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第六章 やり直したかった

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 あの劇場から飛び出してどう戻ってきたのか思い出せない。けれど、きちんと家に帰ってきてるし、今はベッドの上で呆然と座っていたことを知る。あれからどれだけの時間が経ったのか。
 ふと壁にかけられたカレンダーが目に留まり、まじまじとそれを見つめる。
 白字に書かれている蛇のような文字を見て思う。ああ、これは自分のカレンダーではなかった。この字は須王のものだ。頑なにスマホを持とうとしなかったあの男が、こうして壁掛けのカレンダーにスケジュールを書き込んでいた。
 二年前の九月で止まっているのは、須王がその次の月以降スケジュールを書かなかったからだ。須王がこの世界から一人で旅立っていったから。そのときから、このカレンダーは、時田は、一度だって前に進んだことはない。
『文明の利器を使ってしまうと負けた気がするんだよ』
 よくそう言っていた須王は、過去に一度携帯を手にしていたことを知っている。高校生のとき、たった一週間ばかりで消えてしまったあの携帯は噂によると須王の祖父が壊してしまったという。本当かどうかは分からないが、須王は一度も携帯を持ったことも、そして消えていったことも口にしなかった。
 時田が放課後、帰宅途中の須王を見かけなければ、きっと一生知らなかった出来事のように思う。あのときの須王は、どこか嬉しそうに携帯を手にしていたような気がするが、本当のところはどうか分からない。
 須王の珍事件はまるで昨日のことのように思い出す。
 全校生徒を前にしていきなり体育館の舞台に立ったかと思えば「因果応報! 忌々しい悪の魂は自ずと自分に返ってくる!」と叫びだしたり、図書室の本を全て逆さにしていくという問題を起こしたりと、先生たちは須王のことで頭を抱えていた。その度に須王の母親が呼び出され、教員たちに何度も頭を下げていた光景を目にしていたが、当の本人は素知らぬ顔で窓の外を眺めていた。
 トラブルメーカーの須王だったが、不思議とあの男は愛された。須王を嫌いだと口にする人間はおらず、彼に引き寄せられていく人間は多かった。実際時田もその一人だった。友達一人、まともに作れなかった時田にとって、須王という存在はあまりにも遠かった。
 須王という男は本当に読めない男だった。読めなかったが、一度だけ深い悲しみを背負ったことを知っている。須王の母親が亡くなったときだ。そのときばかりは、さすがの須王も問題を起こすことはなく、おとなしくじっとしていた。葬式で見た須王の瞳は、とても綺麗な瞳をして、泣いていた。
「母親を外に出してあげたかったのさ。その結果があれだ」
 共同生活を初めて一年が過ぎたころ。高校時代の話になり、珍騒動ばかり起こしていた原因を聞いてみれば意外な答えが返ってきた。
「どうして……」
「鳥籠に閉じ込められた蝶は、幸せだと思うかい?」
 答えというより、質問だった。その質問の意図が、当時の時田には分からなかった。
 須王は多くを語らない。この時もそうだった。時田に見せた心の闇というのは、あまりにも少な過ぎた。父親が幼いころに姿を消したこと。母親が、義父によって軟禁されていたこと。決して外に出してはもらえなかったという事実は、大人になってから知らされた。
須王と再会しなければ、決して教えてもらうことはなかっただろう。ただ突拍子もないことを繰り返しているだけで、そこに意味なんて存在しないとばかり思ってきたというのに。
 須王は高校を卒業してすぐ、実家を飛び出した。実の祖父との関係を解消したかったというのが本音なのかもしれない。
「じゃあ、……その体の痣のことは、触れていいの?」
 時田の指摘に、須王は一瞬、顔を強張らせたように見えた。しかしすぐに、いつもの飄々とした表情に戻される。
「勲章なのさ、これは」
 共同生活を始めてから、須王の体には消えない痣があることを知っていた。それに触れてしまう勇気が今まで一度だって持てたことのなかった時田は、ここしかないというタイミングで踏み込んだ。須王は悲し気に笑みを作る。
「……大したことじゃないのさ。じいさんの悲しみが俺に向けられていただけの話だ」
 一人息子を失った絶望は孫である須王に集中してしまったそうだ。暴力という名の悲しみによって。
「母さんはこの痣を見て、余計に家から出なくてなってしまってね。本当は、母さんを閉じ込めてしまっていたのは俺なんだ。母さんから離れたくはなくて、一緒に暮らしていたくて、だからじいさんの暴力に耐えた。そうすれば、母さんは余計に家から出て行けなくなるからね。自分が出ていったらもっと暴力がひどくなってしまうんじゃないかって、そう考えてしまう人だったから。そこにつけこんでしまったんだよ、情けない話だろう」
高校時代、須王は自分の話をあまりしたがらなかった。人の話は大袈裟に聞くくせに、いざ自分の番となると口を閉ざしてしまうことが多く、触れてはいけない問題なのだと受け止めていた。周囲の人間も同じようなものを抱いていたと思う。
「大人になってから思うと、とても狭いとこで息していたのだと痛感するよ。こんなにも地球は広いのに、出ようと思えばいくらでも出られるのに、なぜ子供のときというのは、そこが世界の全てなんだって思ってしまうのだろうね。あまりにも小さい水槽にいることを、誰かが教えてくれないと分からないさ」
 だから飛び出したんだと、あの家から出てきたのだと、須王は時田に教えた。きっと自分が知っていた須王よりも、今の須王の方が見ている世界が広いのだなと思う。すごく広くて、いろいろなものが見えていて、須王の心を豊かにしてくれているとばかり思っていた。
 その心が、すり減っているなど思いもしなかった。視野が狭くなってしまっていることを誰よりも近くにいたというのに知らずに過ごしてしまった。思い返せば、須王からの小さなサインが確認出来ていたのに。気付けたはずなのにと、今になって後悔してしまう。
 須王が出してきたとばかり思っていたあの犯行声明文。あれを見たとき、どうして須王のことを一瞬でも思い出さなかったのだろうか。小野寺に指摘され、時田は初めてその存在を認知する。そこまでして葬りたい過去だったのか。
 あの一通の紙だけで、十年──いや、十二年会わなかったメンバーと再会したことは、あまりにもうまくいきすぎていたのだ。本当は最初から全て仕組まれていたことで、自分は手の中で踊らされていたにすぎないというのに。
 視界の片隅でひっそりと眠るあの犯行声明文は、今も所在なさげにダンボールの上で転がっている。田畑がここを訪れたときに「なつかしい」と目を細め眺めていたときのまま。
「あれ……住所」
 何気なく手にとった茶封筒は例の犯行声明文が包まれていた。今さらになって、どうしてその裏の住所を調べなかったのか、そしてそこが自分とは関わりのない場所だとどうして決めつけていたのか分からなかった。スマホのマップでそこの住所を調べるまでは。
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