夏の終わりに目覚めたら

茉白いと

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第3章

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「もしもし」
『あ、萩野ちゃん? よかった、返事ないから心配してて。帰れてる?』
「すみません、はい、帰れて──」
 そのタイミングでホームに電車がやってくる音が響き渡り、それはもちろん、電話の向こうにいる高津先輩も届いてしまった。スマホ越しの息遣いは変わった。
『あれ、もしかしてまだ外?』
 心配してくれているような口調。高津先輩は本当に優しい。そしてあたたかい。
 だから後ろめたくなる。私は、ただ毎日死にたいと思って生きているということが。そんな生き方をしていることが恥ずかしいようで、でもどうしようもできない。
「ちょっと買い物を思い出して。ちょうど今から帰るところなんです」
『そうだったんだ、なんなら買い物付き合ったのに。こんな夜遅いと家族の人とか心配するだろうし』
 心配なんてしないんですよ。そう口をついて出てしまいそうになったのは、ここに来るまでに見た争いの光景が流れたからだろうか。あの二人は、私のことを心配なんてしない。そんなことはしない。二人にとっての心配の対象は百合子だけだ。実の娘である、あの子だけ。
 そんな卑屈な思いがどろどろと溢れてしまいそうになる。
 でもさ、と陽だまりのような声が聞こえたのは、そんなときだった。スマホ越しの声が恥じらいを感じるように、遠慮がちにささやく。
『本心を言うと、何より俺が心配なんだ。しかも俺とバイバイしたあとになにかあったらって思ったら、気が気じゃない。俺がさっきまでいたのにって思うだろうし、だから萩野ちゃんには無事に家に着いていてほしいんだ。守ってあげられない範囲と時間にいると心配だから』
 ああ、心が痛い。そんな優しくしてもらえるような人間ではないのに。
『まっすぐ家に帰ってね。なんならこのまま電話繋いでおいてもいいし』
 いえ、となんとか声を絞り出す。大丈夫です、電車もうくるので。家も近いので。カスカスな声が悟られないように、なんとか、なんとか声を出す。
 家に着いたら連絡してね。そう言われ、何度かうなずいた。画面越しの私など見えるわけがないのに、それでも声にならなかった。最後、ありがとうございます、と言った私の電話を高津先輩は切らなかった。萩野ちゃんから切って、と。そう言われ、なくなく切った。
「いい彼氏じゃん」
 最初から終わりまで聞いていた柊くんは、空をぼんやりと見上げるように顔を上げていた。いつだったか、こんな風に顔を上げたことがある。いや、あれは今日ではなかったか。
「彼氏じゃないよ。でも、なんでこんなことになってるんだろうね」
 優しさが怖くて、それでいてちょっぴり負担になってしまう。お願いだからそんなに優しくしないでと言っても、きっと高津先輩は愛を与えようとしてくれるのだろう。
「電車、乗らねえの?」
 立ち上がった柊くんが、到着した電車に乗ろうとし、私に振り返った。その彼に首を横に振る。これじゃないの、と苦笑が浮かぶ。
「私、反対側の電車だから」
「え、でも今」
 電話で私が言っていたことを気にしているのだろう。もう電話がきたからと、そう相手に伝えたことを、信じてくれているのだろう。高津先輩のように。
 じっと私を見た柊くんは、そのまま電車に乗り込もうとし、しかしぐるりと方向を変えベンチに戻ってきた。
「柊くん、どうしたの。電車が」
「いい。あんたの電車が来るまで待つよ」
「でも、これ逃したらまたかなり待つことに……」
 都心部であれば夜であっても十分おきにくるのだろう。けれど、ここは都心から離れた田舎だ。平気で三十分、一時間、待たなければいけない。
 にも関わらず、彼は断固として立ち上がろうとはしなかった。
「いいんだよ。もう決めたことだから」
 プシューと電車の扉が閉まる音がなり、柊くんをホームに残していってしまう。小さくなる電車を眺めながら、柊くんへと視線を戻す。
「ほんとうに、よかったの?」
「別に。終電でもないんだし。適当に乗って帰るから心配すんな。それより、向こうに嘘ついてる方が心配になる」
「ああ、それは」
「電話、切りたがってるように見えたし。そんなの見たら、じゃあ、とか言えないだろ」
 しんと静まり返ったホームには私と彼が二人。もう次の電車も、ここから飛びだつのは私と彼だけかもしれない。
「彼氏じゃないのかよ、今の」
「違うよ、さっきも言ったけど」
 夜風が心地いい。髪が顔にかかり右耳の上でおさえる。
 高津先輩の告白を受ければ、きっと先輩のことを彼氏だと言えるのだろう。
 けれど、それを拒んでいるのは私で、自分がどうしたいのかも分からない。
「なんで私、今嘘ついたんだろ。なんで、ここに座ってるんだろ」
 わからないことが多い。自分のことなのに、自分の気持ちに責任が持てない。
 無条件に愛されることが怖い。帰る家がないということが悲しい。私のせいで誰かが辛い思いをするのは耐えられない。
「正解がわからなくなったの。何を選べばいいのかわからないだけ」
 今まで溜め込んできたものを吐き出すように「何が正解なのかな」と言った私に柊くんはずっと空を見上げていた。それから、静かにこう言った。
「で、その正解は、誰の基準の正解なの?」
 星が控えめに瞬いていた。隣から聞こえたのは、誰の基準の正解なのかということ。
「俺から見たあんたは、他人の正解をそのまま反映させようとしてる気がする。だから、誰の正解に合わせればいいかわからなくて、余計にこんがらがってるんじゃねえの」
 今日は満月だ。とてもきれいなまんまる。
「それに、あんたが選択しようとしてるものは、ほんとうに正解なのか?」
 きっと、柊くんは見抜いている。私が死のうとしていることに。
「自分じゃない人間の声をもっと聞いた方がいい。俺から見れば、あんたは自分で自分を苦しめてるだけな気がする。それが最悪な場所に繋がっている気がする。まあ、全部気がするだけど」
 あまりにも静かな夜で、柊くんの声だけがやけに聞こえてしまって、それが逆に怖いと思ってしまった。
 何も言わなくとも、柊くんには全て伝わってしまようで、言葉一つ口にするのも憚られた。
 代わりに空を見上げたこの世界を照らしているのは、無数の星々と、その星の何倍も大きな月。そして、人工的な人の明かり。
 ああ、私は月になれなくとも良かった。小さな小さな、見えるか見えないかぐらいの星でいいから、家族だと言ってもらいたかったのかもしれない。
 好きになってもらわなくいいから。そんな立派なものを望んだりはしないから、せめて星のように、そこにいることだけを認めてくれたら──そうじゃないと、母に会わせる顔がなかった。
 母もこんな未来を望んでいなかったはずだ。実の妹に、娘が嫌われているなんてこと考えたくなかったはずだ。
 だからこそ、咲子さんと歩み寄りたかった。
「やっぱり、生きてくって難しいね」
「だからイージーモードだったらつまらねえだろって」
「……そうだよね」
 でも、やっぱり欲を言ってしまっていいのなら、もう少しだけ簡単にしてもらえたら、なんて。そう思ってしまう私はわがままなんだろうか。
「まあ、その電話の相手とは一度向き合ってみてもいいんじゃねえの。話し合いも必要だろ」
 他人との向き合い方は、他人の話を愛想よく聞くという術だけだった。いざ自分の思いを伝えるとなると、口にすべき言葉が見つからない。
 自分なんて殺していけばいいと思っていた。人とのトラブルなく過ごしていければいいとさえ思っていたのに。
「向き合い方なんて忘れちゃったよ」
 逃げていただけだった。向き合うという戦場から、逃げていただけ。
「あんた、人間らしくなると、すっげえ面倒な奴なんだな」
「そうだよ、嫌われない術でも教えてよ」
「知らねえ。なるようになんだろ」
「すごい曖昧」
「俺にちゃんとしたアドバイスを求めんな」
 鼻で笑うものだから、つられて同じようなことをしてしまう。
「なんか、柊くんって強いよね」
「なんだよ、それ」
 いろいろと考えるものはたくさんある。
 でも、まずは向き合えるものから、もう向き合ってみるしかないのかもしれない。
 高津先輩の関係がをまずは清算する。
 高津先輩。優しいあの人に、真実を伝えたら、その優しさは持続されるものだろうか。
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