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第四章 感情を爆発させていた

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 噂。あんこが言うそれは、付き合っていたという意味で解釈すればいいのだろうか。だとしたら、そんな話は聞いたことがない。無論、それを教えてくれるような人間が、時田の周りには誰もいなかった。文化祭のメンバーは、文化祭が終わると、自然に関係が薄れていき、時田はまた孤独へと戻っていった。しかし須王が時田を気にかけてくれているということだけは伝わっていたし、時田もまた、須王には心を許していた方だと思う。
「それって、あれじゃないか。妊娠させたとかなんとか」
 二階堂も知っているようで、あんこの話に付け加えた。妊娠、させた。誰が、誰を。
「……それって」
 聞きたいようで聞きたくない。認めたくないようで、認めざる負えない。おそらくそれは、どう考えてもその二人だ。小野寺と須王。二人の話。
 あんこは頷くと、「産婦人科に」と噂を続けた。
「二人が揃って入っていったのを見たって子がいるそうです。真実かどうかは分かりませんし、小野寺さんに直接それを聞いた子の話によれば、本人は否定しなかったとか。それをきっかけに、一時期はかなり騒がれていました」
 あの二人がどうして。嘘ではないのか。ただの噂でもないのか。なぜ小野寺は否定しなかったのだろう。それは、本当だったということなのだろうか。そういうことなのだろうか。
 初恋相手があの当時、妊娠していたかもしれないという衝撃。そしてその相手が須王だったというショッキングな内容は、時田の心をぐわりとかき乱していく。
「須王さんも、当時は答えをはぐらかしていたように見えました。結局、真実が語られることはなく、そのまま噂も風化していったので、この話がどこまで信憑性があるかは、私にも分かりません。ただ、小野寺さんは何か知っているんじゃないかと、そう思ってしまって」
 あんこが嘘をついているようには見えなかった。二階堂も噂は知っているようで、しばらく黙っていたが、それ以上に黙っていたのは柳だった。一言も話さない。柳にとって知らなかった噂なのか。それとも、知っていた噂なのか。はたまた、知り過ぎている噂だったのか。表情から読み取ることは出来ない。
「憶測で話してすみません」
 力なく、そして罪を背負うように、あんこは言った。そこに小野寺を陥れたいという意図はなさそうだった。本当に過去、そういうことがあったということだけ。そして、この場にいない小野寺の噂を、ここで話すしかないと覚悟しただけ。それだけだったのだろう。
「……須王と共犯ってことか?」
 店に客が一組、また一組と足を踏み入れる。賑やかさを増していく店内で、柳が確かめるようにそう言った。
 それは、と言いかけたあんこだったが、弱々しく、分かりませんと続けた。最初の勢いで口にしようとしたことは、違います、だったようにも思えたが、その勢いは、ふと減速する。
「最初のきっかけを思い出してほしいんだけど」
 皺のない白いシャツが目に入る。二階堂が言った。
「この一件って、小野寺が最初に言い出したことだと思うんだ」
 きっかけを思い出してほしい。二階堂の台詞が遅れて時田の元に届く。
 言われてみれば、という節があった。一通目のあれが届いた際、時田は悪戯か何かだと思った。須王の仕業かもしれないというのは、小野寺に初めて指摘されて分かったことだ。
「小野寺の話では、手紙が届いて、それからすぐに須王なんじゃないかと思ったって話だったよね。それから、時田に連絡した。同じものが届いていないか。それから柳に連絡をし、柳から俺、あんこに話が流れついた。俺は手紙が届いてることすら知らなかったから、仕事から帰ってきてポストを確認したってとこだけど、あれを見て、すぐに須王の仕業だとは思えなかったと思う」
 発端はこの手紙──そう思わされているだけじゃないのか。きっかけを作ったのは小野寺だったというように考えたとしたら、須王が出てこないのも分かる。須王と小野寺は共犯。表に出る役と、裏に潜む役。舞台の上に立つ人間と、裏方に回る人間。
「小野寺は、須王が行方不明になった一件と絡んでいるんじゃないかと思ってる」
 あんこが息をのんだ様子だった。目を見開き、衝撃に耐えられない顔をしている。それを見て、二階堂はあんこに謝った。
「ごめん、あんこ。やっぱり話すべきだと思う。あんこだけの責任には出来ない」
 一体、何があったというのだろうか。この二人の仲でしか理解出来ないことが語られている。そして、二階堂から放たれた一言。小野寺が須王の行方不明の一件に絡んでいる、と。
「時田、思い出すことはない?」
 海の底のような色をした二階堂の目が、時田を見つめていた。
「おかしいと思うことはない?」
「二階堂さん!」
 なんだ、なんでそんな目で俺を見るんだ。思い出すこととは一体なんだ。
「須王が消えた。小野寺が敵かもしれない。そのことで思うことはない?」
 それを話したのは二階堂じゃないか。その可能性があることを話したのは。
 それなのに、なぜ、俺に答えを求めているのだろう。何を求められているのだろう。
 冷や汗が流れていく。背中を伝っていくそれは、二階堂から心情が読めない視線を向けられているからだろうか。いや、と口にするのが精一杯で、喉が渇いているように声が出ない。
「やめようぜ」
 時田の焦りが頂点にのぼったころ、柳が止めた。
「こんなこと話してるだけ無駄だ。現実は変わらない」
 それは、二階堂に向けているようでもあり、柳自身に言い聞かせられているようにも見えた。

「時田さん、こういう時はシャンパンでも飲みましょう」
 後味の悪い解散が告げられ、時田は駅と向かう最中だった。その後ろを追いかけてきたのは、あんこで、いつの日かのように「お店に送ってくださいませんか?」と泣きそうな笑みで言った。
 人生で初めて入ったキャバクラに時田の心臓は激しく鳴り続けていた。胸を叩いてくる鼓動の音と、全身の穴から吹き出す汗は、時田の動揺を煽り続けている。
「そのうち緊張も取れると思います。こういう時はお酒に限りますからね」
「いや、でもあんこ、俺は金があるわけじゃなくて」
「時田さんが出してもらおうなんて思ってませんよ。これは私の奢り、というやつです」
 煌びやかな世界で全く引けを取らないあんこの姿は逞しく見えて仕方がない。ヨレヨレのシャツを着てきた時田とは天と地ほどの差がある。
「でも、お詫び、という意味もあるんです」
 ソウメイお願いしますと黒服に伝えたあんこ。ソウメイがなんなのかは分からないが、隣の席に座っていた女の子がちらりとこちらを伺ったのが見えた。高い酒なのだろうか。
「結果的に、あんな形になってしまったのには私に原因がありますから」
 小野寺の高校時代の話だろうか。ボトルを手にした黒服によって運びこまれたシャンパンがいかにも高そうな輝きを放っている。これを飲むだけで時田のバイト代は水のように消えてしまうのだろう。
「時田さん、小野寺さんのことを今でも好きなんですね」
 グラスに注がれた薄い黄金色が、店内の輝きをより一段と輝かせる。え、と洩れてしまったのは、あまりにも唐突で、それていて不覚だったからだ。
「私、この世界に入って、いろんな人に出会ったんです。それはもう、覚えていられないくらい」
 そう苦笑しながらも、きっとあんこのことだから、全員覚えているだろうに、という思いが浮かんだ。真面目過ぎる故に、抜くことを知らない。
「だから、職業病ですかね。その人が抱えている想いとか、話してると分かってしまうんです」
 グラスを渡される。乾杯と、控えめに祝いながら、あんこはそれを口に含んだ。
「……初恋の人っていうのは、特別だから」
「そうだと思います」
 あんこは頷いた。同調してくれているというよりは、同感だというようなニュアンスだった。
「だからこそ、私があの場で話したことは、時田さんを傷つけました。初恋の人の、噂程度の話を、時田さんの耳に入れるべきではなかったと思っています」
「それでも、あんこは話したでしょ。俺がいてもいなくても、あんこのタイミングはあそこだった」
 前にあんこが言っていたことを思い出す。話すべきタイミングというものが、この世の中にはある。今ではない。今かもしれない。きちんと見極め、話しをする時が。
「……ええ、話したと思います。時田さん関係なく話しました。どうか私を恨んでください」
「大袈裟だよ」
 そう笑ったが、あんこは笑わなかった。首を振り、違うんです、と視線を落とす。グラスの中にあった気泡はなくなっている。
「覚えてますか? 前に、タクシーで言ったこと。私、あの日、時田さんが須王さんと二人でいるのを見たって」
 思い出す。車内で、笑顔の消えたあんこの顔。言われた瞬間、顔が引きつる感覚。
 空を見たかったんだと、そう言った時田に、あんこは、そうでしたか、とあっさり引いた。それならよかったんです、と。しかし今、またあの時に戻される。
「私、本当は知ってたんです」
 隣から聞こえてくる笑いが、嘘のようだった。ここまで届いているのに、その波はどこにもない。笑いが、起きない。
「飛び降りようとしてるって」
 風がびゅうびゅうと拭くあの感覚。ひんやりと冷たい緑のフェンス。今でも鮮明に思い出すことが出来る。あんこに視線を戻す。どうして、声にならなかった。それを見て、あんこは薄く笑う。
「あそこに立つのは私でしたから」
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