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第六章 やり直したかった

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 須王の実家に訪れたのは二回目だった。一度目須王の葬式のとき。更地になったその光景を、高校のときのあのメンバーで見つめた。そのときから一度も足を運んだことはなかった。 
「守りたかったんだな……誰もここにいないとしても」
そうして今、改めて訪れ、まっさらになった土地を見て思うのは、本当に帰りたかった場所はここだったのではないかということ。家族と過ごした時間が残るこの場所。けれどここには誰も須王の帰りを待つ人はおらず、帰りたくても帰れない場所になってしまった。
 だからこそ、時田と過ごしたあの場所を第二の家として、ここを金で必死に繋ぎ止めていた。須王大我はこの土地にこだわり続けていたのだろう。あそこが更地のまま売りに出されないのは須王の金が今も生きているから。
『お前が須王を殺したんだろ!』
 柳の怒りが頭の中で何度も響く。
 ぐっと胸が苦しくなり、膝から崩れ落ちそうになる。須王が生きていたころの最後を見つけたのは自分で、そしてを引き取った最期を見つけたのも自分だった。
 柳が言いたかったのは、一緒に過ごしておいてどうして異変に気付けなかったということなのだろう。三年も一緒に暮らして、どうして死を防ぐことが出来なかったのかということ。気づいていれば、無理にでも病院に引っ張りさえすれば、まだ生きていたのだろうか。
 須王はどこか絶望と隣合わせに生きているような人間だった。あまりにも純粋で綺麗な心を持っていた。けれどその深い闇のところには、自分の家族が少しづつ消えていくことが怖いという恐怖が眠っていたのかもしれない。
 分からないんだ、一緒にいたのに、どうして別れも告げずにいなくなってしまったのか。
 助けられなかったことが、ずっと頭にこびりついて離れない。助けてほしかったことすら望まなかった須王を、どうすれば救えていたのか。この世界に繋ぎ止めていられたのか、いくら考えても分からなかった。
 なあ、須王、ごめん。僕を救ってくれたのに。いつだって僕を救ってくれたのに、僕は須王に何も返せなかった。
 実体があるということは、どれだけ奇跡なのか、須王を失って初めて知った。
 瞼の裏に浮かぶ残像にどれだけ話しかけたところで、それはあの須王であって須王ではない。魂を宿していた器は、もう灰となって消えてしまった。その器をどれだけ探したところで、この世界には須王はいない。
 助けてあげられたかもしれないその命を、自分は手を差し伸べることすらできなかった。

 小劇場は好意で貸してもらえていたのではなく、あんこが所有者から権限を買い取っていたことを時田は、一週間ぶりに顔を合わせたときに知った。
 誰からの連絡も取らず、ずっと孤独に耐えた時田は、意を決し、劇場へと向かった。五人は揃っていた。深い悲しみを背負い、それでも今を生きていた。その背中から、ずっと目を背けてきたのだと、時田は今更ながらに痛感する。
 時田の存在に気付いたのは、小野寺だった。目を見開き、時田くん、と呟いた一言で、残りの全員が時田を見た。
 緊張で、足が竦んでいた。
 柳の顔がまともに見られない。二階堂も、あんこも、小野寺の顔も。
 怖くてたまらない。逃げ出した自分が、またここに戻ってくる権利なんてあっただろうか。それでも、ここに戻らなければいけない。須王を受け止めなければいけない。須王が残したものを、自分たちが受け継いでいかなければ。
「……ごめん、本当に、ごめん」
 出てくるのは、謝罪の言葉だけ。目を背けてきたこと。須王を助けられなかったこと。
 頭を下げた時田に、小野寺が歩み寄る。「乗り越えたね」時田の肩に置かれた手が、震えていた。

 「お客さんが前から相談受けていたんです。資金繰りに困っているようでしたから、それなら私に権利をくださいってお願いしました。だから、ここは私の劇場なんです」
 あの日、泣き崩れていたあんこは、すっかりとナンバーワンキャバ嬢としての威厳を示すかのように、真っ赤なドレスに身を包み、完璧なまでの化粧を施していた。まるであの日の涙を隠したかのように。くるっとした瞳が、だからね、と時田に歩み寄る。
「時田くんには存分にここを使ってもらいたかったんだよ。ここを、また新しい一歩として使ってもらいたかったの」
「なんで……僕なんか」
「決まってるだろ」
 二階堂が立ち上がる。英国スーツ、ではなく、街中でごまんと見るような普通のスーツを着用した二階堂は「これが俺の普段着なんだよ」と時田がさっき到着したときに会話の流れで打ち明けた。
「またもう一度、進んでほしいから」
「進む……」
「もう立ち止まってほしくない。俺らがいるこの時間は、ずっと進み続けている──須王がいなくなっても、ね」
 劇場の小さな舞台だけはスポットライトを浴びている。ここに立つのが夢だった。もう一度、またここに立ちたいと思ってきた。
「……僕が進むわけにはいかない。僕は須王と一緒にいたのに、須王の死を止めることはできなかった。みんなから恨まれて当然だ。みんなが僕に怒るのも分かる。そんな僕が、僕だけが、先に進むなんて……須王を忘れていたのに」
「だからだよ」
 客席に座っていた小野寺が、暗がりの中で口を開く。
「時田くんの時間が止まっているから、私たちが動いたの。動かないと、時田くんはずっと二十八歳のままだって思ったから。ずっと須王くんのことを思い出さずに過ごしてしまうんじゃないかって。もちろん、須王くんを思い出すことで時田くんが現実を受け入れられなくて今度こそ殻に閉じこもってしまうんじゃないかとも思ったよ。でも、だからこそ私たちが受け止めようって決めていたの。どんな結果になっても、時田くんのそばにいようってみんなで話してた。記憶が改ざんされている時田くんを知ったときは驚いた。こんなにも受け入れられてないんだって。そんなにも大きな苦しみを背負ってしまったのかって。でも、須王くんはそれを望んでいない気がしたの。須王くんは時田くんに罪悪感を抱いてほしいと思っていたわけじゃない。時田くんに受け止めてほしかったんだと思う。時田くんに、自分の最期を見つけてもらいたかったんだと思う。須王くんは全部を、時田くんに託したんだよ」
 須王の眠っていたあの顔が勢いよく押し寄せてくる。思い出したくないと背けたくなるのを必死にこらえる。ここから逃げたら、また止まったままの生活を過ごしていくことになる。
「須王くんね、卒業して会いに行ったのは時田くんだけだったんだよ」
「え……」
「連絡があったの。時田くんがどこにいるのかって。私の友達が、時田くんを高校の近くにあった漫画喫茶で見かけたって言ってたから、そこで働いてるんじゃないかって伝えたことがあってね、時田くんに会いに行ったんじゃないかな」
 あの日、偶然再会したとばかり思っていた須王は、時田に会いに来ていた。何かを求めて、自分の元に来ていたのかもしれない。それなのに、立場は逆転していた。家に居場所がないと嘆く時田を須王は手を伸ばして救った。
「僕は……須王に何も」
 してやれなかった。本当に、なにも。
「そうだよ!」
 ずっと黙っていた柳が叫んだ。時田を責め立てるようにその場から怒りを飛ばす。
「お前は須王に何もしてやらなかった! 須王が唯一お前に助けを求めたかもしれねえのに、お前はただ一緒に暮らしてただけだって知ったとき、正直お前を一発殴ってやろうかと思った。なにしてたんだよって。お前は何もしてやらなかった!」
「柳! 落ち着け!」
 二階堂が柳を止めようとするが、柳は血走った眼をぶつけながら時田に衝突してくる。突き飛ばされ床へと転んだ時田を、柳が馬乗りになって罵倒を浴びせた。
「ふざけんな! 一緒に暮らしてただけなんてほざきやがって! 暮らしてたからこそだろうが! なのに自分が一番被害者みたいな顔して、あのときのお前があまりにも憔悴しきって誰もお前を責められなかったんだよ。なのに都合よく記憶喪失? ふざけんのも大概にしとけよ。暮らしてたんだろうが! 一緒にいたんだろうが! 近くにいれたじぇねえか、あいつの近くに! なんでこいつに助けを求めに行ったんだよ! なんでお前だったんだよ! 俺じゃなくて、なんでこんな役立たずのこいつに……! なんで俺じゃなかったんだよ」
 柳から溢れた感情が涙となって落ち、時田の頬へと伝う。時田に向けられている怒りとは違う。己に怒りを露わにした柳を誰も止めようとはしなかった。
 柳にとって、頼られなかった自分が憎くて仕方がないように見えた。柳に叩きつけられる言葉は正しい。どうして自分だったのか。もっと他に頼りがいのある人間はいたはずだ。
「須王はきっと、そんなことを求めてなんかいなかったんだよ」
 時田の上で項垂れる柳の腕をぐっと掴み引き上げたのは二階堂だった。
「求めていたのは頼りたい存在なんかじゃなくて、安らげる場所だったような気もする。それが時田の隣だったんじゃないかって。……俺さ、思い出したんだよ、須王が高校のときに言ってた言葉。〝なんか分からないけど、時田の前では息が出来る〟って。それって、そのままの意味だったんじゃないかって今になって考えるよ。ただ息がしたかった。その場所が時田の場所だった。それだけだよ、きっと。柳をないがしろにしたわけではない」
 誰もがきっと、須王という存在が特別で、そしてその関係性を特別だと思いたかったはずだ。自分が一番須王と仲が良かったと、誰だってそう思いたかった。柳の場合はそれが誰よりも想いが強かった。時田も、須王と一番仲がいいと胸を張って言いたかった。
 それぐらい、須王という男は魅力的で、男女問わず惹かれてしまうような存在だった。
 柳は時田の上からゆらりと立ち上がっては、顔を背けて大きく息を吐き出した。その背中が震えていたように見えたのは触れるべきではないのかもしれない。
 みんなが須王を大切にしていた。柳も、二階堂も、あんこも、小野寺も、そして時田も。
 全員にとって須王という男は欠かせない存在で、今もいてほしい存在だった。
「みんな、ごめん……本当にごめん。須王を助けられなくて、近くにいたのに、須王の役に立てなくて、皆に悲しい思いをさせて、こんなことまでさせて、本当にごめん」
 男らしくないほど、泣きじゃくった。頭を下げ、ごめんと乞う時田を、誰もいいよとは慰めなかった。それが時田への報いだったのかもしれない。
「ふざけんな……謝ってんじゃねえよ」
 時田の謝罪を切り裂いたのは背を向け続けた柳だった。震えた声で、それでも力強く、劇場に響くような声量で「二度と忘れんなよ」と時田に言う。それが答えなのだと、時田は深く噛みしめた。忘れてしまえることは楽だった。責任から逃れられるから。悲しみから離れられるから。
 それでも、忘れてしまっていいはずなどなかった。どれだけ悲しくとも、どれだけ後悔が残っていたとしても、それは自分の一部で、自分の一部を切り離していいわけなど絶対にない。須王という太陽を失った今、それでも俺たちは生きていかなければならない。生き続けなければならない。
「……劇、やろう」
 掠れた声で洩れていった時田の言葉を、全員が聞き取っていた。
「須王の劇を……須王のための劇を、やろう。須王に捧げる劇を、みんなで」
 この劇は、時田を動かすためにみんなが動いてくれたものだった。みんなが忙しい時間を縫って時田のために動いた。全ては須王との時間を進めるために。
 須王のための劇を。そして俺たちの劇を。
 手元には須王の脚本。唯一残された、須王の形見。
『始めよう』
 そう、須王の声が聞こえた気がした。
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