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第五章 愛されたかった

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「時田くん」
 練習を終え、劇場を出ようとした時田の背中に、小野寺が声をかけた。
「今日、まだ時間ある?」
 ちょっと付き合ってほしくて。そう続けた小野寺の背景が輝いている。夜の街の、賑わうネオン。そこに小野寺がいるということが、どこかまだ信じられない。
 残りのメンバーが言葉にしなくとも、時田と小野寺のやり取りを気にしているのが分かった。
 小野寺は、須王の一件に絡んでいる。それを言い出したのは二階堂だった。
 疑惑の目が向けられていることを、小野寺は知っているのだろうか。小野寺に真意を確かめたいと思ったことは何度かあったが、その度に、問いかける適切な言葉が見つからないでいた。
 仮に、小野寺が須王と関わりがあったとして。ではその目的とはなんなのだろうか。脅迫文のようなあの手紙に、小野寺が関わっているというのか。自分の子供を抱いて、そんなことをするような心を、小野寺は持ち合わせているというのか。
 近くのカフェに入ろうと提案したのは時田だった。しかし、時間帯が悪く、カフェも喫茶店もほとんどがシャッターで閉じられていた。
 ファミレスにでも行こうかと言った時田に、小野寺はある場所を指差した。あそこにしよう。人差し指の向こう、辿った先には白い光を放つ赤い自販機。
「本当にこんなんでいいの? ちゃんとしたお店に入った方が」
「こういうところがいいんだよ。なんだか懐かしくて」
 小銭をじゃらじゃらと入れる。何がいい? と小野寺に聞けば、じゃあお言葉に甘えて、と優雅に微笑んだ。奢られることがうまい人の顔だった。
 小野寺が選んだのはホットのほうじ茶だった。自分が決して選ばないものだからか、セレクトしたものが落ちてきた時は、じっと見つめてしまう。
 時田の視線を察したのか、小野寺は笑う。
「私、カフェイン飲めないんだよね。頭が痛くなるの。それに授乳中ってこともあるから、カフェインは避けるように言われてる。でも本当は飲みたいんだよ、紅茶とか珈琲とか」
 制限のある生活に、窮屈感を覚えているようで、それが自分では解放することが出来ないことにもどかしさを襲う。そうすることはお門違いだろうに、初恋相手というのは特別だ。
「僕は逆に飲めないんだ。紅茶とか珈琲。味が強すぎて」
 薄味思考だった母親の元で育ち、飲料は麦茶か水しかなかった。時々、牛乳を与えられることもあったが、イベントの時だけというレアリティさを持っていた。誕生日を祝う場所や、入学祝いや、そんなおめでたい時にだけ許されるのが牛乳。ジュースを飲ませてもらうことは人生で一度だってなかった。
 時田は無難に水を選んだ。いつの日か、水に金を払うなんて信じられないと言われたことがあったが、時田にとっては心外だった。美味しい水を買うだけのこと。味を求める人間もいれば、味を求めない人間がいることも理解しようとしない。その視野の狭さに辟易してしまう。
「そっか、味が強いって思う人もいるんだね。その認識は私にはなかったな」
 小野寺は、時田の水について、深く聞くことはなかった。ただ視線を水にやっただけ。こういうところが、好きだった。人との心の距離をきちんと図ることが出来る。そういうところも時田にとっては魅力に感じられた。
小野寺はゆっくりと、深呼吸するように空を見上げた。
「なんか久しぶりに空見たなあ」
 感慨深げに言うものだから、時田は苦笑してしまう。
「いつも見えるようなものに?」
「いつも見えるようなものが、見えなくなるんですよ」
 小野寺は寂しそうに、けれども冗談交じりに時田へと返した。
「子供産んでから、自由なんて本当になかったから。今でも、こうやって子供預けて外に出て行くことをあまりよく思われていないんだけどね。泣いてる子供の声とか聞こえると、やっぱり行かない方がいいんじゃないかって後ろ髪を引かれるっていうか」
 普段は滅多に子供の話をしようとしない。それは、小野寺なりに気を遣っているのだと思う。気を遣わせないために、気を遣っている。今は須王のこと、劇のことだけを考えたいという意思を最大限に尊重している。
「こうしてゆっくり、星を眺めるなんて、やっぱり難しい。子供が寝てからって思うけど、寝かしつけてると一緒に寝ちゃうし。育児がこんな大変だなんて思わなかったよ」
 ヘロヘロです、と。そう言った小野寺は、確かにあの子の母親だ。子供を持つ親の顔をしている。その証拠に、可愛いだよ、うちの子。でも可愛いだけで過ごせているわけじゃないもんだね、と軽い口調で言ってのけてしまう。
 時田には育児の大変さというものは分からない。しかし小野寺が普段、育児に奮闘している姿が想像出来た。
「小野寺に子供って、会ってもピンとこないもんだね」
「あ、それよく言われる。結婚なんてしないタイプだと思ってた、とか」
「少し分かるかも。小野寺って自分の夢に貪欲だったし」
「ちょっと、それは失礼」
 モデルの夢を叶えたいのだと、一度小野寺から聞いたとき、時田はすぐさま自分の気持ちを殺し、小野寺ならいけるよと後押しした。実際に小野寺なら有名なモデルになれるのではないかと期待していたし、何度かネットの検索窓に彼女の名前を打ち込んだこともあった。
 ヒットしてほしいと願っていたのは、自分の気持ちを殺したことが正解だったと思いたいから。小野寺から打ち明けられたのは、卒業式当日だった。すぐさま「夢を諦めないで」と彼女の背中を押した時田だったが、本当は告白をしようと思っていたなんて、小野寺は知らない。上京して夢を追うのだと言われた瞬間、時田の一世一代の告白は幕を閉じたのだった。そもそも、俺は犯罪者の息子だ。告白していい身分でもない。
「結婚生活はうまくいってる?」
 出来るだけ自然にと努めた時田だったが、少しだけ声が上ずってしまった。こんなことを聞きながら、うまくいってないよ、と返ってきたらいいのにと思ってしまう自分はどれだけ心が狭い人間なのだろう。
「可もなく不可もなく、って感じかなあ」
 そんな時田の期待をよそに、グレーゾーンで返ってきたその問いに「そうなんだ?」と首をかしげる。今更ながらに新婚に対して聞く内容ではなかったなと後悔が募る。うまくいっていないわけがないじゃないか。
「旦那は結婚してすぐに海外に転勤になっちゃったから。きちんと夫婦になってからは一緒に過ごしてないから分からないんだよね。うまくいってるのかどうか」
 たしかに、と時田は頷いた。本来であれば、毎日顔を合わせるはずの家族が近くにいないのだ。それは可もなく不可もなくなのだろう。
「正直ね、話がうまくいきすぎだなって思うんだ」
 小野寺が自分の子供の髪をやさしく撫でながら、苦笑を浮かべた。
「子供が生まれてすぐ海外転勤って、それって本当に断れなかったのかなって。会社によっては家庭事情を汲んでくれることもあるでしょう? 子供が生まれたばかりなら転勤の話ももう少し先だね、とか。そういう話、なかったのかなって考えちゃうの。……もしあったとして、あの人は断らなかったのかなとか。……離れたかったのかな、とか」
 ぽつり、ぽつり。まるで降り始めた雨のように言葉を落とすのだなと時田は黙って聞いていた。願っていたような展開だけれど、小野寺の寂しそうな顔を見てしまっては素直に喜べるはずもなかった。
「授かり婚だって言ってもらえるけど、でもできちゃった婚には変わりないから。子供が出来て、仕方なく結婚したんだろうなあって、こうして離れちゃうと考えるよね。だめだよね、分かってるんだけど、こういうのよくないって。よくないんだよ、ね」
 それは時田に聞かせているものなのか、はたまた小野寺自身が言い聞かせているものなのか、時田には分からなかった。変に意見を言うのも間違っているような気がして、そっかと絞り出すように声を出した。
 この話と、今日自分を呼び出したのには関係があるのだろうかと時田は考える。上手くいっていないことを伝えているのだとしたら、それは自分に助けを求めているということなのだろうかと。
独り身の自分とはずいぶんと違う環境に小野寺は戦っている。未練がましく初恋を引きずる自分とは大違いだ。
「時田くんを呼び止めたのはね、実は須王くんのことなの」
 突拍子もなく、小野寺が言った発言に時田は反応するのが送れた。小野寺と目が合い、それからようやく、脳の信号が青に変わった。実は須王くんのことなの。その指令が、身体全身に巡っていく。
「……須王?」
「そう、時田くんはどう思っているのかなと思って」
 思い出されるのは、二階堂の言葉。小野寺は須王の一件に関わっているかもしれない。その可能性が今日まで消えたことはない。
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