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第一章

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「それ、持つよ」
 彼の視線の先には、私の両手にどっさりとのった数十冊のノートの束。
「あ、いや、大丈夫だから」
「いいから、重いでしょ」
 半ば強引に持っていかれたノートを何とも軽々と持ち直し、「行こうか」と笑うその顔に、目を瞠る。私にまで優しくするメリットなんてないというのに。
「俺も同じ係なんだから言ってよ」
「そういうわけには……、暇を持て余している代表としては逢坂くんに頼るわけにも」
「はは、なにそれ。そんな代表あるの?」
 くしゃりと笑ったその顔があまりにも可愛らしくて、思わず「ヘエ、モテソウ」と片言の感想が出てきてしまったのは、どうやら失敗だった。
「いや、モテないから」と苦い顔をされたので、さすがのイケメンもこんな顔をするんだと勉強になる。
「俺も暇だよ、何もしてないし」
「それって俗に言うイケメンジョーク?」
「南雲さんって面白いよね」
 職員室に入るなり、手ぶらの私を見ては「お前は何しに来たんだ」と数学の先生に笑われる結果となったのは、優しくしてもらったツケでもきたらしい。
 先生たちは彼を贔屓目に見ている傾向があると思うのは、ひねくれた考えからなのか。
「逢坂、忙しいのにありがとな」
「いえいえ、先生たちの方がお忙しいですから」
「南雲も見習えよ」
「先生、買い被るのもいい加減にしてくださいよ」
「逢坂はどこまでも謙虚だなあ」
 この待遇の違いに不満を持たないかと言われれば、「あなたたちの顔には一体いくつ目ん玉がついているんですか」と激昂してやりたいというのが本音だけれど。人は少なからず褒められたいと思っている生き物だ。
「──南雲さん、なんかごめんね」
 職員室を出て数歩歩いたところで逢坂くんに突然謝られ、はて謝られることなんてあっただろうかと一時停止。
「先生のあの言い方、感じ悪かったから」
「……ああ、ゼンゼン、気にしてナイヨ」
「すごいカタコトだね」
 今日に限った話ではない。こんなことはよくあることだ。いつだって、私は主人公にはなれない。いつだって脇役でしかない。
主人公になれるのは、逢坂くんのような特別な人だけだということを、私はよく知っている。だから逢坂くんが謝る必要性なんて一つもない──と言えれば、まだ少しはマシな人間だったのかもしれない。
「……逢坂くんだけが褒められる世の中は不公平だとはほんの少し思わなくないけど」
 つい口が滑って本音がぼろっと出てしまった。
 そのせいか、少し目を丸くさせた彼の瞳には、驚きの色が滲んでいたように見え、はっとする。今、なんてことを言ったのだろう。
「あ、いや……冗談で」
 なんとか取り繕うと必死になるものの、墓穴を掘る結果となってしまう。しかし逢坂くんは気を悪くしたような顔を見せることもないまま、
「うん、俺が南雲さんの立場だったら先生に手、出してると思う」
 くしゃり、またあの笑顔で場を和ませてしまう。
「……それはまた物騒な話で」
 そんな才能、最強じゃないか。だから主人公タイプなんだ、逢坂くんは。こんなことで僻んでいるような私は、永遠の脇役であり、いつだって端の端にいるような人間なのだ。 
「だから南雲さんはすごいなって思うよ」
 がやがやと賑わう校舎の中で、逢坂くんの声だけが綺麗に鼓膜に触れる。
 すごい、と聞こえたような気がするのは気のせいだろうか。脇役の私が今、主役級の彼に、褒められたように思うのは、あれは都合のいい幻聴だったのだろうか。
「もしかして褒めてくれた……?」
「最大に褒めたつもりだったんだけど」
 どうやら本当にお褒めの言葉をいただいたらしい。おまけに認めてもらえたよう。それがお世辞だったとしても、さっきの先生に対してのモヤモヤはさっぱりなくなる程には心が晴れる。
「南雲さんって、どこか人と違うところがあるよね」
「え、……そうかな?」
「うん、なんか今時の女子高生っていうよりは、古風な感じ?」
「……そんな素敵なものじゃないと思うけどなあ」
 加古のように振舞うことはできない。私はどちらかというと、大縄跳びで一人だけ入れないような、度胸のない心の持ち主だ。それを彼は、いいものとして評価してくれているだけ。
 盗み見をするように、視線は隣を歩く彼へと流れていく。
 さらりと伸びた色素の薄い髪質は、より優しさを強調させているようで、すらり、と伸びた身長は噂によると百八十前後だという情報を耳にしたこともある。
 この人はどれだけ神様に愛されてる人なのか。天は二物与えずなんて言うけれど、彼を見ているとそんなことわざには信憑性がなくなる。
 逢坂くんに、コンプレックスはあるのだろうか。人間だからさすがに一つや二つ………いや、ないか。
 神様からあれやこれやと与えまくられてる人なのだから、欠けているところがあったら逆に驚いて尻もちをついてしまう。
「あ、逢坂くん見つけたあ」
 前方から突如現れた女子三人組に声を掛けられたかと思えば、あれよあれよと逢坂くんの隣のポジションを奪われる。
 三人組は「もう探したんだから」「職員室に用事?」と逢坂くんに質問攻めをしながらその場を立ち去って行き、彼は苦笑いを浮かべながらも彼女たちに連れて行かれ、その背中を静かに見送る羽目になった。
「だっさ」
 そんな私のガラスのハートに大打撃を食らわせる一言が飛んでくる。肩越しに振り返れば、壁に持たれながら呆れ顔を浮かべる生意気な一年生を発見。
「今のはさすがに可哀想だわ」
「学校では話しかけないというルールだったような……?」
 見ず知らずの一年生……ではなく、私の父の弟の息子という近い関係性で、偶然にも同じ高校に進学してきたのが七か月前。
「話しかけたくないけど可哀想過ぎて思わず」
「それはそれは」
 顔を合わせば毒を吐き、自分から話しかけないというルールを設けたのにも関わらず、こうして槍を投げてくる。心底私を嫌っているということだけはよくわかる。
「南雲綺穂にはあの人、無理だと思うけど」
 腕を組み、じとっと睨むその双眸は黒く濡れている。なぜか私のことをフルネームで呼んでくるから、私も同じようにしている。
「無理って?」
「あいつでしょ、逢坂駿河って。狙ってんじゃないの?」
「びっくり桃の木」
 どこをどう見てそうなったのか。
 私が彼を狙ってる? 地球がひっくり返ってもそんなことはあり得るはずがないというのに。
「そんなことばかり言ってないで教室戻ったらどう?」
「何だよ一応忠告してやってんのに」
「忠告って」
「あの人狙ったって結果は玉砕」
「いやいや」
「まあせいぜい頑張ればいいと思うけど」
 人を馬鹿にしたような目で、そして顔で、見下して笑うその顔に若干苛立ちを覚えながらも、平常心をとにかく保つことに成功。
 昔からあの男、冴島透は、私という人間がどうも気に食わないようで、いつだって攻撃的な態度をとってくる。最近は親戚の集まりもなく顔を合わせなくて済むと思っていたのに、彼はこの高校へと進学してきたのだから、縁は簡単に切れないものだと勉強になった。
 私がここに通ってると知った瞬間「最悪、転校しろよ」と平気で言ってきたのを今でもハッキリと覚えている。先輩にも関わらず「一緒の高校とか鼻が腐る」と言っていたことを一生忘れない。私が結構根に持つタイプなことを、あの後輩は知らないのだから気の毒だ。
 仲良くしたいとは思わないけれど、ことあるごとにこうしてちょっかいをかけてくる心理状態とはどうなっているのか。
 逢坂くんと対照的に、漆黒色の髪は、まるで冴島透そのものを表したようなカラーだと思う。冷たい印象だ。
「冷たい、か」
 それは、彼に限ったことではない。きっと私の家族も、世間一般では同じような言葉を使われるのだろうか。
 ざあ、と降りしきる雨に意識が削がれる。
 窓の外は灰色の緞帳が降ろされたように薄暗く、心細い空間を演出している。
 雨脚は強くなっていく一方だ。雨が降れば、秋は消えていく。どんどん姿を消し、知らない季節へと移り変わっていこうとしていた。
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