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第三章

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「ねえ、南雲さんの話聞いた?」
 プリントをまとめていく作業から途中で離脱したのはかれこれ十分も前のこと。
「聞いた聞いた、逢坂くん狙いだったってやつでしょ?」「逢坂くん、南雲さんに脅されて一緒にいるんでしょ?」「なんかバックに暴走族ついてるらしいよ」
 女子トイレの個室というのは気持ち的にリラックス出来る場だと思っていた矢先、数名の女子による南雲悪口大会が始まった。
 思いっきり出るタイミングを失い、耳を塞ぎたくなるような会話がそれなりのボリュームで聞こえてくる。
 いや、バックに暴走族って……今時、古典的過ぎではないか。とんでもない人達をバックにつけられるほど、私の人脈はないし権力もない。
「もしかしたら、十月様にお願いでもしたんじゃない?」
 誰かが不意に切り出したその話題は、本来であれば嘘くさいことこの上ないけれど、そうかも、と肯定的に捉えられる話題となっていた。
「私も思ったんだよね。南雲さんが逢坂くんと仲良くなりたいからお願いしたのかもって」「だとしたら、南雲さんの願いは叶っても、逢坂くんからすると呪いじゃない?」
 たしかにそれはそうかもしれない。今のところ十月様はまだ信じられているみたいだし、何も知らない人たちかすれば、呪いだとかそういうのも受け入れられてしまう。
「——ってか、逢坂くんもなんかちょっと引くよね」
 ……え?
 唐突に聞こえてきたそのフレーズに軽い衝撃を受けた。一瞬彼女達の声が遠のいたほど、何を言ってるのか理解できなかった。
 逢坂くんに引くとはどういうことだろうか。
 今まで、逢坂くんの話題はいつも明るいものだった。彼を批判する人なんて一人もいなければ、誰もが尊敬の眼差しにも似た笑みで彼の名を口にしていたはずだった。
「そうだなよね、キャラ違い過ぎるし」「急にツンキャラされても困るっていうか」「南雲さんと一緒にいる時点で意味分からないし」
 本当に……彼女達は一体何を、言っているのだろうか。何をもって彼を批判し始めたのだろう。キャラは変わったかもしれないが、根本的なことは何一つ変わってない。口が悪くなったかもしれないが、根は変わらず優しいのに。
 自分の評判ばかりを気にしていたような人が、ただの雑用係を庇うように一肌脱いでくれた。こんな救いようもない人間を、救いたいと少なからず思って助け舟を出してくれたのに。
「違う、逢坂くんは何も悪くない」
 それは白い背景の中で浮かんだ言葉だった。ただ、浮かんだ……はず、だった。
 目の前には、鏡を通して私を怪訝そうに見る女子生徒の後ろ姿。数秒遅れて「……は?」と振り返った彼女達は、私を見るなり一瞬引きっつったような色を見せる。
 気付けば鍵を外して個室の扉を開け、浮かんだはずだった言葉を無意識に彼女達にぶつけていた。
 どくどく、と。
 心臓が異常な速度で鳴っている。緊張で手も、声も震える。それでもカっとなった感情を押し殺す術はなにもなくて。
「……逢坂くんは庇ってくれただけだよ」
 口をついて出てくる言葉はもう止めようがなかった。
「逢坂くんは本当に優しい人で、……だから、こんな風に悪く言われるような人じゃない」
 情けないぐらい弱々しいその言葉達は、目の前の人物の心に響くどころか返って苛立ちを募らせてしまったようで、
「うっざ」
 一人の女子生徒がぽつりと呟いた一言が鋭く心臓を貫いた。
 落ちた視線はつま先の少し先で止まり、彼女達の足が視界の端で流れる。未だ激しく鳴っている鼓動はどうやらまだ収まってくれないらしい。棘のように刺さった言葉は、小さいながらも十分に痛みを感じた。「うっざ」と、あんなことを言われたのは人生で初めてだ。
 はっきりとした悪口も初めてで、面と向かって悪意しかない言葉を投げられたのも初めて。全てが人生で経験した事のないものばかりで、ずずっと鼻をすする。
 逢坂くんは、私を庇ったことで悪く言われるようになってしまった。
 私が「そんな人じゃないよ」と弁解しても、何の効力もない。現に、あの彼女達には苛立ちしか湧きおこらなかったのだから。
 全て、私のせいだ。

「あんたな……ようやく帰ってきたかと思えば手ぶらかよ」
 力なく教室へと戻った私に、溜息交じりに呆れた彼の声がかかる。だるそうに見せるものの、私の分まで仕事をやってくれているのを見て思わず目頭が熱くなった。
 本当に……優しい、彼は。
「……私の分までやってくれたんだ」
「そりゃあ全然戻ってこないでサボってるからだろうが。あんたが終わんねえと帰れねえんだよ、こっちは」
「……はは、そうだね」
 自分の分が終わったなら先に帰ったって問題がないというのに。待ってくれていたのだろうか。真意を確かめるよりも先に「職員室持ってくぞ」と立ち上がる彼。
 その後ろ姿に、思わず躊躇した。
「私たち、一緒にいない方がいいんじゃないかな」
「………は?」
 眉間に濃く皺を寄せた顔がこちらを振り向く。明らかに気分を害してしまったその表情は、私から視線を逸らした。それから、ゆっくりと時間をかけ、肺にある空気を全て出したんじゃないかと思うぐらい大きな溜息をついた。
「なんなの、あんた」
「……え」
「戻って来てから変だとは思ってたけど。そんなもんあんたに言われる筋合いねえよ」
 様子がおかしいということに、彼は気付いていたらしい。
それでも敢えて突っ込まれなかったのは気を遣ってなのか、それともただ流しただけか。
「俺のことを考えてそんなこと言ってんだったら、まずその独断と偏見的な考え全部綺麗に捨てろ」
 鋭い眼光が私の意識を読み取るように刺さる。なにもかもお見通しだ。
「あんたに心配されるほど、俺は今の状況がまずいなんて思ってない」
「これから悪口を言われることだって」
「どうでもいい」
 吐き捨てるように言った彼に「……嘘つき」と内心呟く。人の評価を気にして生きてきた人が「どうでもいい」わけない。そう言わせてしまってるのは……どう考えても私のせいだ。
「逢坂くんは……人気者でいてほしい」
「なんだそれ」
「私と一緒にいることで悪く言われてほしくなんか——」
 最後まで言い切るよりも先に、頭に綺麗なチョップが入ったことで言葉を失う。ジンジンと伝わってくる痛みから思わず奇声をあげそうになった。
「っ……なんでこのタイミングで」
「うるさかったから」
「それで女子にチョップ⁉」
「……女子?」
 首を捻り「どこに?」と続けた彼に「ここにいるでしょ!」と訴える。今の流れは絶対にチョップを間に挟むような流れではなかったはず……なのに、予想外の攻撃に雰囲気が壊されてしまった。
「逢坂くん、私は」
「とりあえず、もうどうでもいいんだよ」
 反論を続けようとしたが、投げやりとも思えるような返しに言葉を詰まらせた。数十センチ高い顔を見上げる。
「ほんと……いいんだよ」
 なんで、そんな優しい顔をしているのか。
 私といてメリットなんて一つもないのに。あのまま、作り上げてきたキャラを貫き通せば、逢坂くんが一人になることもなかったのに。どうして今、そんな柔らかな声を落とすのだろう。
「どうして」
 ぼそ、と出てきた言葉に彼は眉を落として笑う。今更になってホワイト逢坂を発動されても対応に困ってしまう。
「ただ、いい人キャンペーンはもうやめた。それだけ」
「そんな……」
「まあ、感化されたのかもな」
「感化?」
「俺には、ふん……なんとか友みたいな奴、いねえなと思って」
「刎頚之友?」
 そんなの、逢坂くんにはそう呼べる存在が沢山いるはず……なのにどうしてそんなセリフを口にするのか。理解ができない。
「とりあえず、俺のことなんて考えるな」
「……でも」
「でもでもでもうるせーな」
「そんなに言ってないけど」
「あんたとは友達みたいだし」
「逢坂くん……」
「それに雑用係がいなくなるのも困るし」
「……逢坂くん?」
「あんたみたいな便利屋は一人いた方が楽だからな」
「……本音はそっちのような気がするね?」
「そういえば雑用」
「もう名前が雑用になってる」
「十月様はもうやってないのかよ」
 ふいに思い出したのは、第二校舎の三階に設置されたあの私書箱のこと。さっき女子トイレでも聞いたけど、十月様は私がやらなかったとしても、誰かの記憶に残っている。
「私書箱はあれから見てないよ。掃除当番も十月がメインだったし」
 雨脚はいつの間にか弱くなっていた。雨のシーズンではないけれど、今年はどうも雨の降る日が断続的に続いていた。
 彼は「へえ」とうなずきながら「じゃあ俺で最後だったんだな」と窓の外を見ながら呟いた。
「逢坂くんの願いは、まだ解決できそうにないなあ。一緒に過ごしてたら何かわかるかもって思ってたんだけど」
「そんな簡単じゃねぇよ」
「でも、そんな簡単じゃないことをよく私に頼もうと思ったね」
 湿っているから、普段よりも上履きが廊下に擦れる音はよく響いている。きゅ、きゅっと、かわいらしい小動物の鳴き声のようにも聞こえていた。
「お手上げだったんだろうな。藁にもすがる思いっていうか」
「あのときの逢坂くんはそう見えなかったけど」
 むしろ傲慢で、自分勝手で、底冷えした双眸だけを宿していた。今とはまるで別人のようだったとさえ思う。
「人間いろいろあるんだよ」
 どこかぼんやりと遠くを見つめながら、思い耽るような口調が印象的だった。そうだね、と言えば、そうだ、と返ってくる。
 いつの間にか、逢坂くんといるこの時間が、どこか心地のいいものへと変わっていることに気づく。
 十月様がバレたときはヒヤヒヤしたけれど、それでもあの時があったから、今こうして逢坂くんと一緒に外の雨を眺めていることができている。
「もうやらないのか、十月様」
「やらないよ。あれは自分の欲を解消するものだったから」
 そんなことはやめようと決めた。人を惑わすことには変わりがない。私は神様ではないのだから。
「まあ、いいんじゃねえの」
「いいんだと思う」
 そう言ってお互い職員室に行き、それから校舎を出た。雨はすっかりとあがっていた。

『──十月様が復活したらしいぞ』
 不穏な雲だけを残して。
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