夏の終わりに目覚めたら

茉白いと

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第1章

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「学校は休みでしょう?」
 夏休みに入った朝。制服を着た私に咲子さんが怪訝そうな顔をした。
「部活の仕事があるんです。帰りは夕方になると思います」
 それでも口角はあげ、いつも通りを演じる。咲子さんは、私が日中いないことに安堵したのか「そう」とだけ告げた。
 百合子は昨日も夜遅くまで勉強をしていたからかまだ眠っているらしい。百合子は飲み込みが早く、教えたこと以上に吸収してくれるところがある。
 ローファーに足をつっこみ、それから学校へと向かう。
 ──夕方って。
 自分で咲子さんに言っておきながら笑えた。水やりをするだけなのに、何が夕方だ。それでも、私があの家にいることは決して褒められることではない。だから家を出る。それが一番正しい。
 結局、柊くんとは夏休みの水やり分担を話せないままだった。
 水やりはどれぐらいの頻度ですればいいのだろうか。
 そんなことを思いながら、さざなみ駅へと着き、ふらりと電車を降りてはベンチに座った。それから思った。
 あれ、なんで座ったのだろう、と。
 改札に向かわないと。改札出たら学校に向かうだけ。
 自分の体がなぜ、ベンチに座っているのか理解できなかった。
 きちんと客観視できているのに。おかしいと思っているのに。まるで脳とうまく意思疎通ができていないような感覚に陥る。
 おかしいな、水やりしに行くだけなのに。
 ゆらりと立ち上がり、改札へと続く階段ではなく、ホームへと向かっている足。
 死にたいって思うことはあった。なんか、生きていることに疲れるから。
 警笛が鳴る。頭に響く。プルルと鳴る公衆電話。うるさい、全部、うるさいなあ。
「何してんだよ!」
 ぐっと手首を掴まれ、身体が後ろへと引っ張られる。と同時に聞こえた誰かの焦ったような声。
「……あれ、柊くん」
 いつの間にか電車がホームへと到着している。
「お前、ホームから落ちそうだったぞ」
「あれ、今あの電話……公衆電話鳴ってなかった?」
 警笛に混じって聞こえたそれに、柊くんは「いや」と首を振る。
「鳴ってない。つうか、なんで落ちそうになってたんだよ」
「ごめん、なんかボーっとしてたみたい。迷惑かけちゃったね」
「お前、おかしいぞ」
 無遠慮なその一言に、さすがに頬が引きつった。
「……おかしいかな、私」
「おかしいだろ、あんなの、自分からいったようにしか見えなかった」
 一部始終を、きっと柊くんに目撃されていた。そして、引き止められた、この世界に。
「なのに今は変に笑おうとして。何考えてんだよ」
「ほんと、ボーっとしてただけ」
「じゃあ、すんなよ。死ぬぞ」
 厳しめの忠告に「そうだね」と苦い笑みが滲んでいく。
「疲れた」
 そう言ってベンチにどかっと座りこむ端正な顔立ちの不良くん。
 学校には行かないのだろうか。そんなことを思っていると「座れば?」と隣を促される。
「水やりは……」
「あんたの命救ったんだから休憩させろよ」
「それは、ごもっともですね」
 ぎこちなくベンチに座りながら、視界の端で動く何か。
「鳩……」
 独特の鳴き方で首を前後に動かしながら駅のホームを歩いている。
 いつでも羽ばたいていけるその姿が、心底羨ましい。
 私にも羽があれば、どこか遠くへ飛んでいけたのだろうか。
「あんた、なんでいつも笑ってんの」
 隣から飛んできた声に意表を突かれる。真っ黒な双眸が私を射抜いていた。
「笑ってるかな、私」
「引くぐらい」
 そんなつもりはなかったけど、そうだったのかもしれない。私はいつだって笑おうとしてた。人の機嫌を窺いながら生きる方法しか知らない。
「水やり、どんな順番にしようか?」
「なんで普通に話しかけてきてんだよ」
「あ、話さない方がよかったかな?」
 彼はとんでもなく長く、深い溜息の末、柊くんは「いいけど」と吐き出した。
「水やりってどんな頻度でやんの」
「どうだろう、私も知らなくて……あ」

「適当でいいですよ。僕もよく分からないから。やりすぎはだめだって聞くし、適度でおっけーです」
 エアコンが利いた職員室で、園芸部顧問のこうちゃんが爽やかに、でも目だけは笑っていないような顔でよろしくされた。あの調子で幽霊部員はだめだと笑顔で圧をかけてくる。
「あのサイコパス野郎、マジ適当」
 柊くんはあれから、ずっとぶつぶつとこうちゃんに文句を言っている。
「でもあれがこうちゃんだからね」
「そういうので許せる問題か? あ、おいそこ、水やりすぎだろ」
 ホースの主導権を握っている私に、柊くんが注意を促す。
「夏だから、これぐらいあげた方がいいんじゃないかな」
「やりすぎはだめだってあいつも言ってただろ。いいから貸せ。俺がやる」
「柊くんに任せると少量の水で済まされそうだから……花が可哀想で」
「うるせえ、お前のやりすぎよりマシだ」
「ここは私に任せてもらって」
「だから貸せって言ってんだろ」
 ぐっと、手元から抜き取られそうになり抵抗しようとした。
 そう、抵抗しただけ。
 決して悪気があったわけではないことは、柊くんに伝わってくれていたらと願うしかない。ホースの先端は、花壇から思いっきり柊くんへと向けられ、勢いよく水が飛んでいった。
 頭から上半身、ぼたぼたと落ちる水と、不愉快を露わにした柊くんの顔。
「えっと、……ごめんね? その、手元が狂って」
「どう狂ったらこうなるんだよ。俺に恨みでもあんのか」
 ご立腹だ。金色の髪がぺしゃんとなっているし、制服もびしょ濡れなのだから無理もない。
 最悪と呟く柊くんは、「あんたといると、ろくなことにならねえな」と言う。
「朝は死にかけるし、かと思えば命の恩人に水をぶっかけるし」
「柊くんには多大なるご迷惑をおかけして」
「ほんとだよ、いいからもう貸せ」
 強引に奪われたホース。それを花壇へと向け、しばらくそうしていると、虹が浮かび上がる。
「なんで園芸部入ったんだよ」
 ぶんぶんと頭を振るその姿は、まるで水浴びをした犬が水分を飛ばすような光景と重なった。ハンカチを手渡しながら「私?」と訊ね返す。
「いろいろ選べただろ。こんな面倒な委員より、もっと別のとこ」
 柊くんは「いらない」とハンカチを受け取るのを断りながら、髪をかきあげた。
「うーん」
 園芸部はたしかに面倒だと言われていた。
 放課後は花壇の花の入れ替えや、雑草取り、頻繁な水やり、上げだしたらもっと細かいものがある。それに夏休みには地域の清掃活動も担っていた。要は授業以外の時間も拘束されることが、この部活の最大のデメリットだった。
 けれど、私はそこに惹かれた。デメリットに惹かれた。
「学校にいる理由ができる、ってところかな」
「なんだよそれ」
「世の中には、居たい場所が学校だって人もいるってことだよ」
「学校に居たいって、そんな物好きほんとにいんのか」
「いますとも、ここに。学校にいていい理由になるから、迷わず園芸部を選んだ」
 家にいなくてもいい口実が作れるというのは魅力的だった。どこかで時間を潰すことだってできるけれど、その場所がたまたま学校だったというだけ。
「学校好きなのか」
「まあ、そんなところかな」
 曖昧に答えを濁した私に「ふうん」と興味がなさそうな声が聞こえてくる。
「あ、遼希! やっほー」
 頭上から落ちてくるようにして届いたその声に見上げると、香澄が片手にフルートを持って手を振っている姿が見える。
「おはよー、朝から部活なんて精が出るね」
「お互い様でしょうが」
 香澄と話している間、柊くんは黙々と水やりを続ける。水の量を心配していたけれど、それはどうやら杞憂に終わったらしい。
 互いにファイトと励まし合いながら、香澄は部室へと顔をひっこめた。
「朝から死にかけてた奴とは思えないな」
 柊くんがホースを蛇口から回収し、くるくると巻いていく。
「やだなあ、まだその話持ってくるんだ」
「お前ってほんと、何考えてるのか読めない」
「よく言われる。あ、ってか水やり当番、結局どうするんだっけ」

 ゆっくりと走り始めた電車に揺られながら、これから夕方までどう潰そうかと考える。
 ホームを抜け、やがてごとごとと音を鳴らしていく車内で、行き先は図書館にしようと決めていたところで、ふと柊くんとの会話を思い出す。
『じゃあ明日は俺で。明後日はあんた。明々後日は俺。交互でやればいいんじゃね』
 柊くんは夏休みだというのに一日起きに学校へ来るという。しかもその理由が花壇の水やりという仕事のために。
 人は見かけによらないと言うけれど、柊くんに関しては典型的なタイプでしかない。
 喧嘩っ早くて休みがちだと聞くけど、本当にそうなのだろうか。
 誰もが園芸部の仕事をサボると思っていたのに、いざ蓋を開けてみれば誰よりも真摯に取り組もうとしている。律儀さで言えばダントツなのかもしれない。
 ふうと息をつきながら視界を閉ざすように目を瞑るのと、がたん、がたんと走っている音が全身に伝わる。心が落ち着く音はいろいろあるけれど、電車に揺られている音が一番好きだった。
 ──あの電話は何だったのだろうか。
 ずっと頭の中にあった出来事が、ぽつんと残るように浮かんだ。
 結局、誰にも言うことはできなかった。公衆電話から電話がかかってきたのだと、しかもそれは駅のホームに設置された公衆電話から。
 そんなことを言って信じてくれる人がいるのか。
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