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第四章 感情を爆発させていた

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 ──あの日。文化祭当日のあんこからは、須王からの愛が切れてしまった。
 須王から注いでもらった愛を、一身に受け止めたはずなのに、あんこの心は急速に乾いていった。
 これまで一生懸命、準備をしてきた。その集大成となる今日は、本当に素晴らしい日だ。須王が作り出した世界に、あんこは酔いしれていた。
 全員で手を繋ぎ、観客に向かって頭を下げている最中。自分たちが作り上げた劇に対して、袖で見ていた男子生徒たちが言った言葉。
 ──この劇に、豚役って必要だったか?
 笑いを堪えるような、噛みしめたような声。それが自分に向けられていることに、あんこは耐えられなかった。
 豚役。豚役。豚役。豚。豚。豚。
 須王があんこに与えた役は、優しく、誰にでも分け隔てなく接することの出来る、まるで小野寺のような役だった。全員を照らす、太陽のような存在。
 うれしかった。本当に、うれしかった。決して、自分を女神だと思っていたわけではない。しかし、役でなら、劇の中でなら、許されると思った。そう思っていた自分が浅はかだったのだ。屈辱だった。馬鹿にされたということが。そして、須王のこの素晴らしい物語を汚してしまったことが。
 この舞台に立ててよかったと、数秒前まで思っていたはずなのに。途端に逃げ出したくなる。観客から向けられる視線が怖い。豚だと、思われているんじゃないか。それよりももっとひどいものに見えているんじゃないか。怖い、怖い、怖い。見ないで、誰も見ないで。お願いだから、私を見ないで。
 時田が死のうとしていることに気付いたのは、おそらくは自分だけだったと思う。
 屋上のフェンスを乗り越えた時田の姿を見たとき、なんで、と疑問だった。
 死にたいのは私なのに。どうして時田さんが立っているの。さっきまで、舞台で感極まり涙を浮かべていたことを知っている。私のように、心ない言葉を浴びせられたわけでもないのに、どうしてそこに立っているの。

 明るく脱色された髪色。耳朶につけられたシルバーのピアス。あんこには似合わないはずなのに、似合ってしまう。それは、ここに染まりきってしまったからだろうか。
「本当は誰かに知らせたり、私が屋上に駆け付けたりするのが正解だったはずなのに、私は動けなかったんです」
 遠くでグラスが割れる音がした。店内が一時、騒然とした。何やら口論しているようだった。しかしそんなことが気にならないぐらい、時田はあんこの独白に耳を傾けていた。
「ずっと、屋上を見上げていました。時田さんが死んでしまうかもしれないのに、ずっと時田さんのことだけ見て。私の前を通り過ぎていく女の子たちが、次はどこどこのクラスに行こう。あそこにはイケメン店員がいるから、と。そんなことを話してるのに、私が見てる先では、生と死の狭間にいる時田さんがいる。世界が分離しているように見えました」
 こいつが俺を馬鹿にした。年収が低いと馬鹿にする。辞めてしまえ。こんな女、さっさと追い出せ。こいつが悪い。どうせろくでもない人生送ってるくせに。
 大人が慌てふためく。罵声を浴びせられている女の子は泣いていた。遠くで確かに起こっているというのに、その感覚は鈍い。ああ、もしかしたらあの日のあんこも、こんな気持ちだったのかもしれない。ここだけ、時間の流れが違うように。
「思ってたんです。時田さんが飛び降りたら、私も飛び降りようって、そう決めてました」
 謝れよ。土下座しろ。俺を馬鹿にしてすみませんでしたって、床に頭つけて謝れよ!
 うるさい。でも、遠い。遠い場所で起こっていること。同じ空間にいるけれど、遠い。
「死にたいって思ってる人間は少なくないんだって知りました。こんな身近にもいたんだって衝撃で、でも時田さんなら、そうかもしれないって納得もしました。あのころの時田さん、辛そうでしたから。時田さんの家庭のことを知らない子はいなかったと思います。だから、たとえ私が駆け付けたとしても、時田さんを止める権利がなかったんです。時田さんが死を選ぶというのなら、それはそれで受け入れられた話だったはずだから。飛び降りるなら、飛び降りて。そしたら私も続くから、だからそうして、と。ひどいでしょう。私、あの時、そんなこと思ってたんですよ」
 口角が震えていた。無理に笑おうとして失敗した、見ていられない痛さの笑い。
「人の死の覚悟を利用してではないと、私は死を選べなかった。弱いんです、ものすごく。他人がいないと私の人生は成り立たない。だから、時田さんが死を目前にしてる顔を見た時だって、ああよかったって思いました。私だけじゃないんだって。最低だと思いながら、でも最低だと自分を罵ることにも疲れがやってきます。自分の中にとどめておけばいいのに、こうして話すのは」
『話せないこと、私はいっぱいあります。話したくないことばかり。でも、時々誰かに聞いてもらいたくなる。自分の中にはとどめておけないときがきて、溢れてしまいそうになる。でも、溢れたなにかを拭く術がない。だから誰かに拭いてもらいたくなるのかもしれないです。また溢れる前に戻れるように、だから聞いてもらいたい』
 全く同じことが、今のあんこに起こったのだろう。だから言葉を省いた。このための前置きだったのもしれないし、意図していなかったのかもしれない。真相は分からない。
「……僕は、あんこの思いを、拭いてあげることが出来ないよ」
 そんな力はない。あんこの心が楽になるような気持ちのいい台詞を吐けるわけではないし、ましてや慰めるなんてことも時田には出来ない。別に自分の死を利用したって構わなかった。死という選択肢がちらついてしまうほど、あのころのあんこが苦しい思いをしていたということには変わりがない。だからよかったのだ。そんな罪悪感を抱かなくて。罪だと思わなくて。
 あのとき、あんこに何があったのだろう。なぜ死にたいと思ったのだろう。なぜ、屋上を見上げたのだろう。それを聞いたところで、おそらく自分には、あんこを溢れる前に戻すことが出来ない。戻せることが出来るのはきっと、あんこが心を許す人。
「いいんです。今のは、拭いてもらわないことが正解ですから。溢れたそれさえも、自分で始末することが、この場合は一番正しい。ごめんなさい、っていうのと、それから、ありがとうって言いたかったんです。あの時、仮に時田さんが飛び降りようとしてたとしても、私が本当に時田さんを追うようにして死ねたかと聞かれると、多分死ねませんでしたから。時田さんが飛び降りた姿を見て、きっと怖くなったはずです。だから、飛び降りることを、死ぬことを、やめてくれてありがとうございます。ここにいてくれて、ありがとうございます」
 気付けば、店内で暴れまわっていた男が消えていた。黒服によって取り押さえられたのだろうか。今では、数人の大人が男の痕跡を排除するように、片付けに回っている。
「僕のおかげじゃない。あんこが強いから、ここにいるんだよ。でも、そうだな。このシャンパンでおあいこにしよう」
 そう言うと、あんこはようやく微かに笑みを浮かべた。そうですね、と。そうすることが正しいのだと、今は判断したのだろう。
「ねえ、あんこ」
「はい?」
「どうしてモモって名乗ってるの?」
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