上 下
26 / 34
第五章 愛されたかった

(3)

しおりを挟む
「まさか、その男の家族じゃ……」
 一瞬、言葉を失った時田に、小野寺は静かに首を振る。
「最初はそう思ったの。奥さんがいなければ、私たちは幸せに過ごせるって。すごいよね、愛って。殺意なんて簡単にわ沸いちゃうんだから。でも、違うの。違う、私が手をかけたのは、自分の子供だったから」
 あの家族に勝てる武器をくださいと願った小野寺に、神様は新しい命を小野寺のお腹に宿した。あの人の子供。そう思うとうれしくて、あの人なら絶対に喜んでくれると胸が弾んだ。
 早く報告したくて、でも電話で伝えるよりも直接顔を合わせて伝えたい。喜んだ顔を見せてほしい。そう思ったことが、一番間違っていた。
 子供が出来たのと、あの人に伝えたとき、さあと血の気が引いていくような顔を見たのは初めてだと思った。頬がみるみる緩んで、目を細めて、心から喜んでもらえると思っていたその反応は、彼の「まじかよ」と呟いた一言で粉々に砕かれていった。
「子供って……なんで。危ない日にはしたつもりないけど。俺、散々聞いたよな? 今日は大丈夫かって。そしたら大丈夫だって言ってたよな」
 初めてだった。まくし立てるようにこの人から責められたのは。喜びどころか、怒りに満ちたその顔を見せられたのは。
 そこでようやく気付いてしまった。ああ、この人が私にくれていたものは全て、自分が都合よく生きていくための言葉でしかなかったんだと。
 囁いてくれた愛の言葉も、自分に与えてくれた熱も、全てこの人だけが自分のためだけに放出しているものだと知ったときには、もう全てが遅かった。
 馬鹿だった。自分はあまりにも馬鹿だった。同年代の子を知性がないと内心罵っていたくせに、自分が一番知性に欠けていた。自分が子供だから、ずっと騙されていた。世の中を知らないから、大人の世界を知らないから、だから都合が良かった。自分の欲を満たせれば、どれだけだって嘘を吐き続けてきたのだろう。男もまた、小野寺を子供扱いしていた。
「悪いけど、これで全部片づけて」
 ぽんと渡された大金は、今思えばなんて醜いはした金だったのだろうと思う。ちょうど支払いで使おうと思ってた金で、帰ったら嫁に渡すつもりだった、とかなんとか言っていた。ベッドの上に放り投げられた数枚の諭吉。
 なんで、どうして、別れたいって言ってたじゃない。私が好きだって言ってくれてたじゃない。
 そう叫ぶ小野寺を、男は躊躇いもなく頬を叩きつけた。その痛みが、自分の父がぶつけてくる痛みとよく似合っていて、吹っ飛ばされた床の上で、惨めに転がる。
「だからガキは嫌なんだよ』
 そう吐き捨てたあの言葉が、今でも鼓膜に張り付いている。
 離婚なんてするわけねえだろ。子供だから適当にできると思ったら妊娠なんかしやがって。二度と俺の前に顔を出すんじゃねえ。
 知らなかった。子供が出来たら幸せになれると思っていた。もう誰にも負けないし、この人と幸せに過ごしていけると本気で思っていたのに。
 でも、違った。本当に知らなかったのは、偽りの恋愛に子供なんて必要はなかったし、願っていいものでもなかった。この人が本当は奥さんを愛していたことも、家族を失いたくないことも、小野寺は知らなかった。けれど、どこかで分かってもいた。
 この男から言われたことがなかったんだ。家族になろうよと。
 好きだよ、愛してるよ、とは何百回と言われてきたのに、家族になろうとは一度だって言われたことがなかった。その言葉があれば、もうなにもいらなかったのに、あの人は決して小野寺にくれようとはしなかった。
 家族になろうなんて最初から微塵も思っていなかったことを、子供を授かってしまってから理解してしまった。
 どれだけ馬鹿なのだろう。どれだけ私は馬鹿だったのだろう。
 震える手で産婦人科を調べた。行ったこともない場所で、宿ったばかりの命を、私はなんてことをしようとしているのだろう。なんてことを、私は今までしてきてしまったのだろう。
 遅れれば遅れるほど、手術が受けられなくなることは知っていた。ここから先、お腹が膨らんでしまったら隠せなくなる。未知の世界だったから、どれぐらいでお腹が出てくるとかなんて分からなかったから、ひたすら恐怖と戦っていた。早くいかなきゃ行けないのに、早くお腹から出してもらわなきゃいけないのに。途端に足が竦んで、産婦人科には行けない。
 そんな時だった。須王に救われたのは。
 朝、学校へ行く電車の中で気分が悪くなり、普段降りない駅で降りたのを須王が追いかけた。
 どうした? 大丈夫? そう聞いた彼に平気と答えるだけで精一杯で、本当は吐いてしまいたくて仕方がなかった。何度か話はしたことがあったけれど、さすがに吐くところを見られるわけにはいかない。そう耐えている中で、
「使って、これ。吐いたら楽になるよ」
 さっきコンビニでパン買ったときの袋、と付け加えられたところまでは聞こえた。吐ける場所が目の前にあると分かった途端、胃の中から全てのものが出ていった。
 げえげえ吐く小野寺に、須王は何も言わず、ずっと背中をさすった。
 妊娠していることを小野寺は誰にも言えなかった。あれから、ずっと一人で抱えてきた。それなのに、仲良くもない須王だけが、小野寺が妊娠していることを見破った。
「俺、洞察力はあるんだ。あと、勘もよく当たる」
 自販機で買った水を小野寺に差し出しながら須王が言った。ありがとうとお礼を伝えながら、すごい才能だねとつけくわえる。
「なにがあったか教えてくれないか」
 そう言った彼に、濁流のように流れてきたのは、愛していた人からふるわれた暴力の一部。ぶるっと寒気が襲い望萌はふるふると首を懸命に横に振り続けた。言えない、ぜったいに。ぶたれたことも、子供を望んだことも、自分の愚かさを告白しなければならないことが小野寺は耐えられなかった。
「言わないことと、言えないことは違う。言わないと決め込んでいるのか、それとも言えないのか、どっちか教えて」
 須王の声はまるで鈴のようだなと感じた。軽やかで、けれども心に響く音。どっちもだけれど、しかし後者かもしれないと言った小野寺に対し、じゃあ言えるまで待つと須王は言った。
「小野寺が言えるようになるまで、何時間でも何日でも待つ。多分、小野寺が今抱えているものは、一人では決して解決できないものだから」
 ホームに行き交う人々は、二人に視線は投げても気遣いを見せることはない。大都会とまではいかないが、それでもここは都市部に近い。人はうじゃうじゃといる。それなのに、ホームで吐く女子高生に足を止める大人はいなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冤罪! 全身拘束刑に処せられた女

ジャン・幸田
ミステリー
 刑務所が廃止された時代。懲役刑は変化していた! 刑の執行は強制的にロボットにされる事であった! 犯罪者は人類に奉仕する機械労働者階級にされることになっていた!  そんなある時、山村愛莉はライバルにはめられ、ガイノイドと呼ばれるロボットにされる全身拘束刑に処せられてしまった! いわば奴隷階級に落とされたのだ! 彼女の罪状は「国家機密漏洩罪」! しかも、首謀者にされた。  機械の身体に融合された彼女は、自称「とある政治家の手下」のチャラ男にしかみえない長崎淳司の手引きによって自分を陥れた者たちの魂胆を探るべく、ガイノイド「エリー」として潜入したのだが、果たして真実に辿りつけるのか? 再会した後輩の真由美とともに危険な冒険が始まる!  サイエンスホラーミステリー! 身体を改造された少女は事件を解決し冤罪を晴らして元の生活に戻れるのだろうか? *追加加筆していく予定です。そのため時期によって内容は違っているかもしれません、よろしくお願いしますね! *他の投稿小説サイトでも公開しておりますが、基本的に内容は同じです。 *現実世界を連想するような国名などが出ますがフィクションです。パラレルワールドの出来事という設定です。

【完結】花水木

かの翔吾
ミステリー
第6回ホラー・ミステリー小説大賞エントリー。  ゲイ作家が描く、ゲイ×短編ミステリー。  母親が行方不明となった6歳から18歳までを児童養護施設で暮らした小泉陽太。昼は自動車の修理工場で働き、週末の夜は新宿の売り専で体を売っていた。高校を卒業し、21歳となった今まで、3年間、陽太の日常は修理工場と売り専にしかなかった。そんなある日、花水木の木の下から白骨死体が発見されたニュースを目にする。だがその花水木は幼い頃から目を閉じると描かれる光景と同じだった。満開の花水木の下、若い男に手を引かれる少年。何度と描いてきた光景に登場する少年は自分自身だと言う認識も持っていた。関わりの大きい花水木。発見された白骨死体が行方不明となった母・茜ではないかと、疑いを持つ。  白骨死体は母・茜なのか? もし茜なら誰が花水木の木の下に埋めたのか? それに幼い少年の手を引く若い男は誰なのか? ——ラスト3行で真実が逆転する。  激しい性描写はありませんが、一般倫理に反し、不快に思われるだろう性描写があります。また同性愛を描いていますが、BL ではありません。日本ではまだジャンルが確立されていませんが、作者の意図はゲイミステリーです。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

ロリっ子がおじさんに種付けされる話

オニオン太郎
大衆娯楽
なろうにも投稿した奴です

春の残骸

葛原そしお
ミステリー
 赤星杏奈。彼女と出会ったのは、私──西塚小夜子──が中学生の時だった。彼女は学年一の秀才、優等生で、誰よりも美しかった。最後に彼女を見たのは十年前、高校一年生の時。それ以来、彼女と会うことはなく、彼女のことを思い出すこともなくなっていった。  しかし偶然地元に帰省した際、彼女の近況を知ることとなる。精神を病み、実家に引きこもっているとのこと。そこで私は見る影もなくなった現在の彼女と再会し、悲惨な状況に身を置く彼女を引き取ることに決める。  共同生活を始めて一ヶ月、落ち着いてきたころ、私は奇妙な夢を見た。それは過去の、中学二年の始業式の夢で、当時の彼女が現れた。私は思わず彼女に告白してしまった。それはただの夢だと思っていたが、本来知らないはずの彼女のアドレスや、身に覚えのない記憶が私の中にあった。  あの夢は私が忘れていた記憶なのか。あるいは夢の中の行動が過去を変え、現実を改変するのか。そしてなぜこんな夢を見るのか、現象が起きたのか。そしてこの現象に、私の死が関わっているらしい。  私はその謎を解くことに興味はない。ただ彼女を、杏奈を救うために、この現象を利用することに決めた。

お兄ちゃんはお医者さん!?

すず。
恋愛
持病持ちの高校1年生の女の子。 如月 陽菜(きさらぎ ひな) 病院が苦手。 如月 陽菜の主治医。25歳。 高橋 翔平(たかはし しょうへい) 内科医の医師。 ※このお話に出てくるものは 現実とは何の関係もございません。 ※治療法、病名など ほぼ知識なしで書かせて頂きました。 お楽しみください♪♪

My Doctor

west forest
恋愛
#病気#医者#喘息#心臓病#高校生 病気系ですので、苦手な方は引き返してください。 初めて書くので読みにくい部分、誤字脱字等あると思いますが、ささやかな目で見ていただけると嬉しいです! 主人公:篠崎 奈々 (しのざき なな) 妹:篠崎 夏愛(しのざき なつめ) 医者:斎藤 拓海 (さいとう たくみ)

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

処理中です...