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第二章

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「はあ? 櫻井千歳にそんなことされたの? 私がインフルで寝込んでる間にそんなことが? 許せない、許すまじ櫻井千歳」
「大袈裟だよ、直接何かされたわけでもないから」
 半目写真から一週間。加古は憤りを隠しきれないといった様子で怒り狂っていた。
 あれよあれよと流されるように時間が過ぎていき、日にちも過ぎていき、気付けば毎年この時期に開催される、我が校伝統の肝試し大会が実施される日となった。
 基本的には男女でペアになることが多くカップル誕生デーとも呼ばれていたりするこの日。
「まあ、一緒に遊びに行ったなら私にも教えてほしかったな」
「あ……ごめん。誘うべきだったよね」
「誘わなくてもいいけど、なんかさ」
 言葉を濁した加古は曖昧に微笑む。その笑みが移ったように、同じものを浮かべた。
 加古が言おうとしていることは、私が考えていることと同じだろうか。
 ほかの子と遊ばないで、とは言わないけれど、でもそういう類のものだったとしたら、それなら私も、加古にこれから言えるのに。
「てか、綺穂のクジ運だってどうなってんの? 一人って聞いたことないんだけど」
 ペア番号の相手が見つからなかった私に、加古が主催者に確認をとると「ああ、今年は余るんですよねぇ」などと呑気な返しをされたらしい。
「あいつら、綺穂が毎年どうなってるか知らないでしょ」
「いや、知らないわけないよ。私、これではちょっと有名だもん」
 二年連続、私は驚かす人を逆に驚かしてしまうほどの奇声をあげ、場の空気を乱す空気読めない系の女子になるとひっそり評判だ。自分で言うのも情けないが、恐怖を感じないようにすることは難しい。結果、驚かされた際は、押す・投げ倒す・こてんぱん、の三拍子を披露し、とてつもなく主催者側から嫌われていた。
 ペアになった人とは親交を深められないままゴールしてしまうという最悪な結末を毎年迎えてしまうというのが例年の結果。
 毎年、三日間行われるこの行事は初日一年生、二日目二年生、三日目三年生と学年別で分けられる。肝試しとしては今日が最終日だった。
 裏行事とも呼ばれ、公式イベントではないこの肝試しが、なぜこうも毎年順調に開催されるのか疑問だ。そんな気合を入れなくてもいいのではないかといつも思う。昼なら恐怖は薄れるというのに。
 この手のものは本当に苦手だ。奇声をあげながら走るものだから、私より前の人が猛ダッシュで走ってくる私に驚いて腰を抜かすぐらいすごい顔してるらしい。
「え、逢坂くん五十六番なんだ!」「えーいいなー、エマと一緒じゃーん」「えへへ、逢坂くんと一緒で嬉しい」
 絶望感に覆われている私とは違い、とある一角は白とピンクの空気がふわふわと漂っている。ある意味この空気感でカオスと言っても過言ではない。
 女子特融の恋愛モードに花を咲かせている。そしてその中心にいる話題の逢坂くんは気持ち悪いほどに爽やかな笑みを浮かべている。あはは、内心「このクズ共散れ」とか思っているのかもしれない。仮面の下の声が聞こえてくるような気がする。
 裏を知ってしまった以上、どの顔を見ても作り物と思えて仕方がない。
「え、櫻井さんもしかして俺と一緒じゃない?」「うわ、まじかよお前櫻井さんと一緒なのか」「なんだよ抜け駆け」
 かたやこっちでは鼻の下を伸ばした男子生徒に囲まれる櫻井さんの姿。思いっきり頬に小さな痙攣が見えるのは決して気のせいではない。
「あの女のどこがいいのよ」
 すっかりご立腹モードの加古だったが、ペアの男子に連れられると列に並びにいった。
 いよいよ一組目の男女がぎこちなさそうに顔を向け合い、それから二組目、三組目、と順番に男女の後ろ姿を見送りながら「どうか私の番が来ませんように」と今更どうにもならない願いを神様に祈り続けた。
 次第に番号が二桁に突入し、五十番台へと差しかかる。ああ……これはもう逃げられそうにない。
 覚悟を決め震え始める足になんとか力を入れてスタート地点に立つ。気を抜いたらもうこの場で腰を抜かして動けなくなりそう。
 校舎からは女の子の悲鳴が時折聞こえ、恐怖を煽っていく。
 どうしよう、怖い、震えが——
「わっ!」
 耳元で突然、最大限の声量を出され、声にならない驚きとともに肩の力が強張る。腰が抜けるとまではいかないものの、心臓が激しく音をたて鳴り続けている。
「あはは、お前マジでやんなって」「可哀想だろ~」「見ろって、全身震えてね?」「つーかこの人一人?」「驚かし方が古典的過ぎだろ」
 けらけらと響く、下品な笑い声と冷やかしの声。
 肩越しに振り返れば、数名の男子生徒がこちらに視線を送りながら作戦成功と笑っている。
 びっくり……した。からかわれたのだろうか。それにしても今のはさすがに度を越えていたというか。いやでもこういうときは笑った方がいいのだろうか。ああ、だめだ………じんわりと目頭が熱くなってきた。泣いたら空気を壊してしまうのに。
「あ、やべ泣いちゃうんじゃね?」「つーかこの子奇声あげる変人とか噂が」「あ、俺知ってる、教師達より怖いって女子が言ってた」「ってか、白目写真の人でしょ」「あーこの人?」
 じろじろ、と。にたり顔が身体に突き刺さる。泳ぐ視線は定まらず、目に溜まった涙は限界を超えそうで、瞬きをしたらもう流れてしまう。
「——お前ら謝れよ」
 ああ、だめだ、と。落ちていく瞼だったが、突然現れた背中に目を見開いた。
 涙で視界が揺れている中、悪意しかない笑みを浮かべていた男子生徒の顔が一瞬で消える。周りでさえ、くすくすと笑っていたというのに、突然響いた抑揚のない低い声が、場の空気を乱した。
 張り詰める緊張感。彼からは苛立ちを含んだような声だけが聞こえる。
「……な、なんだよ逢坂、マジになんなって。冗談だろ」
 慌てたように顔を見合わせ「な?」と互いに同意を求める姿はなんとも滑稽で、この空気を笑いに変えたいと必死。
 それでも彼は笑わない。同調しない。まるで軽蔑するような目だけを彼らに向けている。
「冗談? これが? 泣いてんだぞ」
 泣いてない。寸でのところで我慢した。
 厳しく突き刺さるような双眸に射抜かれては何も言えなくなってしまう。半目写真事件といい、ブラック逢坂くんが出てきてしまいかけている。素がバレてしまうのに。
「お、逢坂くん、私なら大丈夫ですから」
「大丈夫なわけないだろ」
 怒りを鎮めようにも逆効果。穏やかな逢坂くんが豹変したかのように苛立ちを見せている。
「謝れよ」
 底冷えしてしまうような声色。ああ、本当に怒っている。怒りが爆発してしまいそう……いや、爆発してしまっているのか。
 それでも彼らは顔を見合わせては「謝れって言われても……な?」「そもそも逢坂がそんなムキになることないだろ」そう続けるばかり。
 周りの目を気にしてか、なんとか冗談で済ませたい彼らは人よりも自分を気にし過ぎているのかもしれない。こんなことで謝るなんて「ださい」とでも思っているのだろうか。
 別に謝ってほしいわけではない。彼らの言う通り、逢坂くんがそこまで言う必要もないと思う。そもそも逢坂くんは、黙って見過ごしていると思っていた。面倒だと見て見ぬふりをするのではないかと。それなのに、わざわざ割って入ってきてくれるなんて。
「震えてるって分かってて、ましてや怖がってるって分かってて、面白半分とノリだけの勢いに任せて笑いを取りたいなら自分達だけでやってろよ。人を巻き込むな」
 逢坂くんの正論過ぎるストレートな言葉は、胸に痛い程突き刺さる。
 彼は怒っていた。周りの目ばかりを気にする彼らと違い、周りなんて関係ないといった逢坂くんの言葉に、一度は我慢したはずの涙がボロボロとこぼれている。輪郭を辿るように流れていた雫は、はらはらと地面を濡らした。
「……行こうぜ」
 居心地悪そうにしていた数名の男子生徒は各々に複雑な顔を浮かべていた。ぞろぞろと歩き始める彼らは逢坂くんの横を何も言わずに横切ったので一瞬声をあげようかと思ったけれど。
「……悪い」
 耳元で大声を発した男子が、わたしを横切る際にボソっと呟いたのを確かに聞き取った。その横顔からは罪悪感という単語だけがひしひしと伝わってきた。
 張り詰めた空気と、気まずさだけが残った淀んだ空気の中で、黙って歩み始めた逢坂くんの背中。
 逢坂くんを囲っていた女の子たちからは困惑の二文字が読み取れたが、今はとりあえず逢坂くんの元に駆け付けるのが正解な気がした。
 校舎から離れていく彼の背中を追う。中庭で足を止めたその背中はベンチに腰をおろし、そっと息を吐くように顔を上げた。
 頼りない明るさではあるが、外灯で照らされた彼の表情はぼんやりとだが確認することはできた。
 今まで見たことないような、何とも言えない横顔だった。
「泣き止んだのか」
 瞼を閉じた彼はまるで最初から私が追ってくることを分かっていたかのように、さっきまで会話を続けていたような流れで私に話を振る。
「お、おかげさまで」
「そ」
 素っ気ない返事は私に興味がないことを示しているのか。それとも照れ隠しなのか。今時の男子高校生は分からない。
「あ、ありがとう……あんな風に言ってくれて」
 あんな風に、とぼかしてしまっていいのか。それでも、あんな風にとしか表現ができない。
 彼は「別に」と再びよそよそしい言い方で私の言葉を受け入れた。
 暗闇に浮かぶ満月の存在に気付いたのは、話の流れが途切れたタイミングのときだった。気付けば存在感しかないその満月に、不思議と目を奪われたような感覚。
 満月を初めて見たわけではないのに。
 それでも今まで見た中で一番綺麗だと思うのは、先ほどの彼の発言があったからだろうか。
 まさか彼が庇ってくれるとは思わなかった。
 あれだけの人数の前で、今まで隠していた素の部分を曝け出してでも、話に割って入るなんて。人の評価を気にするような人があんな行動に出るとは思いもしない。
「おうさ——」
「ありがとうなんて、気色悪いこと言うなよ」
「……え」
 見透かされている。
 私から出るお礼を、彼は望んでなどいない。
「……そっか」
「ん」
「でも、ありがとう」
「気色悪」
「失礼な」
 それでもお礼を言わずにはいられなかった。あんな場面で、私を庇ってくれる人なんている普通はいないはずだった。ましてや友達のいない私なんかを。
「あんなブラック逢坂出して良かったの?」
「何だよブラック逢坂って」
「あ……素の逢坂くんをそう呼んでたのがナチュラルにバレてしまった」
「おい、隠し通しておけよ」
 それでも、特別気分を害したわけではなさそうな彼は「まあいいんじゃね?」と他人事のような口ぶりで浅く息をつく。まあいい、とは随分と投げやりだ。
「ブラック逢坂バレたよ? 明日からどうするの?」
「別にどうもしねぇよ、あのキャラもそろそろ面倒だったし」
「面倒だったんだ」
 ……そうには見えなかった。
 彼なりに気を遣ってくれているのだろうか。あのキャラクターで通すことが一番気楽だったはずなのに。
「もっと器用にすれば良かったのに」
「器用って何だ」
「ああいう場面でも自分にデメリットがないようにとか」
「んなこと考えてられるか」
 ぶっきらぼうな言い方が何だか微笑ましい。
 あのとき、彼が助けてくれなければ、私は今頃どうしていただろう。からかわれたことの恥ずかしさに加え、周りの目を気にしてその場から泣きながら逃げていたかもしれない。
「おい」
 まるでそれが私の名前かのようになりつつある言葉に、些か納得はいかないものの、
「どうでもいいことは考えんな」
 私の感情が手に取るように分かっているのか「そんなことにエネルギーを使ってたって勿体ない」と続けた彼の台詞は妙に腑に落ちた。
 いつまでも引きずってしまうのが私の性分ではあるけれど、確かにエネルギーを使ってしまうのは勿体ない。
「どうせ覚えておくなら良いものだけ覚えてろ」
「……そんな都合よく人間の脳は出来てないよ」
「それでも、どうせ覚えておけるなら良いものだけの方がいいだろ」
「まあ、そうだけど」
「そうだけど、じゃなくてそうなんだよ」
 多少強引な考え方ではあるが一理ある。要は考え方だ。
 そう無理にでも思おうとしていた過去が不意に脳裏を掠める。あまり思い出したくはない昔の記憶。遠い過去、いや、遠い過去にした、三年前のあの日。脆く崩れていきそうな心を、なんとか保つのに必死だった。そしてそれは、現在進行形で保ちつつでもある。
「逢坂くんはやっぱり優しいね」
「……なんか前もそんなようなこと言ってたな」
「逢坂くんが優しく見えるような魔法にでもかかってるのか」
「助けてもらっといて恩知らずな奴だな」
「まさか。恩しか感じてないよ」
「嘘くせ」
 はは、と小さく笑った彼につられる。
 ——本当は。
 不安で不安で仕方がない。明日からの日々が。
 今回の一件で逢坂くんに好意を抱いている女の子達から敵対心を向けられたりとか、逢坂くんが嫌がらせされたらとか、そんなネガティブな思考ばかりに囚われて、前を向けない自分がいる。
 もう、なにもかも捨ててしまいたいと塞ぎ込みたくなる。そう思うのに、時間だけが無情にも過ぎていく。私のようなちっぽけな人間になど目もくれず、ただいつも通りの朝を迎えてしまう。
 それでも前に進むしかなくて。立ち止まることは許されても、戻ることは許されない。たとえ、辛く悲しい現実にぶつかったとしても、私は進むしかない。そう、思うしかない。
「おい、明日は昼飯奢れ」
 それに、私は逢坂くんの雑用係だから。誰にも務まらないポジションを任せてもらっていた。
「それで今日のお礼が出来るなら」
「なら、一週間だな」
「私が飢えてるよ」
「俺とあんた、どっちが大事なんだよ」
「自分に決まってるよ」
「白状だな」
「逢坂くんにだけは言われたくない」
 ぶっきらぼうな優しさに救われた、そんな夜だった。
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