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第三章

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 十月様? と口にしようとした矢先、躊躇うことなく飛び出していった逢坂くんは、単刀直入に問いただしている。「逢坂くん⁉」と、おろおろ追いかける私に、目の前の男子生徒は「え、え」と面白いぐらいに狼狽えていた。
「な、何?」
「何じゃないだろ。十月様なのかって聞いてんだよ。ってか十月様だろ。私書箱の紙を持っていくってことは」
 上履きの色は黄色。ということは二年生だ。男子生徒も同じことを思ったのか「なんですか……?」と敬語で私たちに言い直した。
復活したと言われる十月様。叶える代わりに代償として呪いをかけてくると言われる十月様。
 それが、こんな真面目そうな、頭が良さそうな人が出てくるなんて。
「白状しろよ」
「い、いやいや、誤解です! 俺は十月様にお願いしに来ただけで」
「お願い? この箱から紙を抜いてたじゃねえか」
「違います! 一回入れて、でもやっぱり迷って抜いただけです」 
 私も全部を見ていたわけでもないから確かめようがない。逢坂くんも納得がいっていないようで、男子生徒に詰め寄る。
「その話が事実だとしたら、なんで今なんだよ。今の十月様の話を知らないのか?」
 男子生徒の泳ぐ視線はずっと定まらない。ぎゅっと拳を作り、一生懸命喋ろうとしているのが伝わる。
「し、知ってます。だから、十月様にお願いをしに来て」
「知ってる? 願いを叶えてもらう代償に呪われると知ってて?」
「そうです。呪われてもいいから、願いを叶えてほしくて」
 男子生徒が言った「呪われてもいいから」という言葉が、あまりにも願いの深刻さを増すようなニュアンスだった。ぎゅっと握った拳から、さっき私書箱から取り出したと思われる紙が顔をのぞかせている。
「これは僕が十月様に出した手紙です」
 さきほど私書箱から出した紙を私たちに差し出す。見てもいい合図なのだろう、中身を開いた状態だ。書き出しは「俺のことを呪ってもいいから──」というものから始まっている。どうやらほんとうに男子生徒のものらしい。
「〝妹を助けてください?〟」
 私が手紙の内容を読むと、男子生徒は「はい」と力なくうなずく。
「妹を助けてほしくて、守ってほしくて、お願いをしにきたんです」
「妹さん、どうかしたの……?」
そう言うと、銀縁眼鏡の奥の瞳が揺らいだ。
「……病気なんです、心臓の。もうすぐ大きな手術があって、成功する可能性が低いって医者から言われました。妹は笑ってるけど絶対怖いはず。俺たち家族に心配させないように〝大丈夫〟って繰り返すんです。〝私が死ぬわけない〟って。そう強気でいるのに、俺がこの前病室に顔を出そうとしたら、あいつ泣いてたんです。声を殺して泣いてて。死ぬかもしれない手術を受けるなんて、そんなの怖いに決まってる。でも俺は何もできないから、……だから十月様にお願いしたくて」
 悲しみに暮れたその顔色からは、悲痛さが物語っている。
 ああ、そうだ。私が最初に見た手紙にだって、同じような真剣さが宿されていたから返事をした。からかい目的ではない、本当の願いがこうして私書箱に託されていることを、私はすっかり忘れてしまっていた。
「僕なんて呪われてもいい。妹が助かるなら、それでいいんです。それだけでもう」

 水色のキャンバスに、まるで橙色がぽつんと落とされたような、曖昧で、ふたしかな夕焼けが広がっていた。
「大人しいな」
 どんよりとした空気の中を、逢坂くんと肩を並べて歩いていた。
「いつも大人しいよ」
「明らかに元気がない。さっきの奴の話を聞いてから」
 明確に原因を突き止められてしまうと、何も言葉が出てこない。
「……分かってなかったなあって思ったんだ」
「何が?」
「考えてなかった。あそこまで話が大きくなるなんて。最初は願いを叶えてほしいなんて手紙じゃなかった。ただ毎日が辛いって、そう書かれている手紙になんとなく返しただけだったのに。それがどんどん話が大きくなって、定期的に手紙がくるようになって、それに返してた自分に酔ってたんだなって分かっちゃった」
 人の悩みを聞き、それを解決してあげることができると、どこかで信じたかったのかもしれない。現実では決して、誰かの役に立つなんてことはできないから。見えない何かに縋って、私は私という人間を特別に思いたかったのだろう。
 でも、それがただの自惚れだったことを、こうして痛感するだけの日々を過ごすだけ。
 私には、誰かの命を救うような力なんてない。
「あんな手紙きたら、さすがに何もできない。だって、手術を成功させるための力がなければ、そもそもさっきの人の願いを叶える力だってない」
「呪う力もないしな」
 まるで卓球のラリーのように、ぽんとなんてことない動作で球が返される。
「そうだね……呪う力さえない」
「なのに十月様だったもんな、あんた」
 何もできやしないのに、神様みたいになってしまって。今は離れたけれど、でも、やっていたことをなかったことにすることはできない。私はたしかに十月様だった。
 そう呼ばれることを望んだわけではなかったけれど、そう呼ばれることに浸っていたのも事実。だからこそ自分の無力に反吐がでる。私がしてきたことは、決して褒められるようなものではなかった。誰かにとっては、十月様という存在はあまりにも偉大だった。
「だから後悔してんのか、自分には力がなかったって。ああやって直接お願いされているような状況でも、自分には何もできないって思ってんだろ」
 どこまでも、人の心を読んでしまうこの人とは、こういうとき一緒にいたくないなと感じる。
 ぶつけられる言葉があまりにも正論だから。あまりにも反論できないから。
「あんたには何もできないよ。何も」
「……そうだね」
 罪悪感を抱くことすら許してもらえていないような気がして、ぐっと空を仰いだ。
 鴉が三羽、遠くへと飛んでいく。かあ、かあ、と誰かに合図を送るような独特な声を出して、自由に空を羽ばたいていく。
「逢坂くんは嘘をつかないよね」
「なんで」
「今だって、人によっては私をなぐさめようとするケースだってあるだろうし」
「自分がしでかしたことなんだから、自分で責任とれって思うからな」
「冷たいよね」
「温かくして、それがずっとぬるま湯である方が問題だろ」
 過ちに気付けないで、悪かったものを悪いと認めないのは問題だ。
 逢坂くんはきっと、そこを大切にしている。そんなような気がして「その通りだね」と返すことしかできない。
 やさしい言葉をかけてほしかったわけじゃない。逢坂くんなら私の言い訳だって、きちんと叱ってくれるような気がしたから、だからこうして胸の内を明かした。
「……私って、十月様になる運命だったのかな」
「なんで」
 すぐ、なんで。でも、そう聞き返されることが嫌いではない。
「何事も意味があるっていうから。無駄なことなんて一つもないって。神様は乗り越えられる試練しか与えないって話は有名だよね。そういうのあんまり好きじゃないけど、私が十月様になったことも意味があったのかなって。運命だったのかなって」
 もしそうなら、私がしたことも、きっと意味があったと思える。あれは無意味ではなかったと思える。
 でも、逢坂くんは笑った。
「運命なんてこの世界にはない。そんなもの、あってたまるか」
 吐き散らすように、心底嫌うように、運命というものを否定した。
 嘘をつかない逢坂くんが、はっきりとそう表明した。そのことに驚いた。
「どうしてそう思うの?」
「なんでもかんでも運命で片付けることが嫌いだから。結婚相手に向かって運命の人とか使うけど、それって自分が誰かを選ぶ権利を誰かに奪われているようなもんだろ。繋がりたくもないような人間と運命だったらどうすんだよ」
 毒づくような言葉で運命を嘲笑う。
「……悪いものばかりじゃないよ、きっと」
「なら俺がそう思うように、十月様がどうにかしてよ」
「機嫌悪い?」
「さあ」
 大事なことは、ずっとはぐらかされてしまう。
 わかったことは、逢坂くんは運命という言葉が何よりも嫌いだということ。
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