴めなくて、けれど漠然な不安だけは残って、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
逢坂くんは「別に大したことない」と笑っていた。「アイスやべえぞ」とも言っていた。
逢坂くんは、ロボットになってしまうらしい。
「うわ、また雨だよ」
教室の戻る途中、櫻井さんがげんなりとした口調で言った。
雨。そういえば、あのときも。あのノートを見つけた日も雨が降っていた。まるでバケツをひっくり返したような、勢いのある雨を思い出す。
おかしいと思うときは、いつも雨が降っていた。
彼が私との会話を覚えていなかったり。雨は嫌いだと言っていたり。
逢坂くんが逢坂くんではなくなる瞬間は、たしかに今までも存在した。
「お、逢坂くーん」
教室にはすでに着替えを済ませた逢坂くんの背中が見える。一人孤立してしまっている彼はぽつんと席に座っていた。櫻井さんが呼びかけるが反応はない。
「逢坂くん」
とんとんと肩を叩く、ゆらりとその瞳は私を見上げた。
「……」
──逢坂くんじゃない。
瞬時にそう思った。ぞわりと鳥肌が立つ。何も知らない櫻井さんは「どうしたの」と瞬きを繰り返している。
逢坂くん、逢坂くん。
どう呼びかければ逢坂くんが戻ってきてくれるのか、不安が勢いよく襲ってくる。けれどその時間は一瞬で、
「ああ、……よ」
すぐに取り戻された意識は、すぐに笑みへと変わる。「もう、びっくりしたよ」と櫻井さんは言うけれど、その不安はどうしても拭えなかった。
「……やっぱり私の方が量、多いと思うな」
数学係として居残りをしたのは久しぶりだった。目の前の逢坂くんは「文句言うな」とそそくさと作業を初めている。雨はまだ降り続いていた。
「逢坂くんって優しいようで優しくないよね」
「なんだそれ」
「消えないでね」
ぱち、ぱち。ホッチキスの音が止まる。顔を上げた逢坂くんと視線が絡む。
「そうだな」
柔らかで、切なくて、どうしよもない声。
私が力を持った本物の十月様だったら、この雨を止めてしまえるのに。逢坂くんを繋ぎ止めていられるのに。
そんな力など私には存在しない。
私はただの人間で、十月様だと呼ばれるような立派な人間でもない。
「どうしてあの日、逢坂くんは私書箱にノートを入れたの?」
知られなくない内容のはずなのに、誰が見るか分からないような場所に投函されていたことがずっと不思議だった。
「……俺が、俺じゃなくなっていく気がした」
ひどい雨で、どんどん自分から切り離されていくみたいで、でも目も、口も、鼻も、手足も動かせる。ただ感情が無になっていく。
「このままロボットになっていくって思った。だから、俺を繋ぎ止めてくれる人がほしかったんだと思う。でも、あれは俺の意思じゃない。無になっていく俺の意思」
「……むずかしいよ、話が」
「俺も分からなくなる。今の俺は俺なのかって。でも、ノートを見られたとき、都合よくあんたを使おうとした。俺が俺でいられるために、強い何かがほしかった」
「でも、すごく怒ってた」
「互いが誰にも言わない秘密がほしかった。そうすれば強い何かが得られるような気がした。あのときも怒ってたわけじゃない。そう見せれば、なんとなく、あんたは離れていかないような気がしたんだよ。悪い意味で」
私を軽蔑した目。嘲笑うような口調。あれはすべて演技だったというのだろうか。
ぜんぶ、本気に見えた。
「もう、何が俺なのか、よく分からない」
そう言って、力なく笑う。自分を罵るように。
あの日、どうして逢坂くんがあの場所にいたのか。あの場所で逢坂くんと出会ってしまったのか。
「あのノートは、逢坂くんが自分を繋ぎ止めておくための手段だったんだよね。自分が自分でなくなってしまうことと必死に戦っていたんだよね」
「……」
「俺を取り戻して、それは、消えていってしまう逢坂くんのことだったんだよね」
雨はやまない。こうして話している間にも、逢坂くんの意識はどこか遠くへいってしまっているのかもしれない。雨が降り、秋が終わり、季節が冬に変わってしまうように。逢坂くんもまた、変わっていってしまう。
「ねえ、逢坂くん。私の夢ね、友達百人が夢だったんだよ」
逢坂くんが、逢坂くんではなくなってしまう。逢坂くんの意識はたしかにそこにあるのに、表には出られなくなってしまう。
「でも、実際に友達ができて、仲良くなって、仲良くできなくなって、友達ってなんなんだろうって考えた。やっぱり私の気持ちって加古には向けたらだめだったのかなって思う」
まだ平仮名でさえ書けないような幼い頃、青色のスモックと黄色い帽子を羽織っては〝今日は友達百人出来るかな〟と本気で考えていた。
それが無理だということも、可能ではないことも、当時は気付けなかった。
夢や希望ばかりを抱いていたあの頃、どうして百人も出来ると思っていたのか不思議で仕方がない。
今になって友達一人でさえ、作ることは難しいのだと痛感する。
そこで信頼を築きあげていくことがどれだけ大変か、そして、人との距離はなかなか縮まらないことも、最近になってようやく学んだこと。
「友達って、なかなか簡単に作れないものだよね」
「……そうだな」
よかった。意識はちゃんとある。そのことをたしかめながら、顔に出さないように気を付ける。
「逢坂くんには友達が沢山いたように見えたけど」
「さあ」
あれだけ囲まれていた逢坂くんにとって、心を許せる人は一人でもいたのだろうか。
ふとそんなことが気になったものの、考えることはやめた。
不意に見た彼の横顔があまりにも切なく見えたから。それが全てを物語っているような気がして、やっぱり私は本当の十月様になりたかったと思う。そうすれば、逢坂くんにこんな顔をさせなくて済んだのかもしれない。
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