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第一章

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 ここ最近は第二校舎の三階に通うことが日課だった。
 上履きが擦れる音。静まり返った全体の空気。それから、この土砂降りの雨の音。
 今日は音が研ぎ澄まされているような気がして、一歩一歩、廊下を歩いていく。
 結局保坂くんの財布は見つからなかった。誰かが「十月様にお願いしてみろ」と提案し、保坂くんは言われるがままノートを破って何かを書き出していた。それによって私の仕事が増えたということだ。
 おそらく私書箱には財布の一件が書かれているだろう。考えるだけで重くなる身体に鞭を打ちながら、どこから探すべきかを考えながら歩く。
 誰一人いない教室はどこか不気味さを感じるけれど、自分だけがこの世界にいるような不思議な気分になる。三階へとたどり着いたとき、その先から、がこんという音が小さく響いてくる。
 私書箱の方だ。
 誰かいるのだろうか。もしかして保坂くんが私書箱に願いを託しに来たとか。真っ先に思い浮かんだのは不安と戸惑いだった。このまま引き返すべきか。誰かと会うわけにはいかない。
 咄嗟に階段を引き返そうとするけれど、足音はどんどん遠ざかっていく。反対の階段を使い下に降りていくのかもしれない。
 しばらく身動きが取れないまま、じっとしていると、足音は完全に消えた。
 ゆっくりと廊下をのぞき、人が誰もいないことを確認する。そっと廊下へと出ては、毎日のように見ている私書箱の中身をチェックした。
 どこか責務を感じていたのはたしかだ。自分が関わるようになって、自分があの中の悩みを解決しなければと思っていたのも事実。
 そう思うことは、私の中でどこか救いだった。
 雨音は叩きつけられるような激しいものへと変わっていた。
 ついさっき、ここにいた人は私書箱に何か入れたのだろうか。そんなことを思いながら中を見ると、見慣れない形のものが投函されていることに気づく。
 それを投函口から抜き取ると、手元に現れるのは一冊のノート。黒地で、無記名の、謎の代物。これは、果たして十月様の噂を知った人間が入れたものなのだろうか。
 そうであれば私には見る権利がある、……ような、ないような。
ルーズリーフの切れ端や、かわいらしい便せんが入っていたのは見たことがあったけれど、まさかノート一冊が入っているなんて。
 ざらざらとした素材の表紙をはらりとめくった。

【4月7日
クラス替えをした
どいつもこいつも人の顔を見ては騒ぎ立て質問をしてくる
男も女もまともな奴がいない
覚える価値なし】

 え、という言葉があまりにも情けなく、そして素直に出ていったことにはっとした。
 なんだ、これは。なんなんだ、これは。
 衝撃的な内容が飛び込んできたことに、息が止まるほどの驚きを覚えたのは言うまでもない。
 とても乱暴な筆記で書かれている言葉は、いわば日記のようなもの。
 毎日欠かさずつけられている日記の内容はどれも短く、一言〝うざい〟だけで終わってしまっている日もある。
 再度表紙に書かれている持ち主の名前を確認するが、最初に見た通り名前はない──はずだった。裏表紙、黒字にボールペンで逢坂楓と書いてあるのが確認できることに気づくまでは。
 黒の表紙に、黒の文字。まるで、持ち主をわからせるような、そうでもないような、複雑なものが絡んでいるように見える。これが、がこんと捨てられたような気分になるのはどうしてだろう。
「南雲さん」
 突然呼ばれた自分の名前に肩が跳ね、目が落ちてしまうかと思った。
 バタンと勢い良く閉じた手元の日記をどう隠そうか、そればかりを考えたがどうにもどうすることもできない。静かに、ゆっくりと振り返った。
「あ、逢坂くん……」
 仄暗い廊下の先に、ふわりと宿る優しさの塊。相変わらず浮かべられた笑みに安堵感のようなものを感じるけれど、得体の知れない恐怖に襲われた。
「こんな時間まで南雲さんが残ってるなんて珍しいね」
「あ、えっと、たまたまで。普段は、ぜんぜん来なくて」
「そうなんだ、知らなかった」
 じわじわと、何かが胃の奥からこみ上げてくるような感覚。これをなんと呼ぶのだろうか。その名前が私には分からない。私とは対照的に、普段通り温厚で爽やかな逢坂くんに少し拍子抜けをしてしまう。
 今日は勉強会があるんじゃないの、と決して今のタイミングではない問いかけが出そうになったのを寸でのところで飲み込む。
 このノートの持ち主は逢坂楓と書いてあった。私が知っている人物ならば、この持ち主は目の前にいる彼で間違いはない。けれど、疑問はいくつか残る。
 これを、なぜあの私書箱に入れたのかということ。それから、投函した直後にこうしてすぐ戻ってきていること。これらをどう解釈すればいいのかわからない。わからない、けれど、まず先に考えるべきことはそこではない。
「えっと……その、これは」
 今、私を支配しているのは、後ろめたさと罪悪感だった。何気なく開いた結果、こんなことになるとは思いもしなかったのだ。
 それでも、彼はにこやかに微笑んでいる。持ち主とは思えない顔で笑みを浮かべている。
 てっきりこのノートを見たことで怒られるのではないかと思っていた。
 目の前にいるのは優しいままの逢坂くんで、次第に焦りを覚えていた思考から〝これは逢坂くんの名前が書いてあるだけで別人が書いたものでは?〟という希望が差し込み始める。
 そうでなければこんなにも冷静にはいられない。人に日記を読まれたとあれば、羞恥心でこの場にはまずとどまっていられない。
「逢坂くんはどうしてここに……?」
「ああ、俺もちょっと忘れ物」
 そう言ってにこっと笑うものだから、つられて頬が緩んでしまう。ああ、やっぱりこれは彼のものではないらしい。
 誰からも好かれている人がこんなものを書くなんて考えられるわけがない。
「悪いけど、それ返してくれるかな」
 そう、無理に解釈をしようと思ったのも束の間。彼は私の手元にある日記を指してそう一言、口を開く。
「え……」
 優しそうな笑みを見て、ぞわりと粟立ちを覚えた。
「俺のなんだ、見えにくいけど名前書いてあると思う」
 ——俺の。
 彼は躊躇うことなくはっきりと、自分のものだと主張した。と同時に、これは彼のではないかもしれないという考えはいとも簡単に打ち砕かれ、骨まで凍っていくような恐怖が襲う。
「……あ、ごめんなさい」
 その場を取り繕うだけのような謝罪の言葉を口にしてノートを差し出せば、
「ありがとう、でも驚いた。十月様って南雲さんだったんだ」
 決して驚いてはいないような顔で朗らかに言い放った。言葉の節々には棘が含まれていた。
「それは……その、いろいろとあって」
「へえ、大変だよね。暇人代表だったっけ。そんな神様みたいなこともしないといけないんだね」
 まっすぐにぶつけられる嫌味に顔があげられない。喉の渇きを覚えながら、なにかを言わなければいけないと思っていた。でも、なにを? なにを言えば正解なのだろう。
「南雲さんってほかの人とはどこか違うと思ってたんだよ」
 つらつらと語られていく私への印象は、雨の音に混ざって、とても冷たいものに聞こえる。
「むやみにはしゃいだりしないし、節度ある行動をする人なんだろうなって。出しゃばらないし、人とむやみに関わろうとしないから、常識があるんだとばかり思ってた」
 ざあ、ざあ、と土砂降りの雨が、私の心に容赦なく降り続ける。
「でも、それって俺が勝手に作り出した南雲さんのイメージであって、実際のところはそうでもないっていうか。ほかの女子みたいに騒ぐだけしか脳がない人間じゃないってところだけは、まともだなって感心してたんだけど」
 直接的だった。逢坂くんの言葉は、あまりにも尖っていた。穏やかな口調の中に含まれる毒は、私の心の奥をしっかりと抉っていくだけの力がある。
「それって、ただの陰気で根暗ってことだったんだ。知らなかったな、そういう人だったなんて」
 わざとらしく、ぐさぐさと言葉の武器で刺されていく。
 私はそういう人間だった。人より前に出ないようにして、目立たないようにして、ひっそりと、加古の後ろに隠れて生きているような人間。光のうしろにある影のような存在。それを逢坂くんに見破られていることが、あまりにも恥ずかしかった。
「で、ノートの中だって見たんだよね」
 問題となっているノートに話題が戻り、いよいよ喉が張り付いたように声が出なくなる。
 ぎこちなく、けれども質問の内容を認めるような形で、二、三度うなずいてみせる。その仕草をするだけで精一杯だった。
 視線を上履きに落としながら、彼の反応をおそろしく思っていた。
 彼はどんな顔をしているのだろうか。私とは顔すら合わせたくないと思っているのではないか。今すぐにでも目の前から消えてほしいと思っているのでは。ありとあらゆる可能性はすべてネガティブなものでしかない。居たたまれないとはまさにこのことだ。
「そっか、別にいいよ」
「……え」
「──とでも言うと思った?」
 顔色を変えるはずのなかった逢坂くんの声色が不自然な程に歪んだ。
 拒絶されると思っていたのに、期待させられ、その結果、拒絶として彼は私を嘲笑う。
 私の手元から荒々しく日記を受け取ると、先ほどまで浮かべていた優しさを綺麗さっぱりと消した。
「十月様って馬鹿らしいよね」
 すっと、無と化した顔で、きつい言葉を心臓にぐさり。
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