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第六章 やり直したかった

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 住所の場所へと訪れようと決心したのは、あれから二日経ってのことだった。
 家から完全に出られないでいた時田に、小野寺から連絡は入っていたが、さすがに返せる言葉はなにもなかった。心配をさせてしまっていることは重々理解していたが、忘却し続けてきた過去と向き合うのには覚悟と時間が必要だった。
 だからこそ、封筒の住所の場所へときたときは、須王との記憶がむせかえるほど溢れて止まらなかった。
 須王が住んでいた場所──共同生活をした場所。
 この場所さえ、時田は記憶から消し去っていた。この記憶にしたのもきっと、二階堂たちの策略の一つだったのだろう。時田が須王のことを思い出すきっかけにと、ここの住所を記したに違いない。
それでも時田は思い出せなかった。この場所を、そして須王のことも、須王の死も、何も、思い出せず、劇をしようなどと言ってしまった。全てを分かったうえで、あのときのメンバーの顔を思い出すと胸が嫌な形で歪んでいく。あれは単に驚いていたわけじゃない。ここまでして、それでもお前は須王のことが思い出せないのか、まだそんな馬鹿げたことが言えるのかと呆れ、引いていた顔だったのかもしれない。
 共に過ごしたワンルームマンションは、ポストがずらりと数多く並んでおり、主に若者の顔を見ることが多かった場所だった。近くに大学があったのも理由なのだろう。
 この場所で三年、須王と一緒に過ごし、高校時代では築けなかった新しい関係が生まれた。思えば高校のときよりも関係は深かったのかもしれない。この生活が続くような気がしていた。終わりがないような気がした。須王が帰ってくるのが当たり前で、須王がいなくなるなんて夢にも思わなかった。
 部屋の片づけが苦手で「洗濯はするけど掃除は時田がしてくれないか」と須王が照れたように言っていたのを思い出す。
 至るところに散らばった須王の私物を片づけるのは時田の役割だったが、それが苦になったことは一度もなかった。だから、須王が急に部屋を掃除し始めたときは驚いた。
「たまには綺麗にしとこうと思ったんだ。時田にも悪いから」
 いつもの顔で、へらっと笑ってみせた須王は何も時田に言わなかった。本当はもう掃除する気力と体力さえないこと。ここしばらく風邪だと言って寝込んでいたことが嘘だったこと。病気の進行がかなり進んでいたこと。
その全てを、須王は笑顔の奥に隠したのだ。黙々と部屋を片づけ、断捨離だとぼかぼかごみ袋に捨てていく姿を、時田は少し異変だなと思うだけで、深く聞くことはなかった。
 病み上がりで頭がおかしくなったのだな、ぐらいにしか考えていなかった。まさか死期が迫っているような顔には見えなかったのだ。必死にそれが取り繕っていた顔などとは、思いもしなかった。たまに掃除したくなる気分は分からないでもない。気が済むまでさせておけばいいと思ったことを今でも後悔している。あの手を、止めさせてやるべきだったと、日が経つにつれて頭を抱えてしまう。
 真っ白な服に身を包んだ須王のあの姿は、今思えば死に装束を纏っているとしか見えなかった。そんな恰好でありとあらゆる私物を捨てていくその心境は一体どんなものだったのだろうか。
 その瞬間を、時田は一つずつ消していった。思い出さないよう、後悔に苛まれ眠れなく夜を過ごすぐらいなら、須王との記憶を消してしまおうと、そう思ってしまった。
 共に過ごした部屋を外から眺めれば、そこはがらんと空室のように見える。たまたま住人がいないのか。はたまた須王の一件があって誰も入らないのか。あの部屋から自分も出てしまったことは間違いだったかもしれない。あそこにいるべきだったかもしれない。
 けれど、須王が亡くなってから、灰のようにうずくまっていた時田を母親が引きずりだした。ここにいるべきではないと、抜け殻のようになった時田の体をずるずると無理やり連れ出し実家へと戻された。荷物も一緒に。
 須王との思い出の場所を守ってやればよかったと思った。あそこだけが、須王がいた場所だったのに。
「実家は売るらしいぞ。じいさんが施設に入ったとの一報を受けたからな。家も取り壊されて更地になってるさ」
 生前、須王は言っていた。帰る家はここしかないのだと。ここがなくなると俺が帰る場所はなくなると。そんな場所を自分は守ってやることが出来なかった。たとえ須王がいなくなった世界だったとしても、それでも帰る場所を残しておいてやるべきだった。
 それなのに、耐えられなかった。須王の最期の姿を見たら──布団の中で静かに息を引き取っている顔を見て絶叫したあの瞬間を思い出すたびに耐えられなくなってしまった。
「時田、ありがとう」
 風邪も治り今日から仕事に復帰するという須王が、珍しく時田を見送った。いってらっしゃいでも、じゃあな、でもなく、自分に最後に残した言葉はありがとうだった。
「どうしたの、改まって」
「これでも時田には感謝していたからな。昔から、時田と一緒にいると、心が落ち着いたんだ。今もそれは変わらなかったよ。だからたまには言っておこうと思ってね」
 照れくさくなり「変なの」と顔をそむけたことを後悔している。ちゃんと顔を見ておくべきだった。どんな顔で俺の背中を見ていただろうか。どんな気持ちで俺を見送っただろうか。
 須王が死んだのはその直後だということを、時田は警察の死亡時刻を聞かされて知った。
 本当はあのとき、立っているのもしんどいぐらいに辛かったはずなのに。息をするのもやっとだったはずなのに。須王は最後まで何も教えなかった。何を抱えていたのか、須王は一度だって教えず、寂しくたった一人でこの世を去ってしまった。
 あれだけ必死に働いて得たかったものは、自分の医療費ではなく、あの土地を手放さないでいるということだった。固定資産税や管理費で須王の給料は水のように消えていったことも、須王の祖父の施設代も須王大我が払っていたことを、全てあとから全て知った。
 帰る場所がなくなってしまうということは、須王にとって耐え難いものだったのかもしれない。若くに両親を失い、肉親である祖父は認知症で須王のことを忘れていったらしい。
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